いつもニコニコと、周囲のへの配慮も欠かさずわがままを言わず、「いい子」だねって言われて成長してきたひとの痛みは本人にしかなかなか判らないものです。
ひとは、表面の態度や表情で判断しますが、そうであればあるほど「いい子だねね」と言われることは、苦しいものです。
傷ついていても、何事もないような表情をしたり、怒っていても、怒っていないふりをしたり、つらいときでも楽しそうにふるまう。
ひとは誰でも安全な状態で成長しているわけではなく、特に感受性の強いひとには大変です。
無力な少女時代に、そうしなければならない事情があったから、そうしているのです。
いい子にしなければならない事情とは、大人の期待に応えるためです。
評価は大人がしますので、大人の評価は高く、いい子にしていると安全、安心が約束されたのかも知れません、
その反応の仕方、態度、表情が習慣化したものは、成長しても容易に変われません。いつも明るい素直なひとに見えても、実は人一倍傷つき苦しみ孤独を感じていることは少なくありません。
身についた殻は、自分でも打ち破るのが難しいものですが、難しいほど周囲の「いい子だね」は重荷になり、身体に食い込むかのような痛みが新たな傷をつくります。
ひとりで頑張ってきた痛み、つらさ、悲しみを理解してあげましょう。
しかし、その一方で、その我慢に苦しんでいることを判ってほしい、対等に扱ってほしいひとや、評価されたくないひとの前では、本当の自分を表現したくなるのは自然なことでしょう。
その背景には、自分で自分を評価したい自立心が働いています。
「いい子だね」って言われると、怒りがこみあげてくるというのは、健康な証しといえます。
もし、知らずに思わず「いい子だね」って言ってしまったことによって、機嫌が悪くなった事例は少なくありません。
人の期待通りに行動する自分を自分が好きになれないのは、それこそ自然な反応といえます。
周囲の知らないひとは面食らうことでしょうが、心秘かに応援してあげて、打ち解けてきたら、大いに励ましてあげるようにしたらいいでしょう。
いい子を長く続けていると、他者の欲求を第一に取り込んでしまうために、自主自立の精神に不足が生じたり、自分で自分の目標設定をすることが苦手になってきます。
自由な環境を与えられてもどうしていいのか判らなくなったりします。
このような苦しみは、知らず知らずに自尊感情を弱めてしまい、自己否定のスパイラルからの脱出を困難にします。
また、当事者である「いい子」さんは、積極的に自己表現していくようにしましょう。
気をつけたいのは、日本独特の風土、慣習です。私たちが暮らす社会は「記号」が好きな社会です。物事を掘り下げて考えることもせずに、安直に記号化して判ったような顔をして過ごすことが蔓延して、そのために不必要に傷つけられていることが少なくありません。
他人が平気で自分を「記号」で判断したり、決めつけます。
たとえば、独身、既婚関係なしに40代〜のひとに対しては、本人のあり方には無関係に「おとうさん」「おかあさん」、「おじさん」「おばさん」と’平気で呼びます。
アメリカでは成人に対しては、あくまで男性、女性として扱います。
こういう観念が蔓延しているため、後期高齢者という呼び方も平気で出来てしまうのでしょう。
こういう社会に暮らしている分、「いい子」のラベルは重くのしかかります。
そのことを忘れず注意したいものです。
▼わたしは、いつも次の切リ抜いた文章(「内なる子どもを癒す」チャールズ・L.
ウィットフィールド 著)を持ち歩いています。
私に編されないで。
私がつくろう顔に編されないで。
私は仮面を、千の仮面を被っているから、それを外すのは怖くて、
どれひとつとして私じゃない。
うわべを飾るのは、第二の習性となった技巧、
でも編されないで、
お願いだから編されないで。
あなたに、私は大丈夫という印象を与える、
すべては順調で、私の内も外も静かに落ち着いているという、
自信が私の名前で、クールなのが私のゲームといった、
水面は穏やかで、私は指揮権を握っているといった、
私は誰も必要としないといった。 でも私を信じないで。
表面は穏やかに見えても、表面は私の仮面、
つねに変化し、つねに姿を隠す仮面。
その下に安心の字はない。
その下には混乱と恐れと孤独が居座っている。
でも私はそれを隠す。誰にも知られたくない。
私の弱みや恐れがむき出しにされると考えるだけで、私はうろたえる。
だから私は血迷ったように隠れ蓑を付ける、
何気ないふうな、洗練された見せかけの仮面を、
うわべを飾る手助けをしてくれる、
見抜いているといった眼差しから私を守ってくれる仮面を。
でも、そんな眼差しこそが私の救済。
私の知る唯一の希望。
つまり、もしその後に私が受け入れられるのであれぱ、
もしその後に愛があるのであれば。
それは、私を私自身から解放してくれる唯一のもの、
私の自分で築き上げた牢獄の壁から、
私があんなにも丹精込めて作った砦から。
それこそが、私が自分自身に確証できないものを、
確証してくれる唯一のもの、
私にもじつのところ何らかの価値があるのだと。
でも私は、このことをあなたに言わない。
あえて言わない。怖いから。
私はあなたの眼差しの後に受け入れが、
その後に愛が伴わないのではと恐れる。
あなたが私を劣っていると思うのでは、あなたが笑うのではと恐れる、
あなたの嘲笑は私を殺すのだから。
私は、結局のところ何者でもなく、ただ駄目な人間であることを恐れる、
あなたがそれに気づいて、私を拒否することを恐れる。
だから私は私のゲームをプレイする、命がけの、扮装ゲーム、
表に確信のうわべをつくろい、
内なる子どもは震えている。
そうしてきらびやかな、けれど空虚な仮面のパレードが始まる、
私の人生は前線となる。
私は無為に、ロあたりのよいうわべだけのおしゃべりをする。
本当のところどうでもいいことは、全部あなたに話す。
本当に大切なこと、私のなかで泣いているものについては、
何ひとつ話さない。
だから私が私の決まりきった私を演ずるとき、
私の言っていることに編されないで。
どうか注意深く聞いて、私が言っていないことを聞いて。
私が言ってみたいことを、生き延びるために言わなくちゃならないのに、
私が言えないでいることを聞いて。
私は隠れたくない。
うわべだけのいんちきゲームはしたくない。
そんなゲームはやめてしまいたい。
私は本物で、自然で、私でありたい、
でもあなたが助けてくれなくちゃ。
あなたの手を差し伸べてくれなくちゃ、
たとえそれが、私が一番嫌うことのように見えても、
私の目から生ける屍のうつろな凝視を拭えるのは
あなただけ。
私を生に呼び戻せるのは、あなただけ。
あなたが親切で寛容で励ましてくれる時いつも、
あなたが本当の気遣いから理解しようとしてくれる時いつも、
私のこころに翼が生え始める、
とっても小さな翼、
とってもかよわい翼、
でもそれは翼
私の感情にふれるあなたのパワーで、
あなたは私に命を吹き込める。
あなたにそのことを知って欲しい。
あなたが私にとってどんなに大切か、知って欲しい、
あなたは私という人間の創造者、
そう、真面目な話、創造者になりうることを、
もしあなたがそうしたいのならぱ。
あなただけが、私がその後ろで震えている壁を取り崩せる、
あなただけが、私の仮面を取り払える、
あなただけが、うろたえと半信半疑の私の影の世界から、
私の孤独な牢獄から、私を解放できる、
もしあなたがそうしたいのならば。
どうかそうして。私をやり過ごさないで。
あなたにとってやさしいことではないはず。
自分は役立たすとの久しい確信は、強大な壁を築く。
あなたが私に近づくほど私はより盲目的にはね返すかもしれない。
それは不合理なこと、だけど本に書かれている人間とは違って、
しばしば私は不合理。
私は欲しくてたまらないまさにそのものに対して闘いを挑む。
でも愛は強大な壁よりも強いと人は言う、
そしてそこに私の希望はある。
どうかその壁を打ち壊して、
堅固な手で、
でも優しい手で、
子どもはとても敏感だから。
私は誰、とあなたはいぶかるかもしれない?
私はあなたがよく知っている人。
私はあなたが出会うあらゆる男だち、
あなたが出会うすべての女たちなのだから。
「内なる子どもを癒す」チャールズ・L.
ウィットフィールド 著 誠信書房:刊より
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