<アメリカの祈り>-------それは大きなキャンパスに渾身の思いで描かれた絵画に似て、「アーティスト」へ辿りついたエルヴィスが、人生の困難と格闘しながらも、プロフェッショナルはさらに前に進んでいること、それは類い稀な個性に溢れたものであることを世界中に示した曲である。
あ、綿畑の広がる地に帰りたい
古き良きあの故郷に
見よ、はるか、はるか彼方のディキシーランドを
帰りたい、はるか彼方のディキシー
ディキシーに誓おう
ディキシーで生き、骨を埋めることを
ディキシーランドで私は生まれた
霜のおりたある寒い朝早くに
はるか、はるか彼方のディキシーランド
八レルヤ、栄光あれ
ハレルヤ、栄光あれ
ハレルヤ、栄光あれ
主の真実がやってきた
幼い赤ちゃん、泣くのはおやめ
父さんは死んでいくのだから
でも主よ、これでやっと試練が終わる
ハレルヤ、栄光あれ
主の真実がやってきた
主の真実がやってきた
15億人が見たと言われる全世界同時テレビ中継のハワイ・ライブによって初めて全世界に伝えられたエルヴィス・プレスリーの70年代を代表する名曲<アメリカの祈り>は、アメリカのトラディショナルな3曲『ディキシー』『共和国戦いの讃歌』『私の試練』によって構成された楽曲である。
編曲者はミッキー・ニューベリー。1971年に自身でもレコーディングしている。
1861年のアメリカ、アラバマで国家分裂。
サウスキャロライナ、ミシシッピ、ジョージア、ルイジアナ、フロリダ、アラバマの南部の6州によって新しい国家『南部同盟政府 (C.S.A=THE CONFEDERATE STATE OF AMERICA)』が誕生した。
ジェファソン・デーヴィスを初代大統領に選任、州分権、奴隷制、自由貿易を唱えた民主党政治である。
ジェファソン・デーヴィス大統領就任の式典に歌われたのが、『ディキシー』である。そして南軍戦士を鼓舞する行進曲として使用された。
楽曲は北軍に属することになったオハイオ州のサーカス芸人ダニエル・D・エメットによって1859年にもともとはショウのために作られたもので南部の人々に親しまれていたものであった。ビング・クロスビーがエメットに扮した映画『ディキシー』も製作されている。戦争にあたっては歌詞を変更し曲調も男性的なものにアレンジされ使用された。戦争終結後は全米で広まった。
エルヴィスは西ドイツ時代にもアメリカ軍が演奏しているのを聴いている。
1861年3月。中央集権、自由主義、保護貿易を唱える北部共和党政権が支配していた連邦政府(U.S.A=UNITED STATES OF AMERICA)の大統領に就任したのは、丸太小屋で生まれたリンカーンだった。
リンカーンは連邦から離脱した南部に属する6州に対して連邦 への復帰をアプローチしたが、回答は4月12日の「砲撃」だった。南北戦争の始まりである。
同年北軍のための軍歌『共和国戦いの讃歌』が書かれた。ワシントンで女性詩人ジュリア・ウォード・ハウによって書かれたこの楽曲は、1968年ロバート・ケネディの葬儀に於いて、アンディ・ウィリアムスによって歌われたのはオールドファンには懐かしい記憶である。
さらにテネシー、ノースキャロライナ、ヴァージニア、アーカンソンの4州が連邦から離脱。11州となった『南部同盟政府』との内戦は、いまもってアメリカ歴史上最大である60万人を超える死者を出す悲劇となった。
4州が連邦から離脱したことで、意を決したリンカーンは、北部の急進的な意見を反映させ奴隷制度の廃止を行ったのは戦争中の1863年1月1日だった。南北戦争の原因が「奴隷解放」にあったことが示されたことで、イギリスなどの評価も高まり、大義を抱いた北部軍の志気は一層高まり、勝利に邁進した。
1865年4月に南北戦争は北軍の勝利で終わる。南部から憎悪される象徴となったリンカーンは戦争終結わずか4日後の4月14日に暗殺される。
南北戦争が終わり、アメリカは「大西部時代」に突入する。ほとんどのウェスタン映画の背景となった時代の到来だ。
奴隷達は解放されたものの、財産も職もなく、結局は元の綿花畑に戻っていくしかなかった。北部のボランティアや北軍が駐留し黒人を援助したが、時の経過とともに、ダイナミックな変貌を遂げていく合衆国にあって、彼等も離れて行き、再び南部の空気が黒人たちを圧迫した。
フロンティア精神が輝きを増す一方、南部では南北戦争の敗軍の将が結成した秘密結社『クー・クラックス・クラン』、通称『KKK』が黒人ばかりか、北部の人々を恐怖に陥れた。
『私の試練』は作者不詳の歌い継がれてきたスピリチュアルソングである。パナマの民謡ともいわれ、ハリー・ヴェラフォンテ、ジョーン・バエズも歌っている。短い歌であるが、それだけに人間の思いが重く響いてくる「つぶやき」と言える楽曲である。
大陸横断鉄道が1869年に開通。1877年に蓄音機が発明され、1886年には自由の女神が建造された。産業革命の影響を受けた多くのヨーロッパからの移民が女神を求めるかのように急激に増加する。
その歴史は「与えられるより、自分で創る」に彩られている。批判だけして、行動しないことをよしとしない国民性は、生きる場所を言葉も通じない、風俗習慣も違う、新天地を求めた人々の精神によって培われたものだ。
20世紀になっても、黒人を擁護する大統領を非難したのも南部である。『黒人の魂』など人間は平等だと訴える学者が政府を批判する反面、1930年代まで、黒人を「劣等人種」と決めつける学者、科学者、ジャーナリストなどが全米で続出し、「平等」の思想を抑え込んだ。
エルヴィスはそのような時代に誕生した。
心優しいエルヴィス少年が南部の風と水と太陽を浴びながら、「カラーズ」「ホワイトオンリー」などの看板が溢れている町で育っていった。綿花畑の光景は少年エルヴィスにはどのように映ったのだろうか。
通過するだけの旅行者であっても、南部と呼ばれるエリアには、明らかにL.Aなどの西海岸エリアとはまったく違った空気が流れているのを感じる。
<アメリカの祈り>はまるで司祭のようにステージをとりしきるパフォーマンスを見せる。それはある意味で茶番でもある。しかし南部に生を受け、その五体五感を通じて感じてきた文化、習慣、風俗。その結果アメリカそのものとなったエルヴィスが、終生、口にしなかった試練を黙々と忍び、乗り越えてきた自分に捧げるレクイエムとして、エルヴィスゆえに許されるパフォーマンスである。そしてそれを見事に証明して、大いなる茶番を荘厳なものにして、なお余りある感動を与えているのは、驚愕であり、「これぞ、プロの真骨頂」を見せる。
それはエルヴィスにとって、とらえきれないほど大きな世界ではなく、エルヴィスが生きた世界であり、聴衆が存在している世界に他ならないからだろう。
アメリカの歴史は常に矛盾と希望の渾沌とともにある。その困難を克服できないままに、克服できる明日を信じて、自らを尊重するゆえに、個人個人である他者を尊重し、運命共同体として生きる時に生まれる矛盾と希望の渾沌が循環している。エルヴィスの生きざまそのままでもある。<アメリカの祈り>でのエルヴィスは個人の可能性の大きさを、自らの肉体を使いきり、使い切ってもなお表現できない自然の恵みである人の魂の可能性の雄大さをステージのすべてを極限まで使いきることで、示唆して、眩いばかりの勇気と愛の詩としている。
Oh, I wish i was in the land of cotton
Old times there are not forgotten
Look away, iook away, Iook away, Dixieland
Oh, I wish I was in Dixie away, away
In Dixieland l'll take my stand
To llve and die in Dixie
For Dixieland's where I was born
Early Lord, one frosty morn'
Look away, Iook away, Iook away, Dixieland
Glory glory, hallelujah
Glory glory, hallelujah
Glory glory, ha]Ielujah
His truth is march'n' on
So hush little baby, don't you cry
You know your daddy's bound to die
But all my trials Lord, soon be over
Glory glory, hallelujah
His truth is marchin' on
His truth is marchin' on