「火宅の人」という映画があります。昭和の文豪、檀一雄の自伝小説を映画化した骨太の作品です。
劇中、盗みを働いた息子の身柄引受に警察に行った帰り道、ふたりは食事をします。
その席で、「お父さんはいつだって、お前の味方だ」という印象的な場面があります。
信じるに足る根拠を求めず無条件に信じる・・・・まさに信頼です。
もし、父親が信じるに足る根拠を求めたらどうなるでしょう?
この先、息子がなにをするか分からないとあったこと、なかったことに思いを馳せると果てしなく妄想は広がります。妄想は不信をどんどん増殖します。
不信は、伝染し、止まることなく拡大します。疑われた者は、ネガティブな想像を働かせ、不信は現実になります。
不信は、どこから生まれるのでしょう。
いま「のりピー(酒井法子)」のことが毎日報道されます。NHKが事実を淡々と伝えるのと違い、民放、特にワイドショーでは、全部と言っていいほど「上から目線」です。
不信の正体は、ほとんど、「上から目線」のギャップなのです。
出来る者から、出来ない者を見ると、・・・・・「なぜ、できないの?」「それではダメだね」・・・・ギャップの宝庫です。
親・教師・上司は、子ども・生徒・部下に比べて経験も知識も豊富です。
その高い立場から物事を見ると、、どうしても相手の欠点。弱点が目立つので、相手を低く見ます。
いま.のりピーは、上から目線の嵐を浴びています。
のりピーのこどもさんも同じ立場にあります。
それを気の毒と言おうものなら、「罪を冒したものを見逃せと言うのか!」と、批難が浴びせられそうな勢いです。
事実、「芸能界復帰なんかさせてはいけない」と公言する芸能人もたくさんいるようです。
その言葉の奥には「更生したら・・・」という気持ちもあると察しますが、いまこそ信頼が必要なのです。
「罪を憎んで人を憎まず」ということわざがあるように、行為と人間を分けることが大切なのです。そんなことを言い出したら、犯罪者なんかいなくなる。世界は無法地帯になると思われるでしょう。罪は罪です。その補いは避けようもありません。
しかし、上から目線で見る人は、見られる人と比べて、圧倒的に優位な立場にあります。だからこそ、先にそのポジションから降りることが重要なのです。
不信が不信になるとき、双方が不信になるものです。信頼をするときも、双方が信頼しないと信頼は成立しません。
片方だけが信頼しても信頼は成立しません。相互に信頼した場合のみ、信頼は本物になります。
だから、圧倒的に優位な立場ある側から、先にその立場を捨てない限り、対等にはなりようがないのです。
対等でない信頼はあり得ません。
優位あるいは上位にあるものが勝手に相互信頼していると思い込んでいるだけで、下位にあるものは思えないのが普通であって、そこには不信しかない。
不信をはね返して信頼を勝ち得ようと、意志して取り組むしかないのです。
しかし、それが出来ないから、事件は起こっているのです。
誘惑に負けてしまった母親のリピーを、終始上から目線で否定し続ける一方で、こどもが可哀相と、さらに上から目線で親子を叩く。こどもが学校でいじめにあわないように危惧する声が上から目線でこぼれる限り、同級生は上から目線で接することでしょう。負のスパイラルは止まらない。
事態を最小限に防ぐには、優位に立つ側に、罪は罪、罰は罰として、同時に人としての尊厳を守り、そこに相互に信頼する意志の発露が必要なのです。
どんな場合にも、イエスという。
その姿勢を身につけることの大切さを学ぶ機会なのです。
それは、こういうことです。
もし、あなたが親なら、こどもより先に「おはよう」を言う。
もし、あなたが上司なら、部下より先に「おはよう」を言う。
もし、あなたが教師なら、生徒より先に「おはよう」を言う。
相手の反応を待たない。相手の反応を気にしない。
それで対等に近づけるのです。
もし、「のりピーの記者会見」があったとしたら、
あなたが記者なら、のりピーより先に「おはよう」を言う。
その程度のやさしさがあってもいいのではないか。
それでどうにか少しは、対等に近づけるのだから。
叱るなら対等になってから、
きつい質問をするなら、対等になってから
対等になるために、 だから・・・・・それでも私はあなたにイエスと言う。
孤独から壊れていく人を勇気づけるひとことは、
・・・・・それでも言う「イエス」にある。
現実はギャップある状態より、対等だから通じることの方が多いのです。