故阿久悠氏の著書「歌謡曲の時代」に、頷いてしまう。
恋愛の形態は、時代の常識や社会通念のさま変わりで、さまざまに変装していくものだが、「変装」と「死語化」とは同じではない。今は完全に死語となった。テレビのワイドショーは連日のように、男と女の愛の事件とやらを報道している。それは恋愛沙汰を伝えるのではなく、殺人沙汰を語るのである。
かつてなら、死に至る恋愛は純粋として評価する人もいたが、現代はいくら何でもこれを評価する入はいないであろう。いと愛しさ余って憎さ百倍という言葉があったが、愛しさが存在しないのに憎さに至る今は、悲劇的である。勝手な思い込みを拒否されただけで憎み、殺す時代に「恋愛」はあり得ない。ということは、死語となっても仕方がないということか。
「うまく行く恋なんて恋じゃないうまく行く恋存んて恋じゃない」
これは、昭和52(1977)年に書いた「気絶するほど悩ましい」のリフレインの部分である。この歌はCharが歌った。」
以後 「気絶するほど悩ましい」を通して社会について語られるのだが、それにしても「愛しさが存在しないのに憎さに至る今は、悲劇的である。」は、衰えをみせずにますます盛ん。
テレビはますますなにかにつけてネガティブ・キャンペーンが盛んだ。
私たちが暮らす経済社会では「不安」は儲けのネタである。新型インフルエンザの狂乱はいかがなのもか。衰えたわけではないが、いま振り返ればあれはなんだったのかと思う。脳と心と身体を使って自分で考える前に、この国では自己責任の意味さえコントロールされて死語になる。
いまは、言葉が失われていくと、考えることができない。その上、人の人の境界がなくなると、自分への怒りは、簡単に他者への向けられる、そこには他者への憎しみもないのだろう。自分を怒るだけの言葉も持たなければ、それも無理なのだ。
エルヴィス・プレスリー が「ミルク・カウ・ブルース・ブギ」で、鍬を捨てて荒野の果てから叫んだ、「怒れる若者たち」の夕焼けは遠すぎる。
かってエルヴィス・プレスリーが、「ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス」で、”お前が他の男といるのを見るくらいなら、死んだお前を見る方がまだマシだぜ”と歌ったときに、その意味のあまりの恐ろしさに、茶化すように明るく歌ったのは、憎しみよりも愛の価値を知っていたからだ。そこには人々と共有する感情が言葉と共にあった。
エルヴィスも、マイケル・ジャクソンも、一個人の自分と大衆の自分の境界に苦しみ、自分の内側で破滅していった。彼らの
貫いた最後の律儀に、神の祝福を。