■自分に関心を持つのが怖いからです。
でも、本当は関心を持つだけの値打ちが自分にはあるんですよ。
イチロー語録に学ぶ「じぶんを大切にする方法」
いじめはこどもの世界だけでなく大人の社会でも起こっています。
誰もいじめとは思わないけれど、行き過ぎたグチも、すでにいじめの領域に踏み込んでいるかも知れません。ご用心、ご用心。
でも、そんなに他人が気になるのは、自分の貴重な時間を、それだけ他人のために使っているということです。もったいないでしょう。
他人に無関心になるのも困ったことだけど、頼まれもしないグチを言ったり、いじめたりでは、喜ばれないし、なんだかつまらない。
自分のことに時間を使ったり、意識する方が自分のためになるのに、そのつまらないことがつまらなくないのが不思議です。そのわけがあの大リーグでがんばっているイチロー選手の言葉から見えてきます。
「そりゃ、僕だって、勉強や野球の練習は嫌いですよ。だれだってそうじゃないですか。つらいし、大抵はつまらないことの繰り返し。でも、僕は子どものころから、日標を持って努力するのが好きなんです。だってその努力が結果として出るのはうれしいじゃないですか」
(イチロー:談)
年間の200本安打にこだわるイチロー選手の言葉です。
「努力が結果として出るのはうれしいじゃないですか」は誰でも願いことだし、そうだったらいいと思います。
でも、 自分を信頼できない者はうなずく一方で、別の考え方をします。
イチローほどの実力があるから目標を持てると・・・・。
そんなふうに思う人でも、次の言葉を聴くと、見方も少し変わるはず・・・
「ここまでヒツトを重ねるには、それよりはるかに多い数の凡打を重ねなくてはいけない。
やっぱり思うことは2000という表に出る数字じゃなくて、それ以上にはるかに多い数の悔しさを味わってきたことのほうが僕にとっては重い気がします」(イチロー:談)
・・・目標に向かう気持ちをくじくのに十分すぎる挫折はイチロー選手にもあります。
ありますというより、他の人たちより断然多いはずです。
挫折は誰にでもつきもの、ハイレベルになればなるほど、挫折も多い。それを挫折と思わないのはどうしてだろう。
ある者は決定的に傷つき、ある者は挫かれない。それはどうして、なにが違うのだろうか。
それでも挫けない秘密は、次の文章にあります。
「ぼくの夢は一流のプロ野球選手になることです。
そのためには、中学、高校で全国大会へ出て、活躍しなければなりません。
活躍できるようになるには、練習が必要です。
ぼくは、その練習にはじしんがあります。
ぼくは3歳のときから練習を始めています。
3歳-7歳までは半年くらいやっていましたが、3年生の時から今までは365日中、360日ははげしい練習をやっています。
だから一週間中、友達と遊べる時間は、5時-6時間の間です。
そんなに、練習をやっているんだから、必ずプロ野球選手になれると思います」(イチロー)
これはイチロー選手が、小学校6年のときに書いた作文だそうです。
この作文にくじけない秘密と関連して、「自分はきっとやれる」と思う自己肯定スキルがしっかりと育まれていることが発見できます。
練習漬けの毎日ですが、練習をすることで、「友達と遊ぶ時間もないほど、こんなに練習をやっているんだから、プロ野球選手になる以外にないだろう。これだけやっているのだからそれしかないだろう」という実感を手に入れています。
こどもごころにも、自分と自分の時間を野球に投資しているのだから、その結果を引き受けていくしかないと選択肢を失うほどに、自分を追い込んだ者のつらさでもあるのですが、それが自信になっています。
この時イチロー選手は、この現象に対して、ネガティブにもポジティブにも判断できる立場にあり、判断の選択をする権利もイチロー選手にあります。でも野球のスキルが上達していることもあり、ポジティブな判断に傾き、「必ずプロ野球選手になれると思います」と結論づけています。
この状態を自分の選択で継続したことで、野球のスキルと、自己肯定スキルをはじめとするライフスキルを身につけることが雪だるま式にどんどんふくれあがっていったわけです。説教的に自己主張する力が自分の努力によって育まれていったのです。
さらに イチロー選手の「個人主義的な印象」の真実が見えます。
国別対抗戦「ワールドベースボールクラシック(WBC)」で、王監督率いる日本チームに参加したイチロー選手の印象に違和感をもった方も多かったと思います。
それまでの「個人主義的な印象」と違ったからです。
でも、イチロー選手の言葉をつないでいくと、もともと「個人主義」でもなんでもないことが分ります。
自分はOK、まわりの人もOK、自分を肯定してまわりの人も肯定していることが、小学校6年のときの作文から見えてきます。
自分はOK、まわりの人もOKの背景には自他境界、つまり自分とまわりの人は別個の人間だという明確な分別がついていて、自分のやりたいことを自分はする。でもそれはともだちにも同じことが当てはまると分別がついているということです。自分を尊重するようにまわりの人も尊重するということです。
それを裏付ける言葉があります。
「自分にとって、満足できるための基準は少なくともだれかに勝ったときではない。自分が定めたものを達成したときに出てくるものです」(イチロー:談)
イチロー選手は自分をまわりの人と比較していません。
自分はOK、まわりの人もOK。のポリシーが明確ににじみでている言葉です。
自分に自信のない者、つまり自分を肯定的にとらえられない人は、無意識のうちにまわりの人と比較して、なにかにつけて競争的になります。
自分が勝手に劣等感をもっているからです。
その劣等感が自分を苦しめます。
ますます自己否定的になってしまい、それによって傷つきます。
でも、もうこれ以上傷つきたくない気持ちが強迫的に動いてしまい、競争的になり、なんでもいいから他の人より勝っていることを感じたくなります。
これは社会問題になっている「いじめ」の根本にある原因です。
いじめは、関係のない他人を弱い立場に追い込んで、その上で自分が優位にたって、自分は勝っていると感じたいだけのこと。とってもさびしい作業です。それで何も解決しない。
だって、いじめている人も、一番関心があるのは他人より自分のはず。
自分への関心でいっぱいの人が 自分にかまわずに他人にかまうわけだから、いくらいじめても欲求不満がおさまることはない。
何もそんなややこしいことしなくてもいいのです。
自分にかまっていいんですよ。かまってあげるだけの値打ちが自分にはあるのだから。
他人をいじめることより、自分にかまうことの方が、自分にとってどんなに大切なことか。
「夢を持つこと」「目標を持つこと」がどんなに大事なことか。
黙々とバットを振っているイチロー選手の背中が語っていることを全国の人に聴いてほしい気持ちでいっぱいになります。
ヒット一本打つたびに、
外野からホームめがけて飛んでくる矢のようなボールが、
自分にかまう値打ちが君にはあるんだよ、自分にかまえよと言ってるようです。
だから、いじめをなくそうとしたら、「いじめるのをやめなさい」というではなく、目標を持たせることです。
「いじめるのをやめなさい」と言っても、いじめている者には、そうせずにはいられない理由があります。
いじめる側の者にある自己否定感、つまりコンプレックスの処理の仕方を間違えているのです。
大人なら自分で、こどもならこども自身と周囲の人は 「いじめるのをやめなさい」ではなく、正しい処理の仕方を教えてやらないといけない。
他人をいじめることより、自分にかまうことの方が、自分にとってどんなに大切なことか。
「夢を持とう」「目標を持とう」をアプローチこそが必要なんでしょうね。
具体的な夢や目標を持つ作業にかかわって、サポートしてあげないといけない。自己肯定スキルを高める道を探し、身につけるようにしたほうがいいのです。
でも、自分を信頼できない子供や大人には、そんなアプローチは届きません。届かないけれど。届いてほしい。
自分を粗末にしても誰ひとりとして得しない。くやしいのは誰だって同じなんだから。
「ここまでヒツトを重ねるには、それよりはるかに多い数の凡打を重ねなくてはいけない。やっぱり思うことは2000という表に出る数字じゃなくて、それ以上にはるかに多い数の悔しさを味わってきたことのほうが僕にとっては重い気がします」(イチロー:談)
くやしい思いをするたぶに、自分に向かってきたから、いまのイチローがある。それは誰にでもあてはまること。
くやしい思いをするたぶに、他人に向かったり、無関係なことで気晴らししても、意味ないでしょう。
たとえば、こんな話を聴く機会がよくあると思います。
コップの中に半分水が入っている。それを見て、もう半分しかないと思う人。まだ半分あるもあると思う人。同じものを見ても考え方はこうも違う。
ポジティブ発想、ネガティブ発想についての事例に、よく使われる話です。
このイチロー選手の談話は、どうでしょうか?
彼は失敗に関心があるようですが、そうではありません。
彼の言いたいのは、悔しい思いをするたびに、どうすれば打てるのかを考え工夫したことを言いたいのであって、ネガティブな発言ではなく、常にポジティブだったと言いたいわけです。
つまり、「打てなかったときに、落ち込む人は多いけれど、ぼくはそうじゃない。打てなかったときほど、やってやると闘志がわき、考え、工夫して、練習をした」ということです。
それを裏付ける言葉があります。
「やれることはすべてやりましたし、どんなときも手を抜いたことは一度もなかった。やろうとしていた自分、準備をした自分がいたことは誇りに思います」(イチロー:談)
イチローは特別な人でなく、みんなと同じです。 事実そのことを本人が一番知っている。
だからこそ、みんなと同じだけど、みんながしていないこと、つまりイヤになったとき、落ち込みそうになったとき、野球から離れたくなるときほど、野球に打ち込んだことを、誇りにしたいと言ってるのです。
できないことでも、あきらめずに、どうしたらできるのかを考えて行動したことです。
バットを置いて考えるのではなく、置かずに、いつも振りながら考えたということです。過去の成功も未来の不安もない。
ただいまこの瞬間、どうしたら打てるのかと、練習中も試合中も考えながらバットを振っているだけなのです。だから不安になっているヒマがない。
とてもシンプルです。
でもたいていの人は、嫌気がさして、失意の内にバットを置いて気晴らしに全然違うことをする。あるいはバットを置いて考える。あるいはさっさとあきらめる。
そして、これが一番重要なことだけど、それと引換に自己肯定感を失っているのです。
自分はダメだと思うようになってしまうのです。
「成功にはいろいろあると思うんですけど、自分の中で立てた目標というものを成し遂げた。
そのことを成功だというのなら、わかります。
でも、他人が言う成功を追いかけ始めたら、なにが成功かわからなくなってしまいます」(イチロー:談)
ビジネスも、勉強も、遊びも、本当の自分を外に出すためのツールみたいなものです。
自己実現でない成功もたくさんありますが、それは世間の尺度で測った成功であって、自己実現でないことが少なくありません。
本当の意味での成功とは自己実現ではないでしょうか。
つまり自分がしたいことができたというよろこびです。
他者の尺度で測った成功は自分の成功とは呼べないと思います。
自己実現こそ成功と呼べるわけで、成功は他者と比較できる性質のものではありません。
イチロー選手の場合は、「夢を持とう」「目標を持とう」です。
自分はOK、まわりの人もOKですから、まわりの人は比較する存在にならない、競争の対象にならない。
いじめというのは。自分のやりたいことが分らない、あってもできない、あるいはしないことに始まるのではないでしょうか。
つまり自分への関心が薄れて、他人に関心を寄せざるをえない状況に陥ったときに、自分への憎しみが無関係な他者に向けられた状態です。
なんで、自分への憎しみが起こるのかというと。本人は気がついていないけれど、自分がしたいことを放棄したことへの怒りです。
自分が引き受けないといけない怒りなんだけれど、それがきつくて耐えられない。
イチロー選手のように自分のやりたいことを自分で引き受けてチャレンジしていたら、自分にも、対象となること(イチロー選手の場合、野球です)には、愛情はわくけど、憎しみは起こらない。
自分の目標を達成するために一生懸命だから、まわりの人のことなんか気にしていられないのです。
だからいじめなんか考えたり、やってるヒマがない。どうしたら打てるのかに忙しい、
考えていると不安にもなるばかりです。それではイチローのように行動している人は不安がないかというと、実は取り返しのつかないリスクを背負って行動しているのです。
時間を使っているのは、金を投資しているのと同じです。もう二度と使った時間は戻らない。
だから、イチロー選手のこの言葉が重いのです。
「やれることはすべてやりましたし、どんなときも手を抜いたことは一度もなかった。
やろうとしていた自分、準備をした自分がいたことは誇りに思います」(イチロー:談)
イチロー選手の言葉・・・
「いま小さなことを多く重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道なんだなというふうに感じてますし。激アツでしたね、今日は」(イチロー:談)
「なんでこんな細かいことまで気にしなきゃいけないんだって、ホント嫌になることもあります。自分が勝手にやっているんですけどね。したくないんだけれど、やっぱりやっとかなきゃというのはある」(イチロー:談)
冒頭に掲げたこの言葉をもう一度考えてみましょう。
「そりゃ、僕だって、勉強や野球の練習は嫌いですよ。
だれだってそうじゃないですか。つらいし、大抵はつまらないことの繰り返し。
でも、僕は子どものころから、日標を持って努力するのが好きなんです。
だってその努力が結果として出るのはうれしいじゃないですか」 (イチロー:談)
目標を持つのか、持てるのか。
どちらにしても目標が目標になっていくのは、自分の行動の結果です。
目標を設定できる力によります。
目標を設定する力は自己肯定スキルに支えられています。
自己肯定スキルは、 つらいし、大抵はつまらないことの繰り返しによって得られる結果によって、どんどん深まります。
温泉に入っているより、もっと心地良いことを知ると自己肯定スキルは高まります。
「自分以外の人が作る状況によって、白分が幸せに感じられる、うれしく感じられるとは思わないんですよね。
自分がなにかをやることによって、自分が幸せを感じるならばわかるんですけれどね。
単にそういった状況を見て『ああ、自分は幸せだなあ』っていうふうには思わないですね」(イチロー:談)
人生は自分の手のなかにある。自分の行動は自分で選択ができる。
誰かのせいにしたり、誰かに絡んで気を紛らわしたり、誰かが用意したもので、時間を無為に使うも使わないも自分の選択だということです。
世の中はお金をもらうために、面白いこと、楽しいことを用意します。
物 を買うとのと同じように、、遊園地に行くのと同じように、つまらないから、他人をいじめるって、なんだか簡単すぎないですか?
イチロー選手が言う大抵はつまらないことの繰り返しとえらい違いです。
でもそれと引き換えに自分を失うか、自分を自分の手のなかにおいておくか、それをするのは自分の選択です。
「第三者の評価を意識した生き方はしたくない。自分が納得した生き方をしたい」(イチロー:談)
イチロー選手がいまこう語ることができるのは、毎日自分の目標に向かって、小さなことを粗末にせずに繰り返し繰り返し実行してきたからです。
我慢する力がイチロー選手を支えているのです。
ところが、我慢は自分を抑圧すること、つまり我慢は損をすること、自分の気持ちを殺すものと思い込んでいる方が多く、最近は特にその傾向が強くなっています。
では、抑えた欲求はどうなるのでしょうか?
どうやらその点が「我慢」の解釈が人によって違う原因になっているようです。
でも、「我慢」はより自分の真の欲求に近づくためのもので、ポジティブ志向なのです。
我慢は、衝動的な欲求を自分自身で認識して、長期的な利益を考えた上で、欲求をふさわしい行動に変える技術のこと。
何が何でも自分にとって利益にするためのポジティブな行動です。
自己実現・・・それは、とてもシンプルなこと。
まずは目標を持ちましょう。思うように達成できなくてもいいじゃないですか。取り組んでいる自分のなかに本当の自分がいるのだから。
【インタビュー 参考】「イチロー思考―孤高を貫き、成功をつかむ77の工夫」(
児玉光雄 著 東邦出版)
|