ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス
エルヴィス・プレスリーは最終的に「なんでも歌う人」という印象を与えた。(事実歌ったが、)
それは最初から運命のようになっていたように思う。
デビューが、R&Bとカントリーのカップリングで、両面ヒットとなり、その後も続いた。
軍隊から帰った後はさらに拡大する。以後それは留まることがなかった。
エルヴィス・プレスリーが、サンレコードの面接で語った有名な言葉「ボクはなんでも歌えます」「ボクは誰にも似ていません」それはそのまま実践されたことになる。
だから善かれ悪かれ本人の意志といえばそれで完結する話でもあるのだが、無雑作であったにしろ、人の行動には意味があり、エルヴィス・プレスリーのそれにも意味がある。
そこには一貫性が確かにあると断言する。
エルヴィスのロカビリー、あるいはR&Bをとらえて「我流のブルース」と評した人がいる。
B.Bキングなどと比較してのことだろう。
そのスタイルとグラムの本家のようなあまりにも絢爛な天然色、人工色を混ぜ合せ、かつ極性の眩い光を放つ存在であるがゆえに、その強すぎる光と影によって輪郭だけが目立ち、活動の中味が見えない面がある。
デビュー当時「エルヴィスは世の親から総スカンを食い、それゆえに若者には完璧な存在だった」という言葉があるように反抗、自立のシンボルたった。
その意味で<ラブ・ミー・テンダー>は「その歌、いいわね」と背中を向け合ってる親と子が一瞬向かいあう曲だったのではないか。
そしてエルヴィスの実態も音楽も、そこに存在していたと言えないか。
それは「糞ったれ!」という思いであり、すでに引き裂かれた者の引き裂くための突撃。
「我流のブルース」と言われるが、それでこそエルヴィス・プレスリーなのだ、
どこに属しているのか分からないような存在の者が心の自由の獲得に向かって驀進していたのだから、何かを模擬したり学習したりすることに意味があるはずがない、
<ラブ・ミー・テンダー>が天使、聖者、良心の歌としたら、ここで取り上げる<ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス>は悪魔の歌だ。挑発、嘲笑、憎悪に満ちた歌だ。
ブルースが苦手というひとは「どれを聴いても同じ感じがする、難しい」という理由が多い。
その通り、同じなのだ。ブルースは歌詞とそこにこめられている情感こそ命の音楽であり、その意味ではカントリーも同じだ。
わずか1枚のオリジナル・アルバムと数枚のシングルを放ち解散したロック史上に残るあの悪ガキたち「セックス・ピストルズ」たちが攻撃的な歌詞とそれを口から放った時の感情の爆発こそ彼らの身上だった。
しかしそのようなことはピストルズの20年前にエルヴィスがすでにやってのけたことだ。
「セックス・ピストルズ」はロックンロールの原点に立ち戻ることをしたわけで、彼らはスコティのようにギターはうまく弾けなかっし、エルヴィスのように歌えもしなかったけれど、エルヴィスが例えば<ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス>でやったように、それと同じか、それ以上に、D.I.Yの心意気でやってのけたのだ。
だがセックスピストルズがそのまま音楽界の頂点に立つことが可能だっただろうか?
やはりあり得ない。それは社会のシステムを変えることを意味する。
彼らの活動の時間はそれが限界だったのだ、敵(既存の「良識」と言われている意識)につかまる前にどれだけゴールに向かって進めるか、アメリカンフットボールと同じゲームなのだ。
その意味で出した枚数や曲数が問題ではなく、どれだけ突入したか、どれだけ進んだかが、問題なのだ。
ここで「セックス・ピストルズ」についてダラダラ綴っているのは、エルヴィスはそれくらい過激で、特にこの曲<ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス>はそういう過激さに溢れているといいたいからだ。
さてエルヴィスの場合は、どれだけボールを持って走ったのだろうか。
それはサンレコード時代に録音した<ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス>を聴けば分かる。
ベイビー・レッツ・プレイ・ハウス*
Oh,baby,baby,baby,babyBaby,
baby,babyBaby,baby.
baby,Baby,baby,baby
戻っておいで、君とままごとみたいに暮らしたいんだ
君は大学でも高校でも行けるさ
ピンクのキャデラックだって手に入れられる
だけど、分かったような顔をするんじゃないぜ
ベイビー、戻ってきておくれ
ベイヒー、戻ってきておくれ
戻っておいで、君とままごとみたいに暮らしたいんだ
オレが何を言いたいか
君に教えてあげる
オレのところに帰ってきて
一緒にままごとみたいな暮らしをしようベイビー、
戻ってきておくれベイビー、
戻ってきておくれ
戻っておいで、君とままごとみたいに暮らしたいんだ
ままごとみたいに暮らそうよ
これだけは君に知っていてほしい戻ってきて
ままごとみたいに暮らそうよ
昔のように楽しくやろうベイビー、戻ってきておくれベイビー、
戻ってきておくれ戻っておいで、
君とままごとみたいに暮らしたいんだ
ぶんなぐれ!
ベイビー、オレの話を聞いてくれ
君が他の男といるのを見るのなら
死んでくれたほうがまだマシだぜ、ベイビー、
戻ってきておくれベイビー、
戻ってきておくれ戻っておいで、
君とままごとみたいに暮らしたい
*くり返し
この曲にはエルヴィスならではの真髄がある。大傑作だ。
「おまえが他の男といるくらいなら、おまえが死んでるところをみるほうがまだましだぜ」というのは
嫉妬心、おまえなしでは生きて行けないという意味なのか?
表面的にはそう聞こえるが、当時のクールな男エルヴィスの口からこぼれた歌詞はそういうわけにはいかない。
実は愛することを、愛されることを求めながらも、心底ではそれができるような男ではない。愛しているよ、と言っておきながら、その余韻さめやらぬうちに口を歪めてニヤリとされたら本当だろうかと疑うのは無理もない。そうして引き裂いていくのだ。自分も恋の相手も引き裂きながら、自分たちの世界を引き裂いていくのだ。それは諦めた者の情感だ。
「どうせ手に入らないんだから、おまえなんか死んでしまえよ、第一おまえが手に入ったところで、実際のところどうしていいのかおれには分からないんだ。
幸せの経験がない者に幸せな暮らしがどんなものか分かるわけはないだろう。おれは笑いながら見ててやるぜ、そうしていつも危機が忙しく騒々しくしてさえいてくれたら、オレは自分のことを考えずに過ごせるんだよ。おまえがおれと家で暮らし永遠に仲良く暮らしている光景を空想しながら、ため息つきながら過ごせるよ、どうせこの世界は糞だぜ」と言っているようなものだ。
この曲は元の歌詞が「おまえは自分がセクシーな女と思っているだろうが面倒なことになるぜ」というのを「おまえはピンクのキャデラックを手にすることもできるだろうが、分かったような顔をするんじゃないぜ」に変えている。
後にエルヴィス自身ピンク・キャデラックを手にするが、この段階ではまだ手にしていない。エルヴィスにはピンクのキャデラックへの憧れがあったのだろう。「あのクルマをピンクに塗りつぶしたら世間の奴ら、きっと驚くだろうな。クールだぜ」と胸の奥で考えていたのだろう。
そこには富への憧れと憎悪あるいは侮蔑が混然としていないだろうか?
自分の手に入らない憧れはいつも憎しみにならざるを得ない。
それを裏づけるコメントがある。ローダデイル・コーツ(メンフィス)に住んでいた時代のことだ。ジョニ-・ブラックというローダデイル・コーツの友人
が当時をふりかえってコメントしている。
「エルヴィスが言ったんです。”ジョニー、僕はキャディラックを乗りまわすよ。”って。 2人で金を出し合ってもコカコーラの1本すら買えなかった時にですよ。」
スコティとビルに「Hit it! (ぶんなぐれ!)」とかけ声をかけておいて、「ベイビー、オレの話を聞いてくれ、君が他の男といるのを見るのなら死んでくれたほうがまだマシだぜ、ベイビー、」とやっているのだ。
エルヴィスとスコティとビルの3人は聴き手に突進している。
おまえなんか死ねと言いながら!
そして一番の問題は聴き手がそれに熱狂したということだ!
ここで言う「おまえ」は誰なのだ?
エルヴィスとスコティとビルの3人があまりにも多くのおまえを叩いてしまったものだから、後のセックス・ピストルズはあろうことか「エリザベス女王」を引っ張り出した。
ここにエルヴィスの真骨頂がある。「そうだ、どうせ手に入らない、オレたちのものなんかナニもないんだ。教会や学校がナニを言おうが、実際のところナニもないんだ」未来があるはずだけど、心の底では諦めている、そんな自分をどう扱えばいいのか分からない若者の心に楔を打ち込んだのだ。
若者をロックンロール中毒にしてしまった。
「自分をここに連れてこいよ。ナニもいらないよ、ここで遊ぼうぜ。人生がままごとだったら気楽だぜ。」と言ってるのだ。"baby,baby,baby,baby”その笑い声は「アイツ。おもしろい奴だぜ」と共感させるに十分だった。
「我流のブルース」とはよくぞ言ってくれたと思う。これが「誰にも真似のできないブルース」だ!メラメラとする情念が爆発しているんだ。聴き手自身の手が届かない心の奥のところに、一緒に手を持っていってわしづかみにしている。こんなように「ブルース」を歌えた男がどれだけいたと言うのだ。
「我流でないブルース」を歌う奴のブルースなんて、どんな価値があるのかと言いたい。「個人の個人的な自由の解放」こそブルースでないのか。
ピンク・キャデラックを手にしたエルヴィスは、つまり自分の願望が実現がした時に、リベンジが叶ったときに、そう社会をHIT IT!ぶん殴った時に、この歌の通り自分自身を嗜癖する社会に遠ざけ、この歌の通りに分かったような顔つきに変わってしまった。そして生涯、嗜癖する「家」に住み続けることになってしまったことで、エルヴィスの類いまれな情感は磨かれ続けることになる。<DO
YOU KNOW WHO I AM>などの素晴らしいパフォーマンスは自らの自由へのあくなき挑戦から生まれた曲だ。つまり世に言う「何でも歌う歌手」というのも間違いなのだ。彼は終生嗜癖する社会に遠ざけてしまった自分を探し求めて「我流のブルース」を歌い続けたゆえに「世紀のアーティスト」なのだ。
光と影に遮られて見えない人間エルヴィスの真実。そこにはあるのはこの地球上に暮らすすべての人々の物語でもある。この曲はエルヴィスの全人生を語り尽くしていると同時にそのことを教えてくれる大傑作だ。
baby,baby,baby,baby 笑っていても、この歌はままごとじゃないぜ!
笑い声に救いがある。エルヴィスは、憎悪よりも愛することを選んでいるのだ。たとえ、他の男といても、死ぬよりはマシだと、愛することを選んでいるのだ。
ついでまでにこの"baby,baby,baby,baby"の精神は、ビーチ・ボーイズが継承した。ロカ・バラッド全盛の60年代にビーチ・ボーイズが<ファン・ファン・ファン>で停滞していたロックシーンに喝を入れた。
「ボクのカワイ子ちゃん、オヤジに嘘ついて学校休んで遊びに行こうよ」とこの曲と同じことをしたのだ。
BABY LET'S PLAY HOUSE
* Oh,baby,baby,baby,babyBaby,
baby,babyBaby,baby、
babyBaby,baby,baby
Comebackbaby,I wanna lplay house Wlth you
Well,you may got a college,you may go to school
You may have aP InkCadlllac
But don't you be nobody'sfool
Nowbaby,comebackbabycome
Come back baby come Come back baby,
I wanna' play house wit you
And l'm the man to tell you, baby
What l'm talking about Come on back to me little girl
So we can play some house
Now baby, come back baby come
Come back baby come
Come back baby,
I wanna' play house with you
l wanna' play house, baby
Now this Is one thlng, baby, I want you to know
Come on back and let's play a little house
And we can make it llke we d'd before
Oh baby, come back baby come Come back baby come
Come back baby, I wanna' play house with you
Hit it!
Ah, Iisten to me, baby, try to understand
l'd rather see you dead little glrl
Then to be wlth another man
Oh baby, come back baby come
Come back baby come Come back baby,
I wanna' play house with you
*Re peat
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