SHE WEARS
MY RING
シー・ウェアズ・マイ・リング
エルヴィス・プレスリーの音楽
エルヴィス・プレスリーのDVD
エルヴィス・プレスリーの本
引越作業とは、時に思わぬ幸運を運んでくれる。探していた本が突如出てくるのは嬉しい限りだ。
反対にあったものがどこかに紛れて出て来ないという残念にも出くわす。
出て来たのは『アメリカン・ビート』という本、行方不明になったのはエルヴィス・プレスリーのCD『GOOD TIMES』
俺は古いロックンロールが好きなのさ
俺の魂を癒してくれる
俺を過去の遺物と呼ぼうが
時代遅れと呼ぼうが
下り坂と呼ぼうが
俺の魂を癒す古いロックンロールが好きなのさ
(オールドタイム・ロックンロール/ボブ・シーガー)
ボブ・シーガーをご存じか?<アゲインスト・ザ・ウインド>という曲を、エルヴィス・プレスリーがもういない80年初夏にビッグヒットさせた。『奔馬の如く』の邦題のアルバムタイトルでリリースされた。
エルヴィスとはまたひと味違うプロレスラーのような風貌の、それにしても<アゲインスト・ザ・ウインド>・・・そのタイトル通りに”今でもまだ風に向かって走っているぜ”ピアノの音、印象的なリフレインがストレートな男の心情と一体になって疾走、ココロを揺らす曲だ。イーグルスのメンバーがバックコーラスに参加していた。当時あまり音楽を聞かなくなっていたが、この楽曲はよく聴いた。
ここで彼をとりあげたのは、全米約150紙の新聞に掲載されているコラムを書く、ボブ・グリーンがボブ・シーガーに触れていること。
その記事は『エスクワァイア』誌に書いたコラムを集めた書籍『アメリカン・ビート2/ベスト・コラム30』に掲載されたものだが、それがエルヴィスに関するコラム2本と連なって書かれていること。そしてその記事が、連なっているせいなのか、妙にエルヴィスの匂いを含んでいるからだ。
因に『アメリカン・ビート2/ベスト・コラム30』は音楽についてのコラムを主としたものでないが、この本にはエルヴィスの名が出てくるものが全部で4つある。今回はボブ・シーガーについてのものと、『エルヴィスが笑っている』をピックアップ。次回は『エルヴィスが死んだ日』ともう一本をピックアップしたい。
サブタイトルのベスト・コラム通り、全編すぐれたコラムが満載だ。
ロックがすべて
デトロイト・コーポ・アリーナ、音のこだまする広大な空間。ボブ・シーガーがステージ前方に進みでた。ギターを手にした彼は、『メイン・ストリート』の出だしのフレーズを歌いはじめた。「真夜中の街かどに立っていたのを覚えている/勇気をふるい起こそうとして…・:」
声が遠くまで届かない。土曜日の午後遅い時間、音響装置のテスト中だ。マイクロフォンの調子が悪い。あと3時間もすれば、アリーナは2万人以上のファンで埋めつくされる。だが今はまだホールの入口には鍵がかけられ、シーガーの声を聴く聴衆はひとりもいない。
ステージから数メートルのところまでしか声が届かないので、さらに二、三小節歌ったところで彼は歌うのをやめた。そして、何千席もの空席を見わたした。今夜、ついに彼は故郷に錦を飾ろうとしていた。中西部の小さな世界の外で名を成そうと15年間下積み生活を送ったあと、シーガーのアルバムはアメリカで売上ナンバー・ワソになった。6日間連続のコーポでのコンサートのチケットもすでに売り切れていた。7万5千人近いファンが、ミシガン南部出身の35歳のロックンローラーの歌を聴くために、ひとり最高1000ドルを支払っている。
シーガーは二階正面席を見つめた。彼の後ろではパックを務めるシルバー・バレット・バンドが『メイン・ストリート』の演奏を続けていた。が、シーガーはそれ以上歌わなかった。じっと遠方の座席を見つめている。しばらくすると、純粋な喜びの微笑が彼の顔中に広がった。
人はだれでも夢を抱いて大人になる。1940、50年代、アメリカの少年たちは野球選手になることに憧れた。しかし、50年代も終りに近づくと、少年たちの夢はロックに変わった。新しい世代はエルヴィス・プレスリーに、ビートルズに、そしてローリング・ストーンズになることだけを夢みたのだ。地元でパンドを作り、学校のタソス・パーティや故郷の町のクラブで演奏してその夢を追い求める者もいた。だが、せいぜいそこまでだった。そこまでなら子供の夢にすぎない。20歳、悪くても22歳までにロック・スターになれなければ、あきらめてまっとうな仕事を探す。いつまでも子供のままでいることは許されない。
が、ボブ.シーガーはやめようとは思わなかった。状況を冷静に判断すれば、どう見ても彼には成功する見込みはなかった。早く同世代の人間の仲間入りをしろと周囲の状況は語りかけていた。すでに同世代の人間はピーターパン信仰を捨て、現実的な仕事に精を出している。今ではもう、人気が沸騰しつつある新しいグループの名前さえ知らないことがままあるのを認めざるをえない世代なのだ。20歳のとき、シーガーはロック公演のドサ回りに出ていた。25歳のときもそうだった。30歳になってもそれは続いた。車で旅を続け、年間265回も夜のコンサートをこなす年もあった。それだけやっても、ミシガン、イリノイ、オハイオ州以外の地域ではだれひとり彼のことになど関心を払わなかった。それでも良い年は、6600ドルぐらい懐に入ることもあった。
バーやナイトクラブで演奏した。有名なグループの前座を務めることもあった。気がついてみると自分より若い連中の前座を務めていた。声も、ウィスキーと煙草で年を追うごとにかすれていった。バンドのメンバーも変わった。所属のレコード会社にも彼の将来に関する展望はなにひとつなかった。相変らず巡業が続いた。高校時代の同級生はそれぞれ現実的な世界に身を置いて、それ相応の地位を築いている。そしてその前途は洋々たるものだった。ミシガン州アン・アーバー出身のボブ・シーガーだけが、ロックを歌いつづける、大の大人になっていた。
おそらく、十代のころの彼を知るかつての少年たちは、ロックのファンがすでに自分より20歳も若くなっていることに気づいたときのシーガーの気持に思いをはせるにちがいない。いつになったらこの先もう状況は変わらない、と諦めるのだろうかとも考えるだろう。そして、40歳に手が届きそうになってから、いよいよ最悪の事態を認めざるをえなくなり、仕事を求めて履歴書を書くはめになったときのボブ・シーガーの胸の内を思いやる。ところが、1980年、状況が変わったのだ。ついに−−−ほとんど魔法のように−−−シーガーの人気に火がついたのである。レコード購買層はニューヨークの孤独にもロサンゼルスの軽さにくみも倦きたらしい。ボブ・シーガーはそのどちらにも与したことがない。彼は、車の後部座席で過ごした夏の夜や小さな町で味わう孤独、そしておそらくは彼の顔も肌ざわりもとっくの昔に忘れてしまったはずの少女たちがかつて自分に語った言葉を歌う、典型的な中西部のシンガーとしてとどまっていたのだ。
この夏の初めまでに、彼のアルバム『アゲインスト・ザ・ウインド』は、6週間にわたって『ビルボード』誌チャートの第1位の座を独占した。アルバム売上250万枚、総売上にして2000万ドルを超えた。全米ツアのコンサートのチケットも全部売り切れた。彼がミシガンの少年時代の賛歌を口ずさむと、15歳のティーンエイジャーたちが頭上に両手をかざして拍手を送った。夢は実現した。だが、それは遅れでやってきた。遅れてやってきたその夢は、彼が期待していたほど心地よいものだっただろうか。待ったかいはあったのだろうか。シーガーは、世間の冷たさにひと一倍敏感な傷つきやすい男だ。にもかかわらず、15年間、だれひとり自分を顧みてくれなくても、妥協することを拒否してきた。そして今、ついに世の中が彼の声に耳を傾けている。今になって自分に群がってくるファンを見て、彼の脳裏をどんな思いがよぎっているのだろうか。
「伝えるものはあるといつでも思っていた」とシーガーはいう。「ウンザリさせられたことは何度もあった。こっちがどこかそこいらのクラブで演ってるっていうのに、ほかのパンドはどんどんビッグになっていく…・でも、いつも自分に言いきかせてた。週に5日クラブで演れるだけでもたいしたもんじゃないか、と。少なくともそれぐらいはやっていけるという自信はあった。歌はかなりいけるんだ。バーでの演奏ならいつまでだってできる」シーガーと私はふたりだけでコーボの楽屋でビールを飲んでいた。6日間連続のコンサートの3日目の夜が1時間前に終わった。シーガーはいま楽屋で裸足になっている。褐色の髪が肩にかかる。髪には白いものがまじりはじめていた。がっしりした体格の男だ。半袖のシャツから太い腕がむきだしになっている。GMの組立ラインの作業員だといっても十分通じるにちがいない。話すときも、アメリカ中のラジオから聞こえてくるその歌声と同じように、いつもざらざらした声で話す。
中西部で過ごした少年時代を歌った大ヒット『メイン・ストリーム』や『ナイト・ムーヴス』に出てくる不器用な少年のように、彼もまたはにかみ屋のようだ。自分でもそのことは認める。見たこともないような美人に出会うと、今でも言葉につまってまともなことはなにもいえなくなる、という。人のたくさんいる場所で注目の的になると、どうにも居心地が悪くて「逃げだしたくなる」ともいう。だが、その彼も、ミシガンからはけっして逃げたさなかった。ロサンゼルスやニューヨークは自分を呑みこんでしまいそうで怖かった。「人の目をごまかしたり自分を売り込んだりするのは昔からうまくない。俺にできるのは曲を作って歌うことだけだ。でも、歌いつづけてさえいれば、遅かれ早かれ、俺がここにいるってことに気がついてくれると思っていた」彼の夢も、普通の人間の夢と同じように始まった。ラジオから流れてくる歌を聴きながら鏡の前でスター気取りをしてみたのだ。「だが、それができたのは、母親が家にいないときだけだった。だれかほかの人間が家にいると恥ずかしくてダメなんだ」それではなおさらのこと、なぜその夢は彼をつかんで放さなかったのだろうか。同じ夢を抱いたほかの者はとっくの昔にあきらめてしまったのに、なぜ彼だけが最後までそれにしがみついたのだ。
「生まれつき、頑固なんだ。それに、ものすごく孤独を感じていたからな」とシーガーは胸のうちを語った。「たぶん俺はほかの人間より多くの愛情を必要としているんだと思う。人並み以上の野心があるってことじゃない。好かれたい、知られたい、っていう欲求なんだ。俺ももう35歳になる。長いツアのあとは、体中が痛む。体重だってベストよりは5キロも多い。それでも、ステージに立って目の前に観衆を見てその声を聞くと、痛みも苦労もみんな吹っとんじまうんだ。客は『われわれはあなたを受け入れる』っていってる。ファンの声援は俺にはそう聞こえるんだ」
「ずいぶん長いあいだ、まわりの人間は、いつか必ず成功すると俺を説得しつづけた。毎年毎年だれもかれもが『いつか必ず出番がくる。いつかは必ず』と言いつづけた。だが、そんなことをいわれてもよけい虚しくなるだけだった。状況はちっとも変わらなかったからだ。俺に残された最後の手段は、やつらの言い草に耳を貸すのをやめることだった。もうだれも信じられないというところまできていた。出番なんてこないことはわかってた。俺はその思いを飼い慣らして生きてきたんだ。で、今……こうなったってわけさ」
なんの満足感ももたらさない仕事をする人間の運命を、彼は怖れていた。が、理解はできる、という。「きっとある日、観念するんだ。『これが限界だ。もういいかげんに、長く緩やかな人生のうつろいに身を任せたほうが賢明だ』と」。徐々にゆっくりとうつろっていくという亡霊はいつも彼の頭から離れなかった。ようやく行けるところまで行きついたのに、なにかを生みだすことも伝えることもできなくなっている、そんな自分の姿が目の前にチラついた。「俺は自分に問いかけている。おまえは35歳になった。金も稼いだ。それでもまだロックを続けられるのか、と。凍てつくように寒く暗い夜なんかに、自分にとってかつてはごく自然だったことで生計を立て、いつになっても子供のゲームをやめようとしない大人の姿がよく脳裏をよぎる。いったい、いつどんな形で納得してやめられるのか?」
「会場では若者たちの姿が目に入る。一見、コンサートを楽しんでいるように見えるが、あれはただばかでかいギターが鳴り響くのを聞いて本能的に興奮しているだけなんだ。そんなことぐらいすぐにわかる。ソングライターとして俺は言葉を慎重に選んでいるが、ガキどもはドラムのビートのことしか頭にない。俺がやろうとしていることは、コンサートにきてくれた連中に『自分はひとりじゃない。ここにも同じことを考えている人間がいる』と感じてもらうことだ。だがときどき、ほとんどの連中にはたぶん人の気持なんてわからないだろうし、そんなことは初めからどうでもいいんだろうなっていう気になるんだ」
「いつまでやれるかって?アル・カリーンのようにありたいね。彼はまだ3、4年は野球を続けられることを自分でもよく知ってたのに、自分からやめるといって引退した」
「15歳のガキが45歳になった俺のことを見たいと思うとは考えられない。自分にはあと2年やってみて様子を見書といっている。もっとも32歳のときから同じことを言いつづけてるがね。だがいずれ、もうこれ以上はやらないと決心するときにも、これだけは自分にいえると思う。俺は自分のやってきたことが好きだった。かなりのレヴェルに達したとも思う。そのことで恥ずかしい思いをしたことは一度もなかった、と」
話をしているうちに、夜は更けていった。話はいつか身近な話題に移っていた。彼は、これまでつぎからつぎに曲を書いてきたおかげで、かなり親近感を抱いている人間にさえ手紙が書けなくなったといった。「いつもそのことで負い目を感じていないでもすむと助かるんだがね」そういって彼は笑った。テレビに出たいと思ったことは一度もないという。こちらがどんなメッセージをもっていようともカメラがそれを殺してしまう、と思っているからだ。「トーク番組に出ることになっても、なにを話したらいいのかわからない」と彼はいった。「自分の人生を8分間で説明しろなんていわれてもどうしたらいいかわからない。昔、レノンとマッカートニーが『トゥナイト』に出るってきいたときのことは今でも覚えている。あのときはホントに興奮して、それを見るために寝ないで待ってたんだ……その晩はジョニー・カーソンは初めからいなかった。彼は休みで、ジョー・ガラジョーラが臨時の司会者だった。番組が始まると、ジョン・レノンとポール・マッカートニーがガラジョーラ相手に無理してジョークを飛ばそうとしてるんだ。見てて悲しくなったよ。俺にはあんな真似はできそうにない。俺が自分らしいと思っているすべてのことが馬鹿らしく思えてくるような気がするんだ」
ぽつぽつ家路につくシルバー・バレット・バンドのメンバーが、部屋に入ってきて挨拶していった。シーガーは手を振ってそれに応えた。夜はかなり更けてきていた。もうアリーナには管理人しか残っていない。だが、シーガーはまだ動こうとしなかった。疲れてはいたが、耳元ではコーポの12000人のファンの歓声がまだこだましていた。楽屋に残って話を続けていれば、その夜を永遠に続かせることができるような気さえしていたのかもしれない。「ミシガンの北のほうに丸太小屋を持ってるんだ」と彼がいった。「ときどき、髪を後ろで結んでパーまで歩いていく。そこで、年寄り連中といっしょにテレビの前に座って、声を張りあげてデトロイト・タイガーズを応援する。みんな俺がだれかなんて知らない。ありがたいよ。前はいつだってそうだったんだ。俺はごく普通のそこいらにいる男にすぎないんだからな」
ようやく、シーガーと私は帰ろうとして立ち上がった。出口に向かうとき、シーガーの手には新しいビールが、私のほうにはもうひとつきいておきたいことがあった。15年かけてようやくビッグになった今、彼の夢はまだ醒めていないのだろうか。これほど.長いあいだ執拗に成功を追い求めてきたあとで、彼にとってその婆は想像どおりの心地よいものだったのだろうか。
「そりゃそうさ」とシーガーはいった。「そのとおりだ。最高だよ」
シーガーと私は人気のない廊下をアリーナの出口にむかって歩いた。ふと、彼が立ち止まった。
「いや」と彼はいった。「さっきの答は本心じゃない。じっさいは考えていたほどいいもんじゃなかった。こんなもんだとは思っていなかった。そんな気がするよ」
彼は車のほうへ歩いていった。彼の足音が人のいない駐車場にこだました。ミシガンの少年は、今、ドサ回りを終えて、故郷に帰ってきた。
(『アメリカン・ビート2』ボブ・グリーン:著 井上一馬:訳/河出書房新社:刊)
このコラムのすぐ後に『エルヴィス・プレスリーが死んだ日』が来て、続いて『エルヴィス・プレスリーが笑っている』がある。ここでは『エルヴィス・プレスリーが笑っている』を引用する。
さて、ボブ・シーガーに触れた『ロックがすべて』の文中にある以下の部分
「俺がやろうとしていることは、コンサートにきてくれた連中に『自分はひとりじゃない。ここにも同じことを考えている人間がいる』と感じてもらうことだ。だがときどき、ほとんどの連中にはたぶん人の気持なんてわからないだろうし、そんなことは初めからどうでもいいんだろうなっていう気になるんだ」
エルヴィスもそんな気持ちでなかったのだろうか?そしてまた
「人の目をごまかしたり自分を売り込んだりするのは昔からうまくない。俺にできるのは曲を作って歌うことだけだ。でも、歌いつづけてさえいれば、遅かれ早かれ、俺がここにいるってことに気がついてくれると思っていた」
これも同じ思いでなかったか?違う点はエルヴィスは幸運にもサム・フィリップスに出会い、またたく間にスターダムを駆け昇り「キング」になったことくらいだ。
もしサムに出会うことがなければ、諦めて電気技師になるために勉強をしたかもしれない。あるいはクラブでバラードを歌いながらドサ回りしたのかも知れない。
ボブ・シーガーの言葉。
「たぶん俺はほかの人間より多くの愛情を必要としているんだと思う。人並み以上の野心があるってことじゃない。好かれたい、知られたい、っていう欲求なんだ。俺ももう35歳になる。長いツアのあとは、体中が痛む。体重だってベストよりは5キロも多い。それでも、ステージに立って目の前に観衆を見てその声を聞くと、痛みも苦労もみんな吹っとんじまうんだ。客は『われわれはあなたを受け入れる』っていってる。ファンの声援は俺にはそう聞こえるんだ」
エルヴィスも同じ思いでなかったか?
ロッキー山脈の風が吹くアメリカの西部。コロラド州デンバーの町はずれ。スーパーマーケットでは銃が販売されている。斜めに傾いたトラックが夜道をガタゴト走って行く。真っ暗闇にコンビニが一件。それから車で闇を数分、暗闇に灯り、人が集まったバーがある。オーナーの娘であるマライア・キャリーそっくりの女が店をとりしきる。バーの小さなステージには続々と男たちが上がって歌う。
70年代エルヴィスが自然な感性でに歌っていた”カントリー”のココロに通じる”分かってほしい気持ち”を様々な楽曲に折り込みながら、国は変わっても”艶歌”なのだ。
それをひしめきあう男たちが耳を傾けヤンヤの喝采を送る。
”マライア”は次々に心のバンバーやドアの把手が壊れた男たち、たまに女を紹介し、司会する。
誰にも笑顔が溢れているが、ココロの隅には水溜まりがあるのが、誰の目にも明白だ。
誰でもいい、俺がここにいるってことに気がついてくれる者がいるかも知れない。赤い土、険しい岩肌、高速で走るクルマ、荒っぽさにも失わないブルームーンのような柔らかな気持ち。
「ここにある笑顔を忘れないでほしい」と老いた黒人が語りかける。人種を超えて歌い飲む。
そしてこの曲もそんな場所で好まれそうなポリシーがある。
<シー・ウェアズ・マイ・リング/SHE WEARS MY RING>
決意に応える決意する声。人間のもろさを知った声だ。決意に応えてそれで十分じゃないか、この上、生きるのに何がいるんだい。という声だ。
人生が苛酷であるこらこそ優しくなければ値打がないんだよと語る声で綴られたメッセージ。歌詞にはそんなこと書いていないが、そう言ってるのだ。(ボクにはそう聞こえる)
この楽曲を聴けばエルヴィスがどのようなタイプの人間だったのか、ストレートに響いてこないか?
あの娘が僕の指輪をしているのは
自分が僕のものだと皆に知らせるため
あの娘が僕の指輪をしているのは
自分が永遠に僕のものだと皆に知らせるため
この思いを世界中に見せるため
溢れる愛で彼女の指にはめた指輪
*この小さな指輪は愛する心の証
海ほどの深い愛の泉の中で彼女は誓った
永遠の愛をもって指輪を身につけると
僕は歌う、彼女が僕のあげた指輪をしているから
永遠の愛をもって指輪を身につけると誓った彼女
僕は歌う、彼女が僕のあげた指輪をしているから
*(くり返し)
僕は歌う、彼女が僕のあげた指輪をしているから
対訳 川越由佳
ジェームス・バートンのギターも素晴らしいバランスでエルヴィスの心の宇宙をひきたてる。流れ星のように降り注ぐエルヴィスの魂をすくいあげるように奏でる。
極上のバラード。定評のあるエルヴィスのバラードのなかでもトップクラスの表現力だ。それにしてもこの曲はバラードだけど、その姿勢においてこれはエルヴィスの言葉がたっぷりつまったロックンロールだ。
She wears my ring to
show the world
That she belongs to me
She wears my ring to show the world
She's mine eternally
With loving care I placed it on her finger
To show my love for all the world to see
*This tiny ring is a token of tender emotion
And in this pool of love is as deep as the ocean
She wears to wear it with eternal devotion
That's why I sing because she wears my ring
She wears to wear it with eternal devotion
That's why I sing because she wears my ring
* (repeart)
That's why I sing because she wears my ring
歌った分だけ、エルヴィスには人生があったのかも知れない。たくさん生きたから、早く召されたのかも知れないとも思う。
エルヴィスは、いま、風に向かう必要もなく優しい風に包まれているのかな。
けれども、エルヴィスは、本当のところ、何を誰に言いたかったのだろう?誰に一番聞いてほしかったのだろう。それを考えるのも、考えてあげるのも素敵なことのなのかもしれない。
「だがときどき、ほとんどの連中にはたぶん人の気持なんてわからないだろうし、そんなことは初めからどうでもいいんだろうなっていう気になるんだ。」という思いをエルヴィスもしていたのかも知れないとしたら。
エルヴィス・プレスリーが笑ってる
木曜日、エルヴィス・プレスリーは一族の墓に葬られた。だが、彼の遺体が永遠に葬られた今になっても、芸能界のスターや政治家、実業界の指導者、新聞の論説委員といった人間が相変らずしかつめらしくエルヴィスの賞賛、賛美、喝采、神聖化を続けている。
きっとエルヴィスは今ごろ笑っているにちがいない。
初め自分がどんな迎えられかたをしたか、大衆文化史上空前のスターダムヘのしあがる出発点で、アメリカの保守本流からの憤り、否定的な論評、徹底的な憎悪の洪水がどれほど凄まじいものだったかをよく覚えているからだ。それから20年たったいまごろになって、昔となにひとつ変わっていない自分を、世間が手のひらを返したように受け入れて抱擁するのを見れば、その滑稽さに腹をかかえずにはいられないはずだ。
「われわれは今日良き友を失った」プレスリーが死んだ日、フランク・シナトラはそういった。そのシナトラは、20年前プレスリーについてコメントを求められて、こういっている。「ロックンロールなどインチキなまやかしにすぎない。歌手もバンドも曲を作る人間も白痴のチンピラだ。馬鹿のひとつ覚えの反復と悪ふざけて淫らな、要するに汚らわしい歌詞で……せいぜい地球上のもみあげをはやした非行少年の軍歌ていどのしろものだよ」
そう、エルヴィスはきっと笑っているだろう。初めエルヴィスを理解したのは若者だけだったのに、今では、アメリカ合衆国大統領ジミー・カーターまでが、「エルヴィス・プレスリーの死は、われわれの国からその貴重な財産を奪った。彼は、世界中の人びとにとって、アメリカの生命力、不屈の精神、そして陽気な国民性のシンボルだったのである」と言いだす始末なのだ。エルヴィスが聞いたら大笑いしたにちがいない。20年前なら、もしドワイト.・D・アイゼンハワーが若きエルヴィス・プレスリーに関してなんらかの感想をもっていたとしても、決して口外したりはしなかったはずだ。今週、音楽評論家が書いた新聞の社説やコラムはみな、プレスリーの死をローマ法王の死なみに扱った。メンフィスの『コマーシャル・アピール』紙はこう書いている。「彼は、1950年代の若者たちが内に秘めていた祖型のなかから出現した。彼はそのメッセージのなかで、大人になることに怯え、愛されることに戸惑い、自然のおもむくままに行動することを怖れていた思春期の少年少女に自信と尊厳を与えたのだ」
20年前、新聞の社説は、プレスリーのショウとレコード販売の禁止を声高に訴え、エルヴィスは若者を堕落させ駄目にすると親たちに警鐘をならしつづけた。芸能記者にいたっては、論説委員以上といってもいいほど彼を酷評した。その彼らが、プレスリーが死んでからというもの、賛辞のかぎりを尽くしてプレスリー賛美に遅れをとるまいと懸命になっているのだ。
20年前、『ニューヨーク・タイムズ』紙のジャック・グールドはこう書いている。
ミスター・プレスリーにはこれといった歌の才能はない。彼の特色は、月並な哀れを誘う声で歌うリズム・ソングだ。彼のフレージングは、ま、フレージングと呼べればの話だが、素人がバスルームで歌う旋律にふさわしいていどの陳腐なヴァリエーションから成っている。
ロサンゼルスのある新聞の芸能欄編集者、ディック・ウィリアムズ、同じく20年前。
エルヴィスのショウが根本的に音楽ではなくセックス・ショウであることの確証が必要であれば、昨晩のショウこそまさしくそれである。昨夜のショウは、ナチスがヒットラーのために催した、金切り声で騒ぎたてる無節操な狂乱パーティに酷似していた。
コラムニスト。ヘッダ・ホッパー、20年前。
私は。血と戦慄のギャングドラマをテレビから締め出すために努力した10代の若者の親たちを賞賛する。しかし今は、新しい問題歌手エルヴィス・プレスリーを締め出すためにいっそうの働きかけをすべきときである。
イギリスの音楽評論家トム・リチャードソン、20年前。
エルヴィス・プレスリーにはまだ一度も会ったことはないが、すでに彼には嫌悪感をもっている。この男が危険人物であることは一目瞭然である。
ライターも無情だったが、同業のエンターティナーたちはそれに輪をかけて手厳しかった。その批判の大半はシナトラのコメントを異口同音に繰り返したものだった。彼らはブレスリーが業界の一画を占めていることじたいに憤慨し、数か月もすれば消えてなくなる一時的な現象だと高をくくっていた。そして彼のことをきかれるたびに、きわめて冷笑的な見下した言葉でプレスリーを罵倒した。
その同じ多くのエンターテイナーたちが、プレスリーの葬儀の日には、どれほどエルヴィスに親近感をもっていたか、どんなにいい友人であったか、まるで兄弟を失くしたような気持だ。と口々にもっともらしい哀悼の言葉を残しているのだ。
木曜日には、アメリカ中が同じような態度を取った。それは、プレスリーがいっさいの妥協を拒否して永遠に変えてしまった世界である。死後にこれだけの賛辞が贈られているというのに、彼が生きてその掛値なしの賞賛や賛美を聞けなかったことが残念でならない。エルヴィスにはきっと彼らしい感想があったにちがいないからだ。
が、それを伝えるのに彼には言葉などひとこともいらなかったろう。
エルヴィスはきっと大笑いしたにちがいない。
そしてさらに冷笑を重ねたことだろう。
(『アメリカン・ビート』ボブ・グリーン:著 井上一馬:訳/河出書房新社:刊)