演繹法と帰納法
「ヨソでできていることが、
どうして、うちではできないのか?」という質問をよくいただきます。
それは 考え方の違いですよね。
人は考える時に、自分の価値観に影響を受けます。
一般に「あの人の考え方はおかしい」とか表現する場合、価値観のことを指している場合が多いようです。
価値観は体験によって培われている場合が大半ですが、同じような体験をしたら同じ価値観を持つわけでもありません。「考え方」によって変わるのです。
ここでいう考え方とは先に言ったような意味ではなく、考える技術のことです。
ここでは、その技術について説明します。
考え方には「演繹法」と「帰納法」があります。
チャンバラ映画などに出てくる「柳生新陰流」は剣術の技術のひとつですが、演繹法、帰納法は、考える技術です。
よく優秀な学歴をもった人が、「なんでこんなことも分からないのだろう」と思うことがあります。逆に学校の成績は悪く、学歴はねいけれど、頭脳明晰という人もいます。
それは考える技術が影響しています。
特に日本の学校教育のように詰め込み一辺倒、つまりすでにあることをマスターするに終始し、ディベート(意見交換)をすることせず、考える機会をあまり持たない教育をしているために、成績はいいけ考えることは得意でないということが起こってきます。
では、「演繹法」と「帰納法」、ふたつの特長について。
演繹法 (えんえきほう)
演繹法は三段論法とも呼ばれています。
ルールや定理、法則を使って考えるのが特長です。
たとえばこんな感じです。
野菜は栄養がある。にんじんは野菜だ。だから、にんじんは栄養がある。
あるいは
ポルシェは高い。高いものは金持ちしか買えない。だから所得の少ない人はポルシェに乗らない。
あるいは
ポルシェは高い。高いものは金持ちしか買えない。だからセルシオに乗っている人も金持ちだ。
というように展開していきます。だから三段論法とも呼ばれます。
演繹法による考えは理路整然として、すっきりしたイメージがあります。
すっきりしている分、融通が効きない難点があります。
ですから、一度、道に行きづまってしまうと考えられなくなり、行き止まりになってしまいます。
性格的に真面目な人ほど融通が効かず、行きづまる傾向が強いようです。
融通が効かず、行きづまっていることに気がつくようであれば、違う考え方を求めることもありますが、他の考え方を容易に受け入れられないのも真面目な方の特長です。
売り込みされたら自分は困る。売り込みは迷惑だ。だから、自分が人に売り込むのは他の人にとって迷惑だ。というな考え方をします。
これは違う角度から見ている他人には、もの凄くごう慢な考えに思えたりします。
「万能の神でもないのに、自分を基軸にした考え方で、いったいおまえは何様だ。」というようにです。
しかし当の本人は、自分のことで精一杯で、他人のことまで気が回らないのです。
よく職人気質といいますが、日常的に、あるルールを使って作業を進めることが多いので、どうしても頑なになりがちです。
車の部品は悪くなるまで交換することはない。悪くなるまで交換しなくていい。悪くないのに交換するのはよくない。
というように固定観念で物事をとらえがちです。
実際には、世の中にはそうでないことがたくさんあり、人を幸福する考え方は他にもあるのが真実です。しかし自分が日常使っているルールにはないので、融通が効かなくなるのです。
ですから、普段から演繹法でしか考えない人同士が意見対立すると収拾が困難になります。
また権力を持って、最終判断をする立場にある人が、そうである場合も事態が悪くなることが少なくありません。
帰納法(きのうほう)
帰納法は、様々な事例を見ながら、そこに法則を発見するプロセスを踏みという点で演繹法とかなり違います。
車を例にして考えるなら、いろんな事例を見ることから始まります。
車種と使っている人の関係を見ることで、共通点を発見することが可能になります。
金持ちは共通して高級車に乗っていることを発見することができることから、金持ち高級車を好むことが高いことが分かってきます。
次に金持ちに照準を合わせて観察すると、金持ちだけど安い車に乗っている事例も発見します。
すると高級車を使わない金持ちに共通した考え方があることも発見できます。
無駄と思うことにお金を使わないという違う共通点を発見します。
次に車に照準を合わせて観察すると、金持ちでない人が、高級車に乗っている事例も発見します。
すると、高級車を使う人に共通した考え方があることも発見できます。
野菜の場合でも同じで、共通点として栄養以外に「光合成」という機能に着目する可能性もあります。
その機会を得たことで野菜は光合成を行うという結論を出すこともありえます。
このように帰納法の場合は、共通点をいくつも発見できる可能性がありますので、複数の共通した要素を発見することも可能になります。
違う要素を発見するということは、可能性の発見に他ならないわけです。
ですから帰納法は可能性を発見するための考え方ともいえます。
可能性の発見とは「可能性の発見」は喜ばしいことですが、違う言い方をすると複雑化するということです。
ですから本来なら、よろこぶべきはずの可能性の発見が、演繹法を好んで使う人には、そうは思えません。
すっきりせず、それ以上、考えることが苦痛になるからです。
演繹法の場合ならほとんど二番煎じになるのに対して、帰納法の場合は無からナニかを生み出す可能性があります。
大ヒットした商品、ウォークマン、iPod、ヤフー、グーグルなどは帰納法なしにはあり得ないものばかりです。
たとえばウォークマン、iPodはコンセプトは同じように見えますが、演繹法で考えていたらうまれない商品です。
全く別の角度から見たから作れた商品です。
iPodを生み出したアップル社は長い間、「Think different(違う考え)」というキャンペーンを展開していましたが、私たちも同じく「違う角度から考えてみよう」と言葉を
普通に使っています。
それが普通にできる人とできないのは、演繹法でしか考えない人と、帰納法を頻繁に使って考えている人の習慣の違いです。
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