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エルヴィス・プレスリー、1958年のナンバーワン・ヒット、「ドント」のアメリカ盤

音楽なくして人生なし、エルヴィス・プレスリー


DON'T
ドント

エルヴィス・プレスリーが好きだから、当然エルビス映画も好きだ。

しかし好きな劇映画のベスト・ワンは長きにわたって『冒険者たち』というフランス映画だった。
それをひきずり落としたのがアメリカ映画『グッドウィル・ハンティング』だった。

その2本を日の丸の国旗で包んで、東映仁侠映画という鍋に放りこんで、グツグツ炊いたような映画が『凶気の桜』(ヒキタクニオ原作、薗田賢次監督、窪塚洋介、RIKIYA、江口洋介出演。)という映画だった。ひさしぶりに劇場で観た日本映画だ。

かなり炊き込んだんだようで、先の2作品が持っている情緒らしいものは、微塵もないように見えるが、カメラワークは意欲的であったし、「暴力映画」の顔の向こうにあるナニかがひっかかっていた。

物語を要約すると、3人の若者が渋谷を根城にチンピラ狩りを毎日のように繰り返し、マナーがなっていないと反省を促す。やがて彼等はそれぞれに新たに属するものを求めて黒い組織とかかわっていく。それがいつしか取り返しのつかないことになるのだがーーーー。

チョー簡単な説明は作者に対して失礼なのだが、この映画がある時突然にフラッシュバックしてきた。



【映画・凶気の桜】チンピラ、不良狩りは一体何か?つまり三人は自分たちの暮らすこの国にこの国の国民としてふさわしい同胞を求めているのだ。

しかし3人には同胞とは呼べない者が大勢を占めると映る。それが我慢ならない。
早い話、三人は世直しをしているわけではなく、チンピラ、不良に対して人格のない影のような存在から「人格のある同胞であること」への変化を強要しているのだ。強要しても通じるような相手ではない。強要はともかく彼等が求めるものは決して間違っていない。
真の意味で国家に依存することなく自主、自律して暮らせという国家は国家ではない。人間はそんなに強くない。

3人は得体の知れない”国”より、もっとはっきりした”親子のようなもの””兄弟のようなもの”を無意識の内にそれぞれ求めはじめる。

本来、国、家庭、地域は、自分以外の人が大勢いることで、もっとも自分のアイデンティティを確かにするものである。確かに街には多くの人がいるが、自分の都合だけで暮らしているような人間とは他人を無視している状態であって、その視線には他人がいない。
他人が自分の隣にいないということはすでに自分がいないことを意味する。

自分を持たない人ばかりが周りを囲んだとは非常事態だ。
自分が自分と認識できない不安、宙ぶらりん状態である。
それは国、家庭、地域のどこにも属していないということであり、国、家庭、地域がすでに崩壊していること意味する。

ところが誰もそんなこと気にかけない。いまどき愛国精神というと怪しまれる。
愛社精神というとダサイと言われる。人を愛せばウザイと言われる。携帯電話という記号で繋がって何か属していることを安直に求める。

三人の若者は根無し草のような日常をもっともらしい文化としているような状況に我慢できない。
三人は生い立ちなどからして、すでに根無し草そのものであるがゆえに、自分が鏡に映るような根無し草の人々の行動は自分の不安を煽る存在で我慢ならない。
しかし実態は三人は叩きのめした不良からも国家からも見捨てられているのだ。

自分たちの制服で暮らす様は奇異であっても、繁栄に包まれ、一見スマートに見える三人。だが実際のところ、精神が餓死寸前状態のストリート・チルドレンでしかない。

結局空腹のあまり食べてはいけないものを食べてしまう。
映画は自分達が属するべきところを求めて、散っていく悲劇を描いている。三人の若者を通して日本の国と国民の惨状を突いているのだ。


コヤツは何を書いているのかと思われる方も多いだろうが、それには理由がある。

『凶気の桜』の原作を書かれた作者ヒキタクニオ氏はエルヴィスの<ハートブレイク・ホテル>の最初の一行でエルヴィスに魅了されたと伝え聞く。
当然かもしれない。『凶気の桜』の主人公とエルヴィスには類似点が多いように思えるのだ。
まだ原作を読んでいないし、自分勝手な解釈なので作者の意図と違うかもしれないが。

エルヴィス・プレスリーには家族があり、グラディスは溺愛した。
エルヴィスはそれに応えてグラディスを守ろうとした。

しかしエルヴィスは精神的に依存できたのだろうか?その意味でエルヴィスもまた精神的にはストリート・チルドレンであったように思える。
誰にも何も言わずに自分の胸にしまいこんだ不安を察してあげる人はいたのだろうか?
エルヴィス少年は聴こえてくるメロディーの中に、自分の夢も悲しみもみんな閉まいこんだのだろう。
宝物はすべて音符のなかに。

エルヴィス・プレスリー個人の最大の戦いは衣食住の安定と世に認められることである。
それはアメリカ社会に明確に「属する」こと、
つまり「属していると認められる」ことであり、その野望への意欲は、同時代のロカビリー連中と比較しても群を抜いていたのではないかと思う。

それはエルヴィス・プレスリーが遺した記号の多さに発見できる、
しかもどれもが極端に強い記号であることは驚きである。

挨拶、笑顔、衣類、車、家、スタイル-----パーカー大佐の作戦を越えて、エルヴィス自身の意志が散りばめられているのは田舎出の若者が社会を変えたことを物語っていて感動的な驚きだ。
20年の抑圧されたエネルギーがエルヴィスのスタイルになった。

非常にクレバーな人だったと思うが、ブラッキーなフィーリングが表現しているようにエルヴィスには他の誰よりも必要としたのだろう。

エルヴィスはアメリカ社会の歪みが産んだアウトローである。
エルヴィスは自分の熱意とサム・フリップス、トム・パーカーの力を借りて達成する。
しかし以前から書くように3回目のエド・サリバン・ショーでアメリカ国民として星条旗に属することが明確になったことで、エルヴィスの戦いは終わった。

以後ふたたび3回目のエド・サリバン・ショーに至るまでに匹敵する熱情はエルヴィスに見ることはできない。


【映画・凶気の桜】
主人公に恋する少女が「日本は好きだけど日本人は嫌い」と語る。
彼女の言う日本人とは、他者が見えない、他者を見ない自分しか持てない日本人のことを言ってるのだろう。
他者が見えない自分とは自分がないということである。

隣の庭があって自分の庭があるように、隣の庭のない自分の庭は自分のものでも誰の者でもなくなてしまうように、他者がいてこそはじめて自分がいるのだ。
他者が見えない自分とは自分とは自分が崩壊してしまった状態でしかない。3人は自分を崩壊させて何とも思わない人間の中にいることに我慢ならないのだ。

国家と隣国、我が家と隣の家族、男女の区別、売り手と買い手、歌手とリスナー。はっきりと自分の属性があることで自分なのだ。
国産がなく多国産に囲まれて暮らし、プロでないような歌手が歌い、プロになれそうな若者がカラオケで歌う。属性の混乱は自己喪失、無への道筋である。自分の欲望のために他者を使うことへの抵抗感が薄れて行く恐怖。

日本の政治は自由で自主的で競争的な自分というものを強く要求している。
しかしナニにも依存することなく支えられない、属性を持たない自主、自律的な自分というものはあり得るのか。
そんなものは狂気だ。


エルヴィス・プレスリーという人は育っていく環境のせいで、ナニにも依存することなく支えられることのない自主、自律的な自分を幼い内から自分の求めた人でなかっただろうか。

もちろん成人でも困難なことを幼少の彼にできるわけがない。
エルヴィスの悲劇はそれによって破壊的なまでな自信喪失を起こしてしまったことだ。
消え入るように透明人間にでもなりたいような気分で暮らしてきたのではないだろうか。

唯一歌うときを除いては。


【映画・凶気の桜】
凶気の桜の三人は他人にアイデンティティを強要しながら、果たせずに、確かな自分を獲得するために、裏社会に依存、支えてくれるものを求めていく。


「自主、自律的な自分」への自信をなさを記憶の奥底に沈澱させていたエルヴィスは自分にオーダーを出す人、
つまり心理的に依存できる人に出会った時に素晴らしい仕事をして作品を残している。

いつ聴いても驚きのサム・フィリップスとのサン・レコードでの永遠に輝きを失わない最高の傑作群、ハル・ウォリスとの初期の作品、ドン・シーゲルとの『燃える平原児』、ジョージ・シドニーとの『ラスベガス万才』、スティーブ・バインダーとの68年テレビ・スペシャル、チップス・モーマンとのアメリカン・レコーディングでの録音『フローム・エルヴィス・イン・メンフィス』、またゴスペルを録音した時にも、天の声によってテンションが高くなるのか、グラミー賞獲得のゴスペル以外の曲でも『サレンダー』『横町を下って』など素晴らしい作品を残している。


【映画・凶気の桜】
戦後、国民の支えとして国家の代りを果してきたのが”カイシャ”だ。
国家の代りという重責を果すために”家庭”という支えを呑み込んでしまった”カイシャ”だが、バブル崩壊以降にあっては”カイシャ”という支えもなしに、自分を確立しなければならない。

相変わらず極端な理想主義が見出し的に謳われる。自主自律できない多くの日本の若い世代にとって何の支えもないということは根無し草である。現在の日本はそこで浮遊したままだ。

属性が定かでない自分を持たない人と暮らすということは、自分を自覚できない暮らしを強いられる。おぞましい事件が続出するのも当然で「携帯電話」というベールをはげば、そこにあるのは「狂気の世界」「ゾンビの世界」だ。

明治維新後の極端な理想主義、戦前の日本の国民は依存できない情勢、自らのアイデンティティを描けない情勢に耐えられず大日本帝国に依存し、悲劇的な結果に至ったように、凶気の桜の三人が依存したのも結局”大日本帝国のようなもの”だった。



エルビス・プレスリーの「ドント」のEP盤エルヴィスは自分の身の回りを稼いだ金で築きあげる。
それは心の深部ではますます自信をなくす行為であることも多いが、ほとんど一夜にして成功してしまった自分の不安を解決する手段として、その選択は誰にでも無理のないことだろう。

惜しまれるのは時間の経過とともに変えて行くべきだったが、誰も手を貸してやることはできなかった。

本当に優れたパートナーがいたら、エルヴィスは才能ばかりでなく、意欲でもって創作活動に取り組めた可能性を残した。
教師は生徒がいてこそ教師と自覚できる。

歌手は聴き手がいてこそ歌手である。
70年代繰り返すライブ活動にやがて混乱が生じはじめる。
74年に刷新したステージ、新しいプログラムに対するファンの不評。いつも馴染みの曲を期待するファン、エルヴィスは歌手としての自覚すら徐々に見失い、負の連鎖に迷いこむ。高い目標と自分のしている状態とギャップ、それを打破できるだけの挑戦心の欠如。敗北感だけがまとわりつき、日に日に重みを増す。

あろうことか、エルヴィスがいて、とりまきがいて、曇った空を見て、「今日は天気がいいな」と言えば、「そうですね、いい天気だ」と返ってくる日々が続けば、もはや自分は存在しないのと同じなのだ。
そこにある肉体は空洞でしかない。
グレイスランドが精神の廃虚の場となっていくのは自然の摂理だ。

エルヴィス・プレスリーには理解できない側面がいくつもある。
そのひとつがトム・パーカー大佐との関係。ギャラの半分をパーカーが受け取り、エルヴィスは半分から必要なコストを支払う。
つまりエルヴィスの取り分が少ないのだ。尋常ではない契約が終生続いた。

エルビス・プレスリーの「ステイ・アウェイ・ジョー」なぜこのような理不尽を認めることができるのだろうか?
理不尽ばかりか、ギャンブルに大金を注ぎ込み、ハワイライブ以降、まともな仕事をしていないパーカーと共倒れである。

「共倒れ!」
これがエルヴィスが知っていた究極の愛の姿でなかったか。

いろんな憶測は可能だが、アメリカ国民として最高のポジションをもって「国家に属する」ことへの恩義と、「属さない(アウトロー)」ことへの恐れが、それを許したのではないだろうか。強い不安がエルヴィスを支配した。

グラディスの影響が強いのだろう、自身も周囲にも嗜癖の強い人が揃っていた。
生きるのが重かったのだろう、
嗜癖に自分を投げ込んで自分を顧みないことでようやく安心できる。

しかしそれを攻撃する気にはなれない。エルヴィス少年の痛みがどれほど痛かったのか、それはエルヴィスにならない限り理解できないからだ。

走ることが出来ない人の欠落は外面で判断しやすい、しかし内面の欠落は図り知れない。

エルヴィス少年は<ジョニー・B・グッド>さながら、ステージの下で、お金の心配なく安心してアメリカ国民として暮らせる日を夢見たのだろう。

しかしジョニーを遥かに超えて、最高レベルの到達したときに崩れる。最後のエド・サリバン・ショーでミュージシャンとしても、精神的な意味でも野望制覇の頂点に立つが、以降、精神的な意味では衰退に向かう。

素晴らしい仕事を残していく一方で、どうあがこうがいま以上に幸福になれることなどないと思った人間の淋しさも加速させただろう。

自分をコピーしていくはかなさ。ステージ活動の果てに、ミュージシャンとして歌う意欲さえなくしてし、放蕩を重ね、その日暮しを続けていく。意欲もなく体調も悪く録音しないエルヴィス。契約不履行の事態を避けるためにグレイスランドに機材を持ち込んでの録音(アルバム『メンフィスより愛をこめて』)という混乱。

それでもあれだけ歌える!

歌う意欲もなくすほどの厭世感、愛されたいと願いながらも、それを抑えて愛する体裁をとりながら、愛を押し付けることを愛の表現と勘違いし、愛をイメージしながら真実自分も他者も愛することができず、玩具のように扱う術しか知らなかったエルヴィスにとって愛されるための条件とは一体何だったのか?

グラディスの見せた憂鬱か、ため息か。エルヴィスは自分を忘れるために自分を地獄に投げ込む日々を続ける。
体調を崩すことが愛のパスポートだったのかも知れない。
母親のような優しさで献身的に支えたと評判の高い恋人リンダ・トンプソンも、荒廃と共倒れの愚に耐えられずに去る。干上った井戸にいくら水を入れても貯まることはなかった。
リンダ・トンプソンは愛した男の名誉を守る気持ちなのだろう未だに無言のままだ。

ひとり娘のリサ・マリーにすらナニも遺してやれないような破滅に突き進まなければならないほどの苦しさとは一体なんだったのか?

自分が何を持っていたのか、自分の才能がどれほどのものだったのか、
自分が何を成し遂げたのか、その偉大さを遂に理解しないままに才能と財産を浪費し、自身の肉体もボロボロにしながら、破産と破滅へ一直線に向かっていたことを思うと、才能と富に恵まれながらも、お金の心配なく安心してアメリカ国民として暮らせる姿を本当には最後までイメージできることもなく、すでに満たされているはずの暮らしは居心地が決してよくなかったのだろう。

富と愛を求めながら、手にした富も愛も自身にふさわしくないと思えたのだろう、小さな少年の記憶と交叉した時に、その成功はあまりにも遠いものだったのかもしれない。

可哀想にも引っ込み思案になってはいけないところで、その気性は発揮されてしまった。
安定は退屈でしかなかったのかも知れない。
幼い時から不安と緊張が続いたために生の充実は混乱の中にこそ発見できたのかも知れない。

切羽詰まった状態では素晴らしい仕事を残した。驚くべきことにエルヴィスは成功の都度、意欲が低下し、危機が来るたびに努力ではなく類い稀な才能で乗り越え続けた。Don't!、最後に掴まるまでは。

エルヴィス・プレスリーの歌にはそれらの一切が詰まっている。
残された歌はことごとく素晴らしく、地獄にいながらにして天国にいるかのように、嘲笑するかのような無頓着さだ。誰とも話していない、ただただ自分に向かっているだけだ。

そこには自分が隠した宝物がいっぱいだ。
エルヴィスはそこでは王子様にも騎士にもなれる。
どんな役をしょうがそこではいつもエルヴィスであることが許される。

「おれは本当にところ、一度だって根をあげたことなんかないんだぜ」自分を苦しめた災難に復讐するかのように自分のままだ。

ザ・キング・オブ・ロックンロールは自分の力とアメリカ南部的な力で全宇宙を手にしているかのようだ。
他者を圧倒して魅力的なのはテクニックで歌うことをしないで、彼のパーソナリティとして備わっていた優しさからのものだろうという理由に尽きる。

それは決してロマンチックなものでなく、生きるための知恵だったのかも知れないが、歌こそ唯一真実の言葉だった。

そこではイメージした愛がいきいきと息ずいている。
恐れも怯えもなくあるがままの自分で語っている。
誰ひとりとして立ち入れない、立ち入れなかった世界から歌っているようだ。


アートと呼ぶにふさわしいそれこそが他のミュージシャンが求めても叶わぬ芸当なのだろう。


エルヴィス・プレスリーのゴールデンレコード第2集緩やかな自殺への助走が緩やかに始まったのは、ゴールデンレコード第2集に収録された曲あたりからである。

大半の方は「バカな」と思うだろう。勿論本人も周りにもそんな気配はなく、すべて順調である。

しかしエルヴィスには為すべき目標はもうない程の幸福の内に、最愛のグラディス死亡の影が、エルヴィスの人生の黒子のように人生脚本完成の幕をひく。

この時期の解き放たれた奔放は、サンの奔放な攻撃の裏返しである。

エルヴィスの野望は達成されたのだ。喜んでいる、喜んでいる、



ゴールデンレコード第2集のエルヴィスは
こんなにも幸福である。

(アルバム『闇に響く声』の奔放も素晴らしさに満ちている。)

<Don't>はジェリー・リーバー、マイク・ストーラーのコンビによるR&Bの匂いも強いバラード。

B面に両面ヒットとなった軽快なロックンロール・ナンバー<アイ・ベグ・オブ・ユー>(全米ヒットチャート8位)を収録してのリリース。

入隊騒動もあって発売前予約でミリオンセラー達成している。

解き放たれた奔放のせいで、奔放に自らを抑圧遊びしている気がしてならない。
テクニックで歌う人ではないが、ここではテクニックを遊んでいるように思えてならない。
歌こそ唯一真実の言葉が身上のエルヴィスならではの冗談のように思える。

そう考えてしまうのは<ドントまずいぜ>という冗談めいたタイトルのせいなのか?

イメージが混乱したままに自分の記憶にすり込まれたこの曲とは、しっくり馴染めないままつきあうしかない。

A game l'm playing
のきらめきは
命のしずくのようにリアルで美しい!



パラマウント映画『闇に響く声』クランクイン(20日)前夜、
1958年1月18日ヒットチャート初登場、2月連続5週、全米ナンバーワン・ヒットになった。

入隊への不安はあったものの、母グラディスも健在、エルヴィス・プレスリー生涯でもっとも幸福な時代のバラードである。

Don't, don't, that's what you say
Each time that I hold you this way
When I feel like this
And I want to kiss you baby Don't say don't

Don't, don't leave my embrace
For here in my aTms is your place
When the night grows cold
And I want to hold you baby Don't say don't

If you think that this is just
A game l'm playing
If you think that I don't mean
Every word I'm saying
Don't, don't don't feel that way

l'm your love and yours I will stay
This you can believe I will never leave you
Heaven knows I won't
Baby don't say don't, please don't


エルヴィス・プレスリーが壊れていったのは、不良品だからではない。
『凶気の桜』の三人が弱い人に席を譲らない人間がはびこる社会に挫折せずに何の支えもなしに戦おうとしたために破滅したのと同じように、生来の優しさと強い期待への責任感、高い目標に何の支えもなしに応えようとした真面目のために破滅したのだ。

こんな話は巷に溢れている。
そして悲しいことに日に日に増えるばかりだ。
心優しい者が生きにくい、暮らしにくい場は好ましい人間の集まりの場でない。

うれしい時も
悲しい時も
いつもエルヴィスがいる。

このメッセージは最初に”エルヴィス映画”のパンフレットからもらったのだ。

うれしい時も
悲しい時も
いつも私がいる。

あなたがいて、わたしがいることの重要。

人間には支えが必要なのだ。そして誰でも誰かの支えになれる。
あなたがいて、わたしがいる。というメッセージを確かに相手に届けることだ。

もし、エルヴィスを愛するならば----
妊婦さんや老人が立っていたら、席を譲ってあげることだ。席を譲ってもらえた人は自分はひとりではないのだと強くなれる。
金のかからないセフティネットがない社会に投資してどんなセフテイネットができるのだろうか?

エルヴィス・プレスリーにしても、マリリン・モンローにしても、特徴が際立っていてしかも多い。
その記号を真似て茶化す傾向がこの国には特に多い。違うことを尊ぶ文化を持たないからだ。
そのためにエルヴィスをおもしろおかしく伝える傾向はあるが、そんなものは黒く塗りつぶせ。

エルヴィスが残したもっとも重要な記号は、
心優しい者が壊れるしかないような社会は悲惨だということではないか。
そしてもうひとつは
支えがなくても、ほとんど自分ひとりの力でここまで到達した成功の可能性の示唆。

それを------
エルヴィス・プレスリーはテクニックでなく、自分の身体と精神と命で歌った。
おちゃめすぎて、いじらしいほど愛すべきロッケン屋バカ一代、
自分仕掛けの時限爆弾、まるごと爆発の42年は<Don't>だったのに。
エルヴィス・プレスリーのレコードを置いて、町に出よう。
疲れたら帰ってきて、またエルヴィスを聴けばいい。

道に迷った人に声をかけるドクター鈴木は素敵です。
そしてBMGのスーパー・ノリノリ、ゲンキ娘、Pinkのコンサートに背中の曲がったおばあさんが参加している光景は、それ以上に素敵かも知れない。
いつも現役はサイコー!!


"ダメよ"と君は言う
僕が抱きしめるたびに
僕がこんな気持ちで
君にキスしたいときは
"いや"と言わないで

僕の抱擁から逃げないで
君の居場所はこの腕の中なのだから
夜更けに寒さが増し
君を抱いてあげたいとき
"いや"と言わないで

もしもこれがただの
ゲームだと思うなら
もしも僕の言うことが
全て嘘だと思うなら
そんなふうに考えないでおくれ

僕は永遠に君のもの
信じて、決して君を放さない
これが嘘じゃないと神様は知っている
だからベイビーお願いだ、"いや"と言わないで

SPECIAL TANAKS TO NEW FANさん&ドクター。

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