アサーティブに親密な関係を避けていると自分が壊れてしまう
自分の願望が叶わないと思うとき、諦めるのはつらいが、人はガードするのが上手です。願望を「持たなければいい」のだ。さらに積極的に願望を否定すればいいのだ。こうして自分にトリックを仕掛けてまんまと騙してしまう。
「私はお父さんに会いたい」は、やがて「私はお父さんが大嫌いだ」に変わってしまう。「お父さんなんかに会いたくない」の本当は「私はお父さんに会いたい」だった。
自分のニーズを根底から否定するのは、ニーズを逆転させてしまうと、ニーズのかけらさえないことになるからだ。しかし一時的な対策として効果を発揮しても、長い目で見ると好ましいやり方ではなく、大変危険な対策だ。
こんなことをしているとやがて、自分のニーズを持つことは、罪悪感になる。自分が自分のニーズを率直に認めないのだから、自分のニーズは他者の迷惑になると感じる様になってしまう。間違った気遣いをするようになり、他者に依頼できなくなる。同時に他者に頼み事をすると、知られてはいけないことを知られてしまう気になる。どちらにしても他者との親密な関係は自分の身に危険が生じるような気分になる。ニーズは危険なものになり、自分のニーズに対して率直に動くことができなくなる。
恋愛に対して引いてしまうというのも、自分のニーズを認めず、自分を引き裂いた状態にするからだ。
この状態で、相手がニーズを察してくれて、罪の意識を感じないようにしてくれると、今度は一転して相手に依存的になる。極端から極端だ。依存的になる分、自分の能力を低く感じて恩義を感じることも少なくない。そこで再び、罪の意識が強くなるが、相手の欠点を見つけて支配的になり、依存を続けようとする。
こうなると自分の素直な感情を知るのは困難である。しかも支配する事に躍起なので、相手の欠点さがしに終始し、攻撃をゆるめないが、相手に依存しているものだから、自分の感情の行き場を失い、自分の内部で葛藤が起こるだけでイライラが募る。
これはコントロールの対象が相手だけでなく、自分に対しても起こっていること意味する。私たちゲンキポリタンではアサーティブであることを推奨しているが、その妨害がどのようにして起こっているか、知る上で欠かせない状況だ。失敗を恐れる、あるいは傷つくことを恐れて、ニーズを認めない防御の仕方が、実は根源的な部分で自分を破壊してしまっているのだ。自分を無視することで自分を守るという、これほど危険なやり方はない。
それにしても、このような仕組みはどのようにしてマスターするのか?もっとも多い動機は、親が期待を裏切ることをくり返した場合だ。機能する家庭、人間関係では、約束は守られる。しかしアルコール依存症者に代表される機能しない家族では、約束が守られることは少ない。
「いいよ、明日は遊園地に連れて行ってあげよう」と約束する。子供は期待して朝目覚めるが、親の方はまだ眠っているか、アルコールを口にしていて、「そんな記憶はない」という。こどもは失望に耐えるために、願望を”ないもの”にしてしまう。「もう絶対に連れて行ってもらいたくない」と考えるようになり、さらに連れて行ってくれる人はいないと確信したとき、「私は遊園地なんかいきたくない、大嫌いだから。私は誰とも行くことはない」と信じるようになる。
「私を愛してほしい」と思った柔らかな気持ちは、やがて、
「誰にも愛してほしくない」とかたくなな思いに代わり、さらに
「誰にも愛させない」と石のように変わってしまう。愛させないように相手を遠ざ
けるようなことばかりする。
頑ななベールを一枚、一枚はいでいく作業が待っている。優しい第三者に求める前には、まず自分ではがす努力をするべきである。こんなときに「したほうがいい」なんていう訳にはいかない。でないと、ベールをはがす努力をするより前に、相手をコントロールして、相手と自分をを傷つけてしまうからだ。
「きれいだね」と言ってほしいと思っていた少女は、言葉の代わりに頬を叩かれた。
「もう、言ってもらはなくていい。」と思う様になると、今度は「捨てるからね」といわれ、
「もう誰にも面倒みさせない」と考える様になり、「面倒見る立場」に自分の生き場を見つける。看護、介護の世界で虐待が起こっても不思議ではないのだ。
被害者はやがて加害者に変わるとしたら、まず被害者であることを認識することだ。そして本当の意味で、自分のような経験をさせたくないと思うなら、まず自分が自分をコントールすることをやめることだ。
誰だって愛されたいのだ、愛されたいと思っていいんだと自分に言い聞かせるのだ。そして、それでも愛されないときはあることも知ることだ、なぜなら残念なことに、愛する力のない人がたくさんいるからだ。だから愛する力を周囲の人にお裾分けできるように、まず自分が愛する力を養うのだ。
傷ついたか、つかなかったか、絶対的なものはなく、自分の選択なのだから、へっちゃらだと思えばへっちゃらだ。でも?せ我慢はしないようにしよう。へっちゃらでない時は泣いていい。思いきり泣かないと身体に悪い。