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STAY AWAY
ステイ・アウェイ

ユニヴァ−サル・スタジオ・ジャパンがオープンした。一方音楽界では浜崎あゆみとウタダヒカルのアルバム同日発売で両方で1週間ほどで800万枚販売したそうだ。
若者文化と音楽は切り離せものである証明だが、それを切り開いた先駆者がエルヴィスだ。エルヴィス登場でレコード業界の売上が一気に倍になったのもそうだし、ティーンエージャーという概念が明確になったのもそのあたりだ。つまりエルヴィス登場前には明確な若者文化は存在しなかった。

前例のないことずくめだったエルヴィス・ブームだが、ついしばらく前までは素人だったエルヴィスと興行の世界で生きていたマネジャー、トム・パーカー大佐にとって手探りの前進であったことは容易に判断できる。トム・パーカー大佐は9年間の映画の契約をした。この契約は当時の状況を考えれば賢明な選択だったのだろう。なにしろ経済用語として誕生したティーンエージャーという概念が、一般化するのはロックンロール以降だ。。ティーンエージャーはギルバート・ティーンエイジ・サービスというマーケティング会社が15歳〜19歳の市場が経済にあたえる影響力の大きさを1945年に提言した際に使用した造語だった。
トム・パーカーにとっては過去の体験をベースに考えるしか手はなかったはずだからだ。
一時的な人気だろうと判断したとすれば9年間の契約は破格の条件だ。
エルヴィスにとってもビング・クロスビー、フランク・シナトラなど当時の大スターがこぞって映画に出演して、アカデミー賞を獲得していることを考えれば、自身にとっても夢物語だっただろう。

当時大量に制作され二流スターによるB級作品の数々に混じって、一流スターによるB級作品が「エルヴィス映画」のフォーマット。強いキャラクターによるB級作品、というのはいまでも定番。マネーメーキングトップ10などの顔を出す常連として、例えば青春スター総出演というふれこみの「スクリューム」をはじめとするホラー、スティーヴン・キング原作作品などがその典型。スティーヴン・キングのファン数を計算した一定の稼ぎが予測できるのも魅力。大きな投資をして冒険するより堅実なビジネスというのもハリウッドのスタイルのひとつ。 契約の詳細は分からないが、9年間の契約ということはパラマウント映画のプロデューサー、ハル・ウォリスにしてもエルヴィスに対してその義務を履行しなければならないとなれば、一発勝負のような賭けに出るより堅実なバンド作戦で稼ごうというのも無理のない話かも。

ロバート・ミッチャムから弟役で出演の依頼を受けたこともあるが、ロバート・ミッチャムに似てエルヴィスにはどこかけだるいニヒルな雰囲気があった。「マーロン・ブランドは研究した」とエルヴィス自身が語っているように鬱憤を爆発させる反抗的な印象も似ていたし、「ジェームス・ディーン物語」制作の計画があることを知りディーン役を望んだように、屈折した印象も共通していた。また「手錠のままの脱獄」でトニー・カーティスが演じた役もエルヴィスに打診があったものだ。やはりカーティースから発散される若者の苛立ちの匂いもよく似ていた。
ロックンローラーらしい反逆児を強く印象づけた入隊前の4作品と打って変わって明るくポップな作品では、貧しくても秩序を求める反骨の青年という役柄の作品に変わった。

そんな作品群にあってもっとも異質でありながら、もっともエルヴィスの適役と思えたのが「燃える平原児」。インディアンの母と白人の父の間に生まれた混血で、兄は白人のいい子。自分は混血ゆえに白人世界にも、インディアン世界にも受け入れられない様は、双生児で兄は死産だったことやデビュー当初エルヴィスの音楽が白人DJからは黒人のようだと敬遠され、黒人DJには白人っぽいと敬遠されたのと酷似している。結局どこからもはみだした青年はひとり死に場所を求めて消えていく場面でこの映画は終る。

実際のエルヴィスは音楽ではオリジナリティに満ちた世界を築き、映画ではミュージカルでもなければ、コメディでもない「エルヴィス映画」というオリジナルな世界を構築した。一枚看板でただ存在しているだけで一本の映画が完成してしまうというのは「ミッキー・マウス」とエルヴィスくらいなものではなかったか。現在のように情報伝達力が違う当時、アメリカの象徴として世界のマーケットへ打って出るには映画しかなかった。エルヴィスは若き野心で演技することを夢見たはずだが、パーカーたちは挫いた。トム・パーカー大佐が世界中に見せたかったのは演技するエルヴィスではなく、歌手エルヴィスだった。

時代の変遷と共に情報の伝達方法も変わった。MTVなどに代表される音楽映像もアート性を高め見ごたえのある映像が次々に流される。しかしどんどん送り込まれくる映像はどこか使い捨てのような気がして淋しくもある。
エルヴィス映画はそれと比べるといまとなっては,一部にすごい場面もあるももの、全体にダサイ。ビートルズ映画とくらべても歴然だ。しかし典型的なアナログのそれはどこかあたたかみがある。と、言えばステレオタイプ的すぎるか?
それはエルヴィスとか、ビートルズとか、オアシスとか、アーティストの問題ではない。夢の工場ハリウッドから送りだされた作品はB級だが、決して使い捨てにはされなかった。そこには食べ物やお金では得られない幸せの香りがあった。幸せかどうかってことはとっても大事なことだ。
エルヴィスは愛を探していたんだと思う。みんなに愛されたくていくつもの映画に出演していたんだとーーー。「ファンのために」という言葉の意味の本当はエルヴィスも気がつかなかったかも知れないが「みんなに愛してほしいんだ。」と言ってたように思う。屈託のない笑顔の向こうで,命がけでそう言ってるように思う。

グラディス母さんはエルヴィスにずっと甘えていたんだと思う。
「貧乏だけど、僕にはにそれを感じさせないようにいろんなものを買ってくれました」とコメントをエルヴィスは残しているが、気を使っていたのはエルヴィスだったと思う。
エルヴィスは愛されたいと願いながら、それ以上に愛してきた。グラディス母さんもプリシラも、その後のガールフレンドたちも。
与えることが愛することと思ったのはグラディス母さんとの関係で学んでしまったことだと思う。エルヴィスは愛する人に尽くした。でも本当はそれ以上に愛してほしかったんだろう。そんなエルヴィスの気持ちを誰も分かってあげることはできなかったんではないかと思う。
もしかしたらプリシラも、その後のガールフレンドたちももっとエルヴィスを愛したかったのかも知れない、でもエルヴィスは必要とするより、必要とされることしか知らなかったのかも知れない。その理由はまたべつな機会に譲るが、エルヴィスはグラディスを、プリシラを、ファンを、バーノンを必要としていた。無意識に必要としている自分を、他者への優しさで欺いてしまっていたような気がする。

「愛」って言葉を簡単に使ってしまうわりには、現実にはみんな手の中にあるようで、ないことをエルヴィスは人一倍強く深く感じていたのではないか。
エルヴィスにとっても観る者にとってもMONEYじゃなくてLOVEの問題だ。エルヴィス映画がとってもダサク思えてしまう自分というのは、どこかおかしいのではないかと思うこの頃だ。見えないものを見る目があれば、聞こえないものを聞く耳があれば、そこには燃える星が輝いているのが分かるはずだ。

一万マイル違く離れた地をさまよっても
故郷の山々が呼ぶのが聞こえる
高々とそびえる峡谷、低くくぼんだ谷
こだまよ、なぜに離れていられるのか
俺の夢はワシが舞い
山の頂が空高く届き
小川がくねり、風の吹く地にある
教えて、なぜこの地を離れていられるのか

愛するこの地を離れ、自分の心を欺き
よそに長く居すぎたようだ
だからもう、行かなくては
山々が帰っておいでと呼ぶあの地へ
山々が帰っておいでと呼ぶあの地へ

日本劇場未公開M-G-Mの劇映画『Stay Away,Joe』の主題歌としてタイトルバックに歌われた曲は「牧場の我が家」のタイトルで知られるスコットランド民謡。原曲が民謡とあってシンプルな曲だが、流石という情感。峡谷の映像のタイトルバックに流れる見事な歌。忘れられないシーンのひとつだ。

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