『私の好きなエルヴィス/小泉純一郎選曲』話題のアルバムが登場した。選ばれた曲をみると<ア・フール・サッチ・アズ・アイ>と<愛しているって言ったっけ>がセレクトされているのが嬉しい。この2曲を選んでいることで、聴きこんだ人だと実感するし、エルヴィスならではの味が「ああ、本当に好きなんだなあ」っとストレートに伝わってくる。
もうすでに認知されているように、一国の首相が特定のアーティストを讃えるのは、なにもアメリカとの国交を円滑に行うためのことでもない。あくまで個人的な世界である。個人的な世界であるからこそ、「喪失感」を共有していることがファンにはたまらない。
逆にいうとファンでないものには「おもしろくない話」である。このアルバムは特に若い人には聴いてほしいと語っているように、それはある意味「自分の中の喪失感」に触れてほしいというメッセージでもある。
殊更、政治的なメッセージを必要とせずに若者文化、人種問題をもっとも自然な形でにストレートにメッセージしてきた担い手であったエルヴィス。しかし小泉首相がエルヴィスを選んでいるのは、そのような特定の理由からではなく、それも包括したエルヴィスの音楽が、勇気を与えてくれたり、慰めてくれたりしてきたからだ。それこそがエルヴィスの芸術の真髄であり、それゆえ大きい「喪失感」の理由を多くの人に伝えたいということに尽きるのだろう。
自国のヒーローだから当然かも知れないがアメリカの書店では、エルヴィス関連書籍が他のアーティストとは比較にならないほど多く並んでいる。それは数々のギネスの多さが意味するように当然な現象でもある。
そして何よりも、あるデータによれば故ケネディ大統領のお墓を訪れた人の数よりエルヴィスを訪れた人の数の方が圧倒的に多いそうだ。いまだに人々の心に残っていることを物語っているわけだし、なにも本国に求めなくても、わが日本のユニバーサル・スタジオでもエルヴィス・グッズが販売されていることからしてもいかに「重要」な存在であるかは容易に分かることだ。
なにが重要なのだろか?それは24年を経過してもなお人々の心にある「喪失感」でないだろうか。
「ああ、エルヴィスがいたっけ」というような思いも含めて、エルヴィスが生きていたときにはさほど問題にしなかった人にも、ふと脳裏を走る歌声が懐かしいだけでなく、「エルヴィスを聴いた時代にいたエルヴィス」が愛しいからだろう。
ジャンプスーツを汗びっしょりにして熱唱していた姿、極楽トンボのように脳天気な青春映画で笑っていた姿、ニヒルに不機嫌そうな表情で全身を震わせて歌っていた姿------それらが、そこにあって当たり前だった時代があった、そしてその男のことを深く考えなくてもいいほどいつも衝撃的な存在だった。ボクらは、ただ「凄い奴」「カッコいい奴」「うまい奴」「変わった奴」「へんな奴」というように見上げていればよかったのだ。
そしてある日突然、リアルタイムの経験では、晴れた夏の日の朝だった。テレビがニュースを話していた。信じられないニュースにただ何ごとが起こったのか、よく分からない内に、ヒーローは遠くに消えた。
深い悲しみはあっても、別に親戚でもなければ親友でもなかった。またヒーローが現れることを期待するつもりもない。ただ人の世の常、「スターウォーズ」のタイトル・クレジットのように、誰かが消えては誰かが現れる。
だけど、その名前と顔と声と態度、物腰だけは、そういうわけにはいかなかったようだ。あまりにも埋めようのない「喪失感」が時間の経過とともに大きくなっていく。新しい誰かが現れるたびに、あれはエルヴィスがやったこと。エルヴィスならもっとうまくやるという思い、ジョン・レノンの言葉そのままにエルヴィスの前には誰もいなくて、サミー・ディビス・Jrの言葉そのままに、エルヴィスの後から出てきたものはコピーでしかなく、シナトラの言葉そのままに、大切な親友を失った喪失感だげが時間と共に増幅されていった。カーター大統領の語った「偉大なこの国の一部を失った。」という言葉はアメリカのみに留まらず、世界の一部の欠落として、遂に「神格化」が進んだ。
ボブ・ディランは語る「生前以上に存在が大きくなっている」と。それはエルヴィスの存在が大きくなっているわけではなく、エルヴィスと対峙する自分のイメージにあるエルヴィスの喪失感が大きくなっているのだ。それは裏を返せば生前のエルヴィスの存在の大きさにその当時は気がつかなかったということである。その罪悪感がエルヴィスの世界へと駆り立てるのだ。
人々は何を失ったのだろうか?それは優しさかも知れない、努力すれば報われることへの信頼かも知れない。いずれにしてもエルヴィスが残した歌曲の中に宿っていることだけは確かなのだ、
エルヴィスは自分の育ってきた環境から多くのものを継承もしたし、与えられた。中には屈辱も含まれるだろう。それらに対して心ない言葉はいまもあちらこちらに見受けることは容易い。
ひとつだけ、明言しておきたいのは、エルヴィスはそれらから受け取った以上に返してきた。 R&Bにはロックンロールで、ゴスペルにはバラードで、民族音楽にはポップスで、カントリーにはアメリカ人の善意で、屈辱にはほほえみで、詐欺師には思いやりで、過ちには愛することで、観客の拍手には汗で。
人々の胸を打つのは、律儀なまでに貫いた喪失に対する再生への挑戦ではなかったのだろうか?
そしてボクらはエルヴィスに対して十分どころか、何も返していないことに気づき始めているのだ。
さて小泉CDの中でも喪失感の激しさではピカ一の<マイ・ボーイ>これはリリース当時、エルヴィスの身に起ったことを連想させるに十分な内容、なにより、その悲痛な叫びにも似たパフォーマンスはファンの心をえぐったものだった。小泉CDより先行してリリースされた4枚組24th命日コレクションと銘打った『ライブ・イン・ラスベガス』のCDー4に収録されているライブ・ヴァージョンの同曲は、私的な感傷のはるか彼方に立ったプロフェッショナル・エルヴィスの存在感がみなぎって、それはもうひたすら美しく、悲しく、火の鳥が力一杯に自然の摂理に身悶えするかのようである。
「歌の技術だけではない、何かがそこにあると思う。とにかく他の歌手とは全然違うよ。」と語る小泉首相のまなざしの向こうには、偉大な「世界の一部」の喪失と再生の戦いが綴られ奏でられているのだ。
息子よ、
眠っているのは知っているけどどうしても待てないことなんだ
手遅れになる前に説明しておきたい
ママとパパの愛情がついに枯れ
うちはもう幸せな家庭ではないことをでも、
できるだけの努力はしたんだよ
★息子よ、私の全てである
おまえは私の人生であり、誇りであり、喜び
私がここに残るとしたら、それはおまえのためだけ
なぜこんなことになったのか理解するのは難しいだろう
パパとママはまるで他人のように
互いの気持ちを動作にあらわすだけ笑い、泣き、全てに負け
できることは何もかもやったでも、
今まで通りにここで暮らすよ
くり返し★
さあ、眠りなさいおまえは何も聞かなかった
その小さな夢を壊し辛い思いをさせる必要などない
人生はお伽話なんかじゃないと
いつかきっと分かる日がくるでも、
今はまだ幼いおまえだから
ここでおまえの成長を見守ろう
You're sleeping son I know
But I really just can't wait
l wanted to explain before it gets too late
For your mother and me love has finally died
This is no happy home
But God knows how I tried
* Because you're all I have my boy
You are my life my pride my joy
And if I stay I stay because of you my boy
know it's hard to understand
Why did we ever start
We're more like strangers now
Each acting out of herat
I've laughed l've cried l've lost every game
Taken a that I can take But l'll stay here just the same
Repeat *
Sleep on you haven't heard a word
Perhaps it's just as well
Why spoil your little dreams
Why put you through the hell Life is no fairy tale
And one day you will konw
But now you're just a child
I'll stay here and watch you grow
Repeat 2 times