結論から言おう。<ハウンド・ドッグ>は、その姿勢において本当の意味でのロックンロールだ!ここには熱情がある。自分への信頼がある。自分を信じ突進していく強さがある。
CDにはスピリットつまり霊魂が宿っている。
誤解のないように付け加えておこう。
ボブ・ディランのいくつかの曲と同じように、ビートルズのいくとかの曲と同じように。
そしてエルヴィス自身のいくつかの曲と同じように。
1957年のシアトルでのコンサートのオープニングは国歌だった。エルヴィスは観客に席を立つように促し全員が立った。歌い終わるとエルヴィスはギターを肩からかけ<ハウンド・ドッグ>を全身でシャウトした。ジミ・ヘンドリックスが観客席にいた。
1978年、エルヴィスが他界した翌年だ。ローリング・ストーンズはメンフィス・コロシアムのコンサートにおいてエルヴィスを追悼して<ハウンド・ドッグ>を演奏した。
1956年9月9日、エルヴィスを絶対自分のショウには出演させないと言っていたエド・サリバンのショウに出演、82.6%という前代未聞の視聴率を獲得したことでエルヴィス・プレスリーはアメリカで一番有名な男となった。ーーーーーー「大統領の名前は知らなくてもエルヴィス・プレスリーなら知っている。」ーーーーーー1956年はアイゼンハワー大統領任期3年目の年だった。
それに先立つ1956年6月5日。
NBC-TV『ミルトン・パール・ショー』に出演。その時に歌った<ハウンド・ドッグ>での身振りがあまりにも「猥褻」と批判され、エルヴィスを出演させたNBCまでが批判された。その下半身の所作に対し「まるでストリップ」「あきれかえる悪趣味」と酷評され「骨盤エルヴィス」と呼ばれたりもした。
しかし問題は所作だけではない。ここに至るまでのエルヴィスの経歴とブラッキーなフィーリング。もともとR&Bで全米ヒットした経緯をもつこの曲は黒人の歌として知られており、エルヴィス・バージョンの「上流だっていうけれど何も出来ないじゃないか」という歌詞は白人への敵意と受け取られても仕方がない側面があった。
留まることを知らない空前の人気、それに比例してエルヴィス・パッシングも全米に広がった。
青少年のすべての犯罪、非行、人種問題がからむトラブルなどすべてがエルヴィスに原因があるとされた。
続く7月1日のNBC-TV『スティーヴ・アレン・ショウ』はエルヴィスの全仕事の中でも悪評高い番組となった。NBCは世論に恐れパッシングを緩和するために「良識」を演出。エルヴィスが燕尾服を着用し、やはりシルクハットと蝶ネクタイにドレスアップしたパセット犬に向かって<ハウンド・ドッグ>を歌うというものだった。エルヴィスは「仕事だから我慢するけどね」とスコティ・ムーアに語ったと言う。
礼装した犬とともに聴衆の前に立ったライブでは、自身の苛立ちを抑えながら、無関心の犬をかまいながら、また怯えから救うように優しく扱いながら、聴衆の前で「ハウンド・ドッグ・ショウ」を演じ、無事に歌い終えた。
バックコーラスである『ジョーダネアーズ』のゴードン・ストーカーは「エルヴィスは与えられた環境で最善を尽くした」と語った。靴はブルーのスエード・シューズだった。
翌日7月2日、RCAスタジオで録音。エルヴィスと長いつきあいとなった『ジョーダネアーズ』はこの時エルヴィスの録音に初参加した。
この日、エルヴィスらはレコード化されていなかった<ハウンド・ドッグ>を録音する。
エルヴィスの要求で33回のテイク。その上、エルヴィスはリリースするためのテイクを選ぶためにスピーカーの前に座り何度もいろんな角度から聴いたという。RCAといえど当時は冷房のないスタジオだった。周囲はほどほどでいいという感じだったが、エルヴィスは納得しなかった。エルヴィスは31回目のテイクを選択したと言われている。
エルヴィスには明日の保証がなく、自らには使命と課題があった。これまでの作品以上のものを創り出すこと。エルヴィスにはこれまでの成功を明日の朝にも続かせる必要があった。それを自身で解決しなければならない危惧もあった。この日その後<冷たくしないで>と<どっちみち俺のもの>を録音した。<冷たくしないで>は28テイク録音した。
デビューしてまだ間もないエルヴィスが結果的にスタジオを仕切った。
翌朝、半年ぶりの休暇でメンフィスへ向かう列車を待つペンシルヴァニア駅で、エルヴィス・プレスリーは<ビー・バップ・ア・ルーラ>を吹き込んだジーン・ヴィンセントに偶然出会った。その時にエルヴィスはジーンの成功を祝い、ジーンは「あんたの真似をしたわけじゃなかった。」と謝り、エルヴィスは「きみのオリジナリティなスタイルだよ」と励ましたという。
スコティらはエルヴィスに聞くまで自分たちと離れて別のバンドと組んでエルヴィスが吹き込んだものと思ったぐらいエルヴィスに似ていた。