先週のお約束通り、今週もボブ・グリーンのコラムをピックアップ。
エルヴィス・プレスリーが死んだ日
20年間、彼は偶像(アイドル)と呼ばれつづけた。だがそれはあくまでもショウ・ビジネスの世界の誇張にすぎなかった。しかし今週の水曜日、彼は、忘れようにも忘れられない、信じがたいような驚くべき形で、正真正銘の偶像になったのである。グレイスランド・マンションのロビーに安置された棺のなかで防腐剤処理を施されたエルヴィス・プレスリーの遺体は、彼に祈りを捧げるために殺到した何千何万という興奮した男女、そして子供たちにとって、まさしく凍った偶像になったのだ。
初めはそんなことが可能だとは思えなかった。息子の遺体をファンにも見られるようにしようと言いだしたのは、プレスリーの父親ヴァーノンだった。
これまで内輪の人間以外はだれひとりグレイスラントの敷地内に足を踏み入れたことはなかった。それだけに、遺体をロビーに安置してだれかれかまわずファンの参列を歓迎すると考えただけで、手に負えないほど興奮した暴徒が先を争ってゲートに殺到する光景が目に浮かんだ。
そしてまさしくそのとおりになった。
緑色のエレキ・ギターと楽譜で飾られたグレイスラントの白い門は午後3時に開かれる予定だったが、前の晩から大勢のファンがつめかけ、開門の3時間前にはすでに大群衆に膨れ上がっていた。
その群衆が一列縦隊でようやくなかに入ったときに目にするものは、白のスーツにライト・ブルーのシャツ、白いネクタイに身をつつんだ、青白いふくれた顔をしたユルヴィス・プレスリーだった。黒い髪は後ろになでつけられ、目は閉じていた。棺はプレスリーの自宅の正面玄関を入ったところに安置され、頭のほうから胸の中ほどまで棺の扉が開かれている。ロビーの赤いカーペットは白い布でおおわれていた。
大声で泣きだす者もいた。多くの者はむせび泣いた。声にだして祈りを捧げる者もいる。参列者はつぎつぎに泣きぬれてよろめきながら棺を離れていく。なかには、正門まで数百メートルをよろめいたまま歩いていく者もいた。
その間、門の外では、内の参列者を出すために門が開けられるたびに、まだ入れない数千人の群衆が内に押し入ろうとしてその同じ門に殺到していた。叫び声と絶叫が響きわたり、多数の人間が救急隊によって運び去られた。熱狂的なプレスリーのコンサートに匹敵する興奮状態だ。
グレイスランドを取り囲む街並は、これまでここを訪れたことのない者にはとくに奇妙な感じがした。敷地は、メンフィス市の南側のホワイトヘヴンと呼ばれる地区を走るエルヴィス・プレスリー・ブールヴアードに面している。が、グレイスランドを除けばこの大通りは商店街だった。一ブロック離れた場所には〈タッフィ・マフラー・アンド・ブレーキ・ショップ〉、通りの向かい側には税理士事務所ミスター・タックスがある。数ブロック離れたベルヴュー・ドライヴ・イソオートプシー劇場では、『検屍』という映画を上映中だった。
グレイスランドはそんな環境のなかに超然として立っている。まわりをフラッグストーンと煉瓦の壁に囲まれ、正門には赤いレンガ造りの守衛所がある。この日の午後、メンフィスの気温は33度に達しようとしていた。が、道路で待っている何千人もの群衆はとっくの昔にそれくらいの熱気を感じていた。群衆は警官隊のピケラインの後ろでもみくしゃにされ、人と人とのあいだにはほとんど立錐の余地もなかった。正午を迎えるころには、数分ごとにパニックの悲鳴が聞こえ、倒れる場所がないために立ったまま意識を失った者を救急隊員が駆けつけて助けだした。
車は両方向からプレスリー邸の正門にはうように近づいてきて、車道にあふれた群衆をぬうようにゆっくりと通りすぎていく。女性がひとり人込みからよろよろ車道のほうに出てきた。どうやら気を失いかけているらしい。警官が近くにいた男にむかって叫んだ。「あの女性のご主人ですか?気を失うまえになんとかしたほうがいいですよ」そういっている間に、その女性は動いているジャーマンタウン・フラワーズ社のトラックの横腹に倒れ込み、路上に崩れ落ちた。
その女性も、長時間、酷暑のなかで狭い場所にひしめきあうことに耐えきれなくなった他の病人と同じようにグレイスラントの門の西側に運び込まれ、芝生の上で応急手当を受けた。倒れているのは大半が女性と子供たちだった。なかには痙攣を起こしている者もいる。
だがその痙攣さえも、内に入った群衆がプレスリーの遺体を一瞥したときに見せた反応に比べれば、軽いものだった。ミシシッピ州テユーぺロ出身の元トラック運転手。貧しさのあまり血を売らなければならなかった時代を乗り越え、ほどなくしてポップ・カルチャー史上まれに見る影響力をもったスターになった男の遺体。
ガードマンが8000人の群衆の一部を敷地内に入れはじめたのは、時計の針が午後3時を指す直前のことだった。
参列者たちは弓形に曲がった長い私道を静かに進んだ。ほとんどが普段着姿で、なかには酔っ払っている者さえいた。本邸に近づくと、列は歩調を緩めた。水を打ったようだ静寂が訪れた。メンフィス市警察、郡警察、プレスリー特別警護隊、三つの警察組織から派遣された警官が数メートルおきに立って、列を乱す者がひとりもいないよう厳重に警備した。警察のヘリコプターが三機、建物の上空を旋回している。遺体の前にカメラが持ち込まれることがないように、ハンドバッグや手荷物はすべて調べられた。
護衛隊員がひとり、列の横をヘビー・ブルーのゴルフ・カートで巡回した。カートの横には「リザ」とプレスリーの娘の名前が記されていた。後部に貼られた「エルヴィス・プレスリーに首ったけ」のステッカーは半分はがれている。邸宅は砂色の石でできていた。正面には白い列柱があって、建物は木々が立ち並ぶ敷地の中央に位置している。右手にはプールがある。
玄関を七歩入ったところに、エルヴィス・プレスリーの遺体が安置されていた。参列者にはほんの数秒しか対面する時間が与えられなかったが、数秒でも効き目は十分だった。男も女も子供たちも、まるでボディ・ブロウを打ち込まれたようにうなだれて棺を離れ、しゃくりあげて大声で泣いた、だれもが悲しみに体を震わせた。死してなお、生きていたときと同じように、プレスリーには人間の本能を呼びさます力があったのだ。
同じころ、正門では事態がさらに悪化していた。まだ敷地内に入れない群衆が、門がほんの数十センチ開けられるたびにそこへ殺到していた。繰り返し、郡の副保安官がハンドマイクで声明を読み上げた。
「みなさんに申し上げます。警察官の指示に従っていただけないならば、警察としては途中でも参列を中止せざるをえません。正門に殺到するのをやめていただかないかぎり、この門を締めて中止しなければなりません。門を締めてしまう以外に方法がありません」
だが、じっさいにはそれからも群衆は少しずつ内に入ることを許された。期待にめまいを覚える新しい参列者が、悲しみに打ちひしがれて出ていく参列者の横をとおって進んでいく。当初の予定では会葬は午後五時に終わる予定だったが、それでは集まった人びとのうちのほんの一部しか会葬できないことがわかった。時間は五時半まで延長された。
この光景は忘れられない記憶として残るにちがいない。42歳で死んだロックンローラーの遺体を安置した家。酷暑に倒れ気を失った犠牲者たちが横たわる芝生。ぞくぞくとぎれることなく続く参列者でまるで生きもののように見える私道。刻一刻と暴動の気配が高まっていく正門。1977年、8月17日、水曜日。テネシー州メンフィス、エルヴィス・プレスリー・ブールヴアード、3674番地。
(『アメリカン・ビート2』ボブ・グリーン:著 井上一馬:訳/河出書房新社:刊)
ある有名新聞の記事。
記者によると、エルヴィスの墓前には「いまだにドーナツがたくさん供えられる」らしい。
この記者はエルヴィスやローリング・ストーンズのベスト盤が販売されるのはレコード会社の怠慢だと言う。
この人の言わんとする意味は分かる、
しかしこの大新聞の記者の方は一体何を言ってるんだろうとも思う。
ボクが見たのは、テディ・ベアと花の山だった。ドーナツなんかひとつも見なかった。
このような人がいるから、ベスト盤によって、功績を見直してほしいと願うのもレコード会社の意図ではないのか?
たとえ怠慢でしかなかったとしても、「いまだにドーナツがたくさん供えられる」という嘘八百を書いてすます怠慢に比べたらまだ許せる話だ。
その怠慢はレコード会社がすべて引き受けることになるからだ。
この人は何を引き受けるのだろうか?
ある本。
最近出版されたらしいロックンロールと現代史を絡ませてビートルズを称賛する歴史本は気合いの入った書籍だ。
その努力に敬意を表し本のタイトルは伏せるが、この本によるとエルヴィス・プレスリーは”太りすぎて心臓を圧迫して死んだ”らしい。つまり太ったことで死んだ。
さらに69年12月にニクソン大統領に会ったエルヴィスは「ビートルズは危険だ」と直訴したらしい。
この話はよく出る話だ。
しかし本当にそうなら70年2月のライブ盤『ON STAGE FEBRUARY,1970』に<イエスタディ>は収録していないだろう。
この<イエスタディ>のパフォーマンスは69年夏のもの。
全体のパフォーマンスは70年2月。リリースは70年6月。
このデータが示すのは気まぐれで歌ったものでも、収録したものでもなく、明確にこの曲とパフォーマンスをエルヴィスが好んでいたことを語っている。
もしあなたがビートルズ憎きだったらどうだろう?このゴシップがいつ世に出たのか知らないが、<イエスタディ>を歌っていること、さらにこのような形で世に出したことが、ビートルズに対するリアルタイムなエルヴィスの真実でないだろうか?
兵役についたエルヴィスは裏切り者らしい。
なるほど言わんとすることは分かる。
しかしロックンロールは反体制であることが条件というのはどういう理屈なのか?
ロックンロールが反体制になったもととなる原因は世間の「エルヴィス攻撃」にある。
しかしエルヴィスは意識して国家や大衆に反抗したわけでない。
エルヴィスには白人も黒人もない。
自分の生活にしみ込んだサウンドを表現しただけだ。
「白人も黒人もない、人間は同じ、音楽にも区別もない」自然体だったからこそ画期的な価値があった。
大人や黒人差別者が自分達の既存の価値観を変えることを拒み、受け入れなかっただけのことだ。
以降、ロックは反体制の音楽になっていったが、音楽は政治の武器ではない。
反体制であることがロックの特徴になったのは「エルヴィス大成功の要因分析」の結果、その方が売れるとの判断のよることだろう。
考えてもみるがいい。インディーズではない、大資本のレコード会社がなぜ反体制の音楽を売るのか。そんなことがどういう理由によって信じられますか?
エルヴィスが兵役についてなぜ悪い?
拒否すべき理由は一体なんだったのか?
まだヴェトナム戦争もはじまっていない。
いかなる理由で監獄に入る必要があったのだろうか?
一体どういう理由によってわが子の成長を楽しみにして、貧しい暮らしを耐えて来た母親を非国民の親にして奈落の底に突き落とすのか?
それにどうだ。
2003年のアメリカでは”反戦”にブーイングだ。
つまり勝った戦争には賛成、負けてる戦争には反対。
人間心理としては自然なものだ。
ましてエルヴィスが生きて来た環境や背景を考えたら、モハメッド・アリが兵役を拒否するのと同じようにエルヴィスが兵役に着くのは自然なことなのだ。
確かに晩年のエルヴィスは太っていた。誰よりエルヴィス自身が辛かったはずだ。
アメリカには肥満の人がたくさんいる。
それはそんなに不様な姿なのか?
あなたのいうビートルズが唱えた「愛こそすべて」の愛とはどんな愛なのだろうか?
ボクにはそれが分からない。
反戦のスローガンを唱えていれば愛なのか?
人種、国境、個人を超えて・・・つまり違いを認めることが愛の本質ではないのか?
違いを認めない、そんな『愛こそすべて』ならファック・ユー!!”
キング・オブ・ロックンロールを恥ずかしめて、ビートルズを持ち上げる。
はたしてエルヴィスとビートルズの関係はそんなものだったのか?
ロックンロールとはどんな音楽なのだろうか?
<イエスタディ>と共に<ウォーク・ア・マイル・イン・マイ・シューズ>が同じアルバムに収録されている偶然は、エルヴィスが何かを語っているような気さえする。
人付合いも自身を語ることも不得手なエルヴィス。
不得手だからこそ、心の奥深く積もった「想い」が人の胸打つ音楽の力になったのではないのだろうか?
生きるのが不器用でも、表現されない分、深くなった思い、辛い思いから生まれた優しさや愛への憧れが、不器用な人の心に届いたのではないのだろうか?
それは大いなる素晴らしい才能の個性的なあり方でなかったのか?
大好きだった母グラディスを手本にして早く死のうが、離婚しようが、エルヴィスは最も自分にとって生きやすい生き方をしながら、才能を十分発揮して、その才能によって多くの人に影響を与えて自分の意志で去っていくように操作しそれを実現した。
それはステレオタイプの価値観で測り知れない大いなる「成功」であったのではないのだろうか?
トム・パーカーはエルヴィスを金銭的に利用した。
しかしその意味なら、エルヴィスも自分の快適にトム・パーカーを利用した。
幼い頃から苦悩することに慣れた少年が、パワーと金持ちになったからといって、必ずしもそれが快適だということはない。
むしろ問題を抱えているからこそ充実感がある者も少なくない。
マリリン・モンローが愛されることを求めればこそ、自分を愛する男性を傷つけて遠ざけていったように、人には個人特有の世界がある。
思い通りにしょうとする努力をあえてせずに、思い通りにならないという慣れ親しんだ感情世界のなかでエルヴィスは自身の最良を恍惚の中に発揮したとも言える。
それはエルヴィスの巧妙なサクセスの手口。
深海魚は深海でないと暮らせない、泥の河だからこそ生きていける魚もいるのだ。真水で泳がせてあげたいと他人が思っても、それでは死んでしまう魚もいるのだ。
売春する若い女性が少なくない。それは一般の価値観では悲劇的なことだ。
しかし神経症で会社勤めもできない、人づきあいもできない者にとって、それを恥ながらも、生きるための手段だったとしたら、それでも非難して完結できることなのだろうか?
いいとは思わない。
しかし、自分の生を生き抜くことの重要さに比べたら、どうだろう。
無慈悲を超えて、生き抜け、生き抜け、生き抜いて、熱い季節を一瞬でも持てればいい。
父、ヴァーノンは眠るエルヴィスの二度と開かない瞳に人々の感謝と涙で輝く光りを届けようとした。
ひとり息子を亡くした父親としての精一杯で「息子の幸福の実現」に対処した。
それにしても・・悲しみの極みで得た父の感動を超えて、エルヴィスはエルヴィスもヴァーノンもグラディスも想像しなかっただろうと思えるほどの人々の支持と人気と功績にいまも輝いている。
エルヴィスに与えられたものに感謝しているのだ。エルヴィス自身が自分の生を自分の生きやすいように生きて成功させ、決して負け犬のように生きなかったからだ。
一部の人々がどんなに型通りの悲劇的ヒーローにしたくても、決して心あるファンはそうはそうはさせない。エルヴィスは欠点だらけでも、その欠点によって成功した類い稀なヒーローであり、そのメッセージこそ世界に溢れている欠点だらけの人たちへの勇気となるのではないだろうか?
そのことを伝えずにしてエルヴィスの魂の何を伝えるのか?
ロックンロールの素敵をどう伝えるのか?
次のコラムはエルヴィスに無関係だが、ここ登場する年輩の男性が”ケリー”を助け起こして、「なんでもない、大丈夫だ」と言葉をかける下りがある。
この姿こそ愛でないだろうか?「事の本質を知る」こと、つまり「理解する」ことから始まる。
その人の靴をはいてみないと分からないことがある。
その人の靴をはいて考えることが愛であり、平和のはじまりでないのだろうか?
終戦後、配給のチョコレートをかじっていたジョン・レノンが「ロックンロールだけが信じられる」と興奮したのもエルヴィスが対立の垣根を超える靴をはいて歌ったからだろう。
個人には、それを履く理由があれば、脱ぐ理由もあるのだ。
その理由を考えている者がこの世界に存在していることを伝えてあげることが愛でないのだろうか。「あなたのこと決して忘れていないよ、だから頑張るんだよ」「あなたのこと分かっているよ、だからくじけないで」反戦デモの心の本質は敵対することではなく、”あなた”の存在を認めていることを伝えること、認めていることを認めようとしない人に伝えることにある。ALL
IS ONE 。
人は生きていれば身体も壊れるし心も傷つく。超えていけ、超えていけ!ポンコツ万才なのだ。みんな負けずに頑張ろうね。ザッツ・オールライト!!
If I could be you, if
you oould be me
For just one hour
If we could find a way
To get inside each other's mind, uh-huh
If you could see you through my eyes Instead of your
ego
I'd believe you'd be, I'd believe you'd
be
Surprised to see
That you've been blind, uh-huh
Walk a mile in mv shoes, huh
Walk a mile in my shoes
Yeah, before you abuse criticize and accuse
Walk a mile in my shoes
Now if we spend the day
Throwin' stones at one another
Cause I don't think cause I don't think
To wear my hair same way you do, uh-huh
Oh, well I may be common people
But I'm your brother
And when vou strike out you're tryin' to hurt me
It's a hurtin' you, Lord have mercy
Walk a mile in my shoes, huh
Walk a mile in my shoes, yeah
Yeah, before you abuse criticize and accuse
Walk a mile in mv shoes
Now there are people on reservations
And out in the ghetto
And brother, thev're for the grace of God
Oh you and l, uh-huh
Oh, it I only had the wings of a little angel
Don't you know I'd fly
To the top of the mountain
And then l'll cry (cry) ory (ory), cry
* Walk a mile in my shoes, huh
Walk a mile in my shoes, yeah
Yeah before you abuse criticize and accuse
Walk a mile in my shoes
Re peat*
彼は浮浪者なんかじゃない
浮浪者がひとり死んだ。たしかに表向きはそう見える。遺体は、シカゴのドヤ街ウェスト・マディソン通りの、あるドヤで見つかった。白人の男、年齢はおよそ五十五歳。ひとりの浮浪者が死んだ。
なにもわかっちゃいないのだ。
その男は浮浪者でもなんでもない。彼の人生は……とにかく彼の人生に耳を傾けてほしい。男の名前は、アーサー・ジョゼフ・ケリーは大人になったら、消防隊員になるのが夢だった。子供のころは、アバーディーン通りとワシントン通りの角にある、第34消防隊の配置された消防署へよく遊びに行った。ふたりの妹といっしょに行くこともあった。消防隊員は子供たちにやさしかった。隣近所の付き合いがまだ正常に行なわれていたころの話だ。
アーサー・ジョゼフ・ケリーはその後10代になり、やがて大人になったが、消防夫になる資格はもっていなかった。試験に受からなかったのだ。で、軍隊に入った。一兵士として第二次世界大戦に従軍しヨーロッパ戦線で戦った。だが兵隊生活になじめず、やがて戦争神経症におちいった。これが彼を徹底的に痛めつけた。
陸軍病院をたらいまわしにされ、戦争が終わると、復員軍人病院に入れられた。治療を受けてもちっともよくならなかった。そのうちに病院から見放なされされ、シカゴの住みなれた町にもどってきた。頭上で突然高架電車の轟音が鳴り響くと、地面にうずくまった。それ見て笑う者がいた。自分だってそんなことはしたくない。だが、大きな音がすると、反射的にうずくまってしまうのだ。
復員軍人病院を出たのは1954年のことだった。実社会で生きていかなければならない、と頭では思うのだが、それができる状態にはなかった。しばらく努力はしてみたが、結局は、しあわせの場所として覚えているたったひとつの場所に彼はもどってきた。アパーディーン通りとワシントン通りの角にある消防署である。
第34消防隊員のなかには、子供のころのアーサー・ジョゼフ・ケリーを覚えている者がいた。もちろん隊員が覚えているのは、大人になったら消防夫になりたいといっていた明るい目をした子供である。その子供が今、戦争神経症に冒された復員軍人として目の前にいた。
消防隊員たちは彼を引き取ることにした。
食事、衣服、寝る場所を与え、仲間として迎えた。もちろん消防隊員ではない。それでも、彼は消防署に住み、消防隊員を友達にもったのだ。軍では彼の復員軍人手当の処置に困っていた。消防隊員が何人かでエクスチェインジ・ナショナル銀行へ出向いて、給付金が所定の口座に振り込まれるように手続きを取ってやった。そして第34消防隊の隊員たちはみなでそのお金の管理を引き受け、アーサー・ジョゼフ・ケリーの後見人兼保護者になった。
時は流れた。消防隊員たちも、ある者は移動を命ぜられ、ある者は退職し、ある者は死んだ。しかし、少なくともひとりは必ずアーサー・ジョゼフ・ケリーの面倒を見る者がいた。隊員たちはけっして見返りを要求したりはしなかったが、ケリーは進んで火をたき、清掃をし、できるかぎりの手伝いをした、長い年月のあいだに、彼の世話係として銀行や軍関係の手続きを引き受け、ケリーが無事に生きていけるように取りはからってきた者は34消防隊を離れると、他の隊員が進んで後を引き継ぎ、受け継がれていった。
一度、ケリーはシカゴ・カブズの試合を見に行ったことがある。そのとき一台の車がバックファイアを起こした。彼はそのまま地面にうずくまった。まわりで忍び笑いが聞こえた。だが、軍隊で戦争神経症に冒された兵士を何人も見てきた年輩の男性がケリーを助け起こして、「なんでもない、大丈夫だ」と言葉をかけた。それ以来、ケリーは消防署の近くから離れなくなった。
彼は、精神も神経も病んでいた。隊員たちがいわないと、入浴も服を着がえることも三度の食事をとることもできなかった。だが隊員たちは20年以上もだれひとり文句もいわずに面倒を見てきた。「のんきな奴だよ」と隊員のひとりはいった。「暴力をふるうわけでもないから、面倒を見るったってたいして骨は折れないさ」
その後、その消防署は閉鎖された。隊員たちはラフリン通りとマディソン通りの角にある別の消防署に移った。アーサー・ジョゼフ・ケリーも隊員たちといっしょにそこへ移ったが、なにもかも昔のままというわけにはいかなかった。そこは子供のころ彼が愛した消防署ではない。結局、そこにはなじめなかった。
彼の面倒を見ていた最後の隊員、51歳で8人の子供の父親、ジョージ・グラントがケリーの住む場所を見つけてきた。といってもたいしたことはできなかった。マディソン通りの一部屋を借りるのが精一杯だった。だがグラントは、毎月、銀行で金銭面の手続きをすませ、マディソン通りまで出向いてケリーの部屋の近くで居酒屋をやっている女将に金を渡した。その金で、居酒屋に行けばケリーに食事を出してもらえることに話がついていた。酒はださないでくれ、と頼んだ。消防隊員たちはケリーにドヤ街のアル中の末路をたどってほしくなかったのだ。
「消防署では、私が消防夫になる前からアーサーの面倒を見てきたんです」とグラントはいった。「かわるがわるみんなで彼の面倒を見てきて、たまたま私がその最後になったにすぎません。ちっとも苦ではありませんでした」
ケリーが自室で死んでいるのが発見されたとき、当局は彼を浮浪者だと思った。だが彼の葬式に出れば、そうではなかったことがわかったはずだ。
アーサー・ジョゼフ・ケリーは厳粛に葬られた。墓地まで運んだのは制服を着た隊員たちだった。棺をかついだのも隊員たちだ。ほとんどの隊員は、少年ケリーが消防署のまわりで遊んでいたころ、まだ生まれてもいなかった。だが、最期は見とどけた。隊員たちは断じてケリーに浮浪者のような生きかたはさせなかった。そして浮浪者のような死にかたもさせなかったのだ。
(『アメリカン・ビート2』ボブ・グリーン:著 井上一馬:訳/河出書房新社:刊)
<ウォーク・ア・マイル・イン・マイ・シューズ>
ボクが君、君がボクになれたらいいな
たとえほんの一時間でも
お互いの心の中に入り込む
いい方法はないかな
君がそのエゴを捨てて
ボクの目を通した自分を見れは
ぜったいに、ぜったいに
驚くはずさ
何も見えてなかったと
ボクの立場になってごらん
ボクの立場になってごらん
悪態をつき、文句を言って、責め立てる前に
ボクの立場になってごらん
一日中、お互いに
攻撃しあっても仕方ないさ
たかがボクが、たかがボクが
君と同じ考えでないからって
ボクは普通の人間だけど
人類はみんな兄弟じゃないか
ボクを責め傷つけることは
君白身を傷つけること
ボクの立場になってごらん
ボクの立場になってごらん
悪態をつき、文句を言って、責め立てる前に
ボクの立場になってごらん
生活保護を受けている
ゲットーの人々は
神のご慈悲を待ちわびる
君やボクだってそうさ
天使の羽根さえあれば
ボクは今すぐ飛んで行く
あの山のてっぺんに
そして泣くのさ(泣くよ)、泣くのさ(泣くよ)、泣くのさ
★ボクの立場になってごらん
ボクの立場になってごらん
悪態をつき、文句を言って、責め立てる前に
ボクの立場になってごらん
くり返し★