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冷たくしないで
Don't Be Cruel


前週触れた『時代屋の女房』の原作者村松友視氏の近刊『黒い花びら』(河出書房)が出版された。この本は歌手水原弘の破滅をルポしたもの。
「健全な人生を目指すのが一般世間の価値観であることを重々承知しながら、その反対に闇や毒の魅力がひそんでいることを、いわば肌で知らせてくれた祖父に、わが家の人間たちはむしろ憧憬の眼差しを向けている」と作者は無頼派の作家であった祖父(村松梢風)と「おミズ」と親しまれながらも自滅していった天才的な歌手を重ね合わせている。

さてこの『黒い花びら』にいくつかエルヴィスのことが出てくる。
1958年当時の日本の状況が想像できると思うのでご紹介。

ハワイアン、ウエスタン、ラテン、ジャズといったジャンルにはそれぞれ大御所が存在していたが、ロカビリーはまったく新しい音楽であり、ルーツを探ってもビル・ヘイリーやエルビス・プレスリーに辿り着くくらいで、若者が活躍する以外にないジャンルだった。カントリー・ウェスタンをヒル・ビリーと言ったが、それにロックンロールの要素が加わってロカビリー・・・・・とでも言ったらいいのだろうか。だがプレスリーは彼独特のロックンロールというかプレスリー節とでもいう趣きで、ロカビリー歌手というイメージからも外れていた。
日本におけるロカビリーは、プレスリーよりもポール・アンカやニール・セダカの世代、すなわちヤング・ロックンローラーというニュアンスがあったような気がする。



1956.11.20リリース


他にもあるのでご紹介。『黒い花びら』の中での順番とは変わるが時系列に並べてみる。

二人が語り合った夢が、具体的シーンとして目の前にあった。水原弘とダニー飯田はそのことに興奮したことだろう。そのステージの熱狂とファンの興奮は、おそらくエルビス・プレスリーの熱狂ぶりをコピーした「日劇ウェスタン・カーニバル」生みの親である渡辺美佐の演出によって生じたのではなかろうか。ニュース映画のスクリーンで見た日劇のファンの熱狂が、少し前にやはりスクリーンの中で見たエルビス・プレスリーのステージとあまりにも似ていることに、当時高校三年生だった私も気づいていた。だが、火付け役の渡辺美佐プロデューサーの想像を超えて、日本におけるロカビリーの炎は巨大にふくれ上がったのだった。

私は「不二家ミュージック・レストラン」における”パラキン”のステージで、生の坂本九を一度だけ見ている。そのときはエルビス・プレスリーの「トラブル」を歌っていたが、「イーボー、イーボー」と連呼する英語の歌詞が聞き取れず、後になって「evil」だと分かった。そのときの坂本九は頭が大きく、ニキビだらけで、蒼白い顔をして、ちょっとすねたタイプの若者だった。

それは市販されているのとは別な、レコード店への見本として送られくる盤なのだそうで、何も書いていない白いラベルが、私には神秘的に感じられたものだった。そのテスト盤の中に、水原弘とエルビス・プレスリーのレコードが多く入っていた。彼もまた、私と同じ不良好みであり、もちろん石原裕次郎のファンだった。

以上の4つの文章を総合して判断すると、日本では1956年のリアルではなく、1958年、つまりエルヴィスが入隊した時期にロカビリー旋風が起こっていて、エルヴィスのレコードが本格的に聴かれ出したのは実際には除隊後の60年代に入ってからということだろう。
つまりロカビリー、ロックンローラー、エルヴィスはリアルタイムではあまり聴かれていないことを意味している。確かに認知度はあるものの、時間差、温度差があることは否めない。日本全体でのエルヴィスに対する認知の仕方は「へえー、あんなことがアメリカでは起こってるんだ」という感覚だろう。つまり本国であれだけ猛威をふるったエルヴィス旋風は日本では起こっていないと言える。

エルヴィスのアメリカでの爆発には「テレビ」が大きく寄与し、1956年に於ける数回のテレビ出演でエルヴィス・ブームはアメリカ全土に広がった。しかしこの時期の日本では「映画」「トランジスタラジオ」が主力でテレビはまだ手が届かない。
テレビ時代の幕を開け、国民的ヒーローとなったのがアメリカではエルヴィス、日本では長島茂雄(現読売ジャイアンツ監督)ということになる。(エルヴィスがテレビに顔を出したのはほとんど1956年だけだが)
その点ビートルズは「武道館ライブ」がテレビ放映されたわけだから、日本での親近感は断然強い。

一方映画雑誌の人気投票では『アカプルコの海』『ラスベガス万才』『キッスン・カズン』あたりの数年、男優としてベスト5内にランキングされていて人気が高い。結局本格的にブレイクしたのは『エルビス・オン・ステージ』ということになりはしないか?しかしこれでは「蘇る不死鳥」という印象はあっても『ザ・キング・オブ・ロックンロール』『アーティスト・オブ・ザ・センチュリー』の印象が弱くなるのも当然と言わねばならない。
これが日本でのエルヴィスに対する「理解度の不足」の最大の要因だろう。

その上、先の『黒い花びら』の一節にあるように
「だがプレスリーは彼独特のロックンロールというかプレスリー節とでもいう趣きで、ロカビリー歌手というイメージからも外れていった。」とコピーできたりする代物でもないようだ。

ビートルズの場合はコピーしてもそれなりに恰好がつく。誰が演奏していてもそう大きな違和感がないが、やはり「プレスリー節」というものは誰でもというわけにはいかない。その理由は歌の上手さもあるが、あの独特の黒っぽさと白さのまぜ具合にある。これは誰も真似できるものではなく、カヴァー不可能でないのか。コピーをされている多くの方には失礼な奴と思われるかもしれないが、決してそういうつもりはない。技術を超えて、エルヴィスの体内に宿っている血のようなものはエルヴィスだけのものとしか言いようがない。


そのエルヴィスの典型的なエルヴィス節というか、余裕綽々自信に満ちた大傑作が今週ノおススめ<冷たくしないで>だろう。
エルヴィスとともに数々の名曲を放ったオーティス・ブラックウェルの手によるこの歌にはサン時代の漲った緊張感こそ見られないが、それでも最上のロックンロールのひとつだ。

一体誰がこんなふうに歌えるだろうか?すべてが身体の一部のようだ。バックコーラスはもちろんのこと、回りの空気までもが。その空気が半世紀近い時間を過ぎてもまだそこに流れているようだ。例えばRCAのスタジオ、テレビ局、コンサート会場。そこでまだ録音したり、ライブをしたりしているような気分になってしまう。


浮気な男が背中を向けたガール・フレンド(恋人)へアプローチしている様をこんなにも自信満々に歌われると女のコだって考えてしまうのは当たり前!

女のコの怒り方だって、日本のようにはいかない。なにしろ自己主張が暴力的なまでに強いお国柄。愛するにしろ、怒るにしろ、競争するにしろ半端じゃない。曲調から受けるかわいい印象でこの歌を聴いてしまうと間違うかも。ましてこれはブルースをルーツにもつロックンロール、曲の最後のあたりではアメリカの親の心配がピークに達するのもトウゼンというところ。映画『ヤング・ヤング・パレード』でエルヴィスを女のコの親が猟銃撃って追いかけて来るシーンがあったはずですが、丁度その一歩手前状態ってところ。

嫉妬して怒り狂ってるガール・フレンドへ"uuuuu---n”なんてキュートなため息ついた上に「いつも僕のことを考えて」 なんて、自在に女心を操ろうというこいつはワルだ。
「将来は明るい」なんて「女をなめてるんか!」と蹴飛ばしてやりたくなるのが女心(ですよね?)だけど蹴飛ばせないキュートな奴?!

しかしコレは1956年の歌です。
いまのご時世ならこの歌は女性が歌ったほうが断然似合うかも?!


<Don't Be Cruel>

知ってるかい、
僕が家で一人ぽっちで座っていることを
もし来れないのなら
せめて電話ぐらいしてくれよ
冷たくしないで
僕のホントの心に

もしも僕が言ったことで
君がブチ切れたのなら
お願いだ、過ぎたことは忘れておくれよ
ふたりの将来は明るいよ
冷たくしないで
僕のホントの心に
他の愛なんか全然ほしくないんだぜ
ベイビー、考えているのは君のことばかりなんだよ

いつも僕のことを考えておくれ
こんな気持ちにさせないで
ここへ来て愛しておくれ
わかるだろう、僕が君になんて言ってほしいか
冷たくしないで僕のホントの心に

何故離れているんだよ
本当に愛してるんだぜ
ベイビー、この胸に誓うよ
二人で牧師さんのところに行き
結婚しようよ
そしたら僕は君のもので
君は僕のものだろう
冷たくしないで
僕のホントの心に
他の愛なんか全然ほしくないんだせ
ベイビー、考えているのは君のことばかりなんだよ。


この歌を「矢沢永吉」がどこか外国のステージで歌っていた。ロッド・スチュアートやK.D.ラングなどの豪華な顔ぶれがエルヴィスのカヴァーを聴かせていて、その楽屋でロッド・スチュアートが永チャンに「キミ上手いね」と声をかけていた。
恐らくカヴァーするなら、まだバラッドの方が違和感も少ない。一番いいのは徹底してエルヴィスらしさから離れるしかないのではないだろうか。

ピエロ個人の意見だが、そこには少しでもエルヴィス的なものがないほうがうまくいくし、UB40の<好きにならずにいられない>に代表されるように、どちらかと言うと黒人やグループの方がエルヴィスらしさから離れやすい。

ロッド・スチュアートの<ザッツ・オール・ライト・ママ>同じくロッド・スチュアート、ビリー・ジョエル、ジェフ・ベックの<恋にしびれて>、ジミ・ヘン、あるいはストーンズがメンフィス・ライブで追悼で演奏した<ハウンドドッグ>など様々あって興味は尽きない。
個人の趣味の問題だが切れまくりパンク野郎ジョニー・サンダースとパティ・パラディンの<ざりがに>は成功例だと思う。もともと印象的なバックコーラス部分のみにエルヴィスぽさを出し、ボーカルはエルヴィスから離れているというのはいいアイデアではないだろうか。

いずれにしても工夫しないと苦しい。誰がやっても二流、三流に聴こえてしまう怖さがある。それを真っ向から挑むというのも凄いことだと思うし、あえてそれをするというのはエルヴィスへの愛なしには出来ないことだと考えれば、たとえ突進していって散々な目にあったにしても、その潔さを応援するのが正しいつきあい方だろう。

そして日本において映画、レコード、テレビというメディアのヒーローを石原裕次郎と長島茂雄、あるいは美空ひばりが受け持ったのを、アメリカではエルヴィスがほとんどひとりで担当したようなインパクトがあるからこそ、いまだに映画などで「THE KING」「ELVIS」という言葉が絶えないのだ。

アクの強い個性にそういう意味も含めると『ザ・キング・オブ・ロックンロール』にしても、『アーティスト・オブ・ザ・センチュリー』にしても、イメージとしてはそうであったにしても、音楽的にも功績の面でも実のところ不適切でないかと思う。それらの表現を超越するくらいに存在が大きいからだ。
ロック、ポップスというジャンルにも納らない。グレイスランドの前面道路を『エルヴィス・プレスリー大通り』と名付けたように『エルヴィス・プレスリー』というジャンルにしたほうがいいと思うのはピエロだけではないはずだ。

だから「冷たくしないで」"uuuuu---n"


収録アルバム
●エルヴィス・ゴールデン.レコード第一集
●ロックンロール
●ELVIS'56
50 WORLDWIDE GOLD HIT
●ARTIST OF THE CENTURY
他多数