平等な人間関係を積極的に受容し、促進、維持することで、自分が自分のために話し、行動し、臆することなく自分の権利を守りながら活動できるようになることです。
そうすることで、 自分の感情を率直に表現し、他者の感情も自然な形で受け入れ、互いの権利を侵害することなしに、自分の権利を行使できるようになること。
アサーティブ、アサーティブ、アサーティブネスの考え方は1960年代に起った公民権運動と密接に関係しています。
アサーティブネスに密接な関係がある公民権運動とは、アメリカに於ける黒人差別に対する運動でした。
■アサーティブネスの歴史
アメリカ 1896年。
アメリカ最高裁が下した「分離すれども平等」という考え方は人種差別待遇は憲法に違反しないと判決を下しました。
「分離すれども平等」とは、白人と黒人を分離して暮らす体裁をとっても、せ別していることにあたらないという解釈です。もちろんまやかしです。
この判決によって白人と黒人が同じバスに乗ったり、学校へ行ったり、レストランで食事したりすることができなかったのです。
1954年には「ブラウン裁判」が行わました。
「ブラウン裁判」とはカンザス州に住む黒人ブラウンは自分の娘を近所の小学校に入れたいと願ったが、白人学校という理由で拒否されたことで、教育委員会を相手どって起こした裁判です。
実際には黒人組織NAACPが白人社会に叩き付けた闘争といえるこの裁判は、最高裁に持ち込まれます。
全米が固唾を飲んで注目した判決の行方は、事実上まやかしであった「分離すれども平等」の判決を覆すという歴史的な結果となります。
しかしこの判決に不満をもつ白人感情は激しい闘争にエスカレート。
KKKの黒人リンチ事件が相次いで発生するようになり、陽気なアメリカ人の暗い影の部分が浮き彫りになりました。
1955
年12月、後に公民権運動の母と呼ばれたローザ・パークスという女性が、アラバマ州モントゴメリーの市バス内で席を移るよう求めた白人男性に敢然と拒否、バス運転手の通報で駆け付けた警官に逮捕され、収監されました。
「もう我慢しない」と決めたローザ・パークスの 事件をきっかけに、当時ほとんど無名だった故キング牧師を中心とした長期間の抗議行動に発展。
翌58年に米連邦最高裁が差別は憲法違反とする判断を下しました。
白人社会への黒人の対抗が強くなる一方で、1954年、黒人音楽であるゴスペルやリズム&ブルースをベースにした白人によるロックンロールが誕生します。
1956年には、アメリカ全土の若者を熱狂させました。
その原動力になったのがエルヴィス・プレスリーでした。白人でありながら黒人のように歌う彼のパフォーマンスは文化を変えるに十分な威力がありました。
エルヴィスが歌ったクリスマスレコードをオンエアしたDJが首を切られたり、レコードが焼き尽くされたり、コンサート会場の貸し出し禁止などが相次いで起りました。
しかし世の中は従来の価値観から変わりはじめていたのです。
そして、1963年8月28日、黒人の公民権運動のために「私には夢がある」と訴え全米の黒人の心をひとつに束ねたマーティン・ルーサー・キング牧師率いる20万人のデモ行進がワシントンで行われます。
やがてその抗議は全米で黒人暴動という形で広がっていきました。
米ソ冷戦、ベトナム、国内外に問題を抱えたまま、3ヶ月後にフロンティアスピリットを訴えたジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件が発生。
さらに2年後の65年にハーレムでマルコムX暗殺、その4年後、北アイルランドで公民権運動が起こりました。
アサーティブネスは、黒人差別に対抗したこの公民権運動にはじまり、やがて女性差別に対抗した1970年代の女性解放運動に引き継がれました。
アサーティブネスの基本概念は人は誰でも自分らしく生きる権利があるというものです。
黒人も白人と同じ権利を持っていいのではないかという主張は、白人を否定するものでもなく、あなたもOK、私もOKの主張です。
同じく女性もOK、男性もOKの主張です。
それは、ひとはみな、 誰かに強要されたり、抑圧されることなく、自分の考え。 感じ方を率直に表現してもいいということです。
自分を認めることは、同時に他者も認めることなのです。