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A LITTLE LESS CONVERSATION
おしゃべりはやめて

ナイキのCMソングに使用され世界中で大ヒットの<ア・リトルレス・カンバセーション>だ。

2000年度アカデミー賞監督スティーブン・ソダーバーグのもと、ジョージ・クルーニー、ブラッド・ピット、マット・デイモン、ジュリア・ロバーツ、アンディ・ガルシアが競演した『 オーシャンズ11』が当たり前のように人気だ。

クラブミュージックが満載、洒落たサウンドはスタイリッシュな映画のイメージをよりクールに仕上げて好調。それにしてもやはりエルヴィスのラスベガス、ラスベガスのエルヴィスなのだ。ロサンゼルスでもニューヨークでもなく、エルヴィスはラスベガスなのだ。
11人が集結、ラスベガスに強盗に乗り込む場面で、空からのラスベガスのネオン煌めく街を空からとらえたところでエルヴィスの<おしゃべりはやめて>が鳴り響く。「ヨッシャ!」というキメの場面なのだ。キングにふさわしい扱いは好感!

サントラ盤で聴く<おしゃべりはやめて>は<キャラバン>など他の曲とぴったり、違和感ゼロの恍惚は、選曲の素敵さとしかいいようがない。たった1曲だが、本当に誠実な選曲である。
掲示板のキング、BearCatさんも語るように、この曲がリリースされたときは、ガックリきたファンも多くいたはず。しかもB面には<恋のボサノバ>、きれいな曲だがペリー・コモになるつもり?と全く感動できなくなった。「エルヴィスは終わった」と本気でそう思ったのだ。その曲が見事に35年の時空を超えてラスベガスの空で溌溂なのだ。改めて天才だったのだと思い知らさせる以外になさそうなのだ。

<おしゃべりはやめて>はビリー・ストレンジ&マック・ディビスの作品、ビリー・ストレンジは<メモリーズ>を提供、マック・ディビスは<イン・ザ・ゲットー>を提供していて、この時期のエルヴィスの印象に残る作品を残している。オリジナルはエルヴィス28本目の映画『バギー万才』のサントラとして使用、録音はL.A、NBC-TVスペシャルのメンバーの演奏のもとに行われた。

口数を減らして、もっと行動で示してよ
こんなイライラ、ちっとも嬉しくない
ケン力が増えれば、恋の火花は弱くなり
ケン力を減らせば、恋の火花も飛ぴ散るから
さあもう心を開いて、僕を満足させてくれ
ベイビー満足させてくれ、

ベイビー目を閉じて、音楽に耳をかたむけて
夏のそよ風に身をまかせよう、こんな素敵な夜だから
楽しみ方をおしえてあげる、
おいでよ、僕と気持ちをリラックスさせるのさ

口数を減らして、もっと行動で示してよ
こんなイライラ、ちっとも嬉しくない
ケン力が増えれば、恋の火花は弱くなり
ケン力を減らせば、恋の火花も飛ぴ散るから
だまって心を開くんだ、僕を満足させてくれベイビー、
満足させてくれよ、もう話すのも疲れたよ
コートを持ったら歩きだそう

ほら、ほら(ほら、ほら)
ほら、ほら(ほら、ほら)
ほら、ほら(ほら、ほら)
グズグズするなよ、何でも言うな
君はいつでも条件だしてばかり
たまには座って待てないの

くり返し

僕を満足させてくれ
ベイビー、満足させてくれ
僕を満足させてくれ
ベイビー、満足させてくれ
僕を満足させてくれ
僕を満足させてくれ
ベイビー、満足させてくれ
僕を満足させてくれ
満足させてそう、満足させてくれ

ついでに、<チャロ>もどこかで使って欲しいものだ。これぞ!これこそが、エルヴィスの歌った曲でワーストNO.1と断言する。誰がなんと言ってもは譲らない。マカロニ・ウェスタン+007というような、よくぞこんな奇妙な曲をあのエルヴィスに歌わせたものだと、またエルヴィスもよく歌ったものだと呆れ果てた。これがあの<ハウンドドッグ><ハートブレイク・ホテル>を歌っていたこともあった同一人物なのかと思うと、この世はなんでもありかと思ってしまう酷さなのだ。<メモリーズ>のB面で陰に隠れたといえどこの曲が、<明日への願い>と<イン・ザ・ゲットー>の間にリリースされているというのも信じられないのだ。本能に背を向けた果てか?あるいは本能の行き着いた果ての矛盾だったのか?この曲を使えるとしたらタランティーノあたりか?もしこの曲までも<おしゃべりはやめて>のようにキマったら、もう音楽聴くのやめるしかない。

それが自分の理解力不足だったにしろ、これらの曲は当時、多かれ少なかれ、自分をはじめファンの心を傷つけたはずだ。それが当世ハリウッドの誇るスターが顔合わせした作品のサントラとして使用されることは「江戸の仇を長崎で」のような思いが湧いてきて大きな喜びに包まれる。

当時、この曲に出会って感じた「恥ずかしくなってしまった」あるいは「どうしょうもない苛立ち」は何だったのか?恐らくそれはこの曲がここに至るまでの駄作の群れを全部背負った印象を受けた気がしたからである。シングル盤に針を落とすなり、「ファン以外に一体誰が聴くのか」と反射した鬱憤。ヒットチャートに縁もなく、映画館は空席、聴いても観ても、誰とも語らうこともなく、それはエルヴィスとの関係というより、自分が世間と関係のないところで、誰も感激しない音楽を聴いている空虚、磨かなければないらない感性を無駄に浪費しているような苦痛に突き動かされたからだ。

<おしゃべりはやめて>の最悪と思えた当時の奈落の底からカムバック・スペシャルに向かっていく波乱。ついに『エルビス・オン・ステージ』のポスターが街中に氾濫した興奮。さらには『エルビス・オン・ツアー』がシネラマでロードショーされた感激。
これらの思いが、『オーシャンズ11』の画面から一気に噴出してくるのだ。挙句の果てにはジョージ・クルーニーの端正な顔がエルヴィスの一番美しかった顔とオーバーラップし。あの時代に誰か何か、この曲についておしゃべりしてほしかったと思ってしまうのだ。

サントラでこの曲をはじめて聴くエルヴィス・ファン、そしてエルヴィスを何とも思わないリスナーは一体どんな思いがするのだろうか?

A Iittle less conversation, a little more actlon
All this aggravation ain't satisfactionin' me
A Iittle more fight, a little less spark
A Iittle less fight. a little more spark
Oh, you might as well open up your heart
And baby, satlsfy me Satisfy me, baby

Baby, close your eyes and listen to the music
Dig to the summer breeze It,s a groovin' night
And I can show you how to use it
Come along with me And puts your mind at ease

*A Iittle less conversatlon, a little more action
All this aggravation ain't satisfaction' me
A Iittle more fight, a little less spark
A Iittle less fight, a little more speak
Shut your mouth and open up your heart

And baby, satisfy me
Satisfy me, baby Come on baby, l'm tired of talkin'
Grab your coat and let,s start walkin'
Come on, come on (come on, come on)
Come on, corne on (come on, come on)
Come on, come on (come on, come on)
Don't procrastinate, don't articulate
Girl. you stipulate You can't slt and wait around

* Repeat

Satisfy me. girl Satisfy me, baby
Satisfy me Satisfy me, baby
Satisfy me, girl Satisfy me
Satisfy me, baby Satisfy me, yeah
Satisfy me, Satisfy me, yeah

同時代を共有した者だけに通じる世界、時遅く共有したくても共有できなかった遅れて者の苛立ち。そこにある思いは沢木耕太郎『世界は「使われなかった人生」であふれている。』(暮らしの手帳:刊)で見事に語られたクリント・イーストウッドへの思いと同じである。

---------------『許されざる者』について思いをめぐらせた。相棒を保安官らの私刑によって失ったマニー(グリント・イーストウッド)は、カウボーイ殺しの捜索隊を組織すべく町の男たちが集まった酒場に自ら乗り込んでいく。そして、彼はライフルを構えて保安官の前に立ちはだかるのだ。しかし、私にとって、そこでライフルを構えているその男は単にウィリアム・マニーという名を持った男ではなかった。かつては『ローハイド』のロディ・イェーツであり、『夕陽のガンマン』の名無しのガンマンであり、『ダーティハリー』のハリー・キャラハンであったという、まさにそのような男として存在していた。マニーが引き金に指を掛けるとき、ロディとして、名無しのガンマンとして、ダーティハリーとして、永く銃を握り続けてきた老グリント・イーストウッドが引き金に指を掛けることになる。私たちはその銃口から飛び出した弾丸が保安官であるジーン・パックマンの胸を打ち抜くとき、それを押し出すのが単にその銃の撃鉄だけでなく、ロディの、名無しのガンマンの、ハリーの銃の撃鉄であることを知っているのだ。これはグリント・イーストウッドにおける最後の西部劇になるかもしれないという。彼自身こんなふうに語っている。《最後の西部劇を撮るとしたら多分これがそうだろう。私の気持の総まとめみたいなところがあるから。だからきっとすぐに映画化しなかったんだろうと思う。自分の最後の西部劇として大事に暖めてきたのだろうと思う》
この『許されざる者』には、彼にとっての、というだけでなく、すべての者にとっての「最後の西部劇」になってもいいかもしれないと思わせるものがある。簡潔で、力強く、美しいのだ。

銀座を一時間ほどぶらぶらと歩きまわり、私はようやくひとつのことを理解するに至った。それは「同時代」ということだった。これこそが同時代に映画を見る楽しみなのではあるまいか。二十年か三十年後にかつての名画として『許されざる者』を見る人たちには、どうしてこの映画に私が深く心を揺さぶられたのかはわからないかもしれない。なぜなら、彼らにとってマニーが撃つ一発は単なるマニーの一発に過ぎないだろうからだ。グリント・イーストウッドという俳優が演じてきた役の歴史を、私のようには体の中に重ねてきてはおらず、だから最後の一発とでもいうように彼が引き金を引くときの、「これがすべての終わりなのかもしれない……」という哀しみに似た感情は感じ取れないだろうからだ。

『世界は「使われなかった人生」であふれている。』沢木耕太郎著(暮らしの手帳:刊)

彼らにとってマニーが撃つ一発は単なるマニーの一発に過ぎないだろうからだ。”------この思いはリアルタイムでエルヴィスを聴いてきたものと、後からエルヴィスをひとつの固まりとして聴く者との間で起こることと同じなのだ。--------この本に思いきりウンウンと頷いた。

この本には期せずして、先週取り上げた『グレイスランド』についても触れられている。そこではあくまで映画『グレイスランド』について触れただけなのだが、エルヴィスが何者だったのか、それをひとことで表現し尽くしていると言っても過言ではない。来週できればそれについて触れたい。

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