マネー・ハ二一
MONEY HONEY
1956年1月10日、21才になったばかりのエルヴィス・プレスリーがナッシュビル・Bスタジオで録音したR&Bの大ヒット曲<マネー・ハニー>はドリフターズのオリジナル。1953年にヒットチャートナンバー1になっているだけあって、エルヴィス・バージョンも脚の動きが目に浮かぶ快調な仕上がり、甘さとニヒルさが荒削りの中で見事に融合、ウッフンフンの声が永遠に忘れられないナンバーだ。
<ブルー・スエード・シューズ>で始まって<マネー・ハニー>で終わる全12曲。RCA第1作の記念すべきアルバム『エルヴィス・プレスリー登場!』に収録されていた。このアルバムには54年にサンで録音した<アイ・ラブ・ユー・ビコーズ>も収録されている。1954年〜1956年1月までのまさにエルヴィスが地方のインディーズ・レーベルからメジャー・デビューを果たしたその瞬間が収録されている。
シングルカットはなく、EP盤で<ハートブレイク.ホテル><ただひとりの男><忘れじの人>と併せて収録されトップ100にチャートインした。日本ではエルヴィス10周年記念も兼ねたのか「ゴールデン・スタンダード・シリーズ」として1965年12月と1966年1月の2回に分けて12枚のシングル、65年早々から66年にかけて「プレスリー・ゴールデン・コンパクト・シリーズ」として21枚のEP盤がリリースされた。<マネー・ハニー>は1966年1月15日に、B面にはやはりアルバム『エルヴィス・プレスリー登場!』から、同アルバム中、エルヴィスが一番好きだったという<ワンサイド・サイデッド・ラブ・アフェア>を収録してシングル(SS-1665)リリースされた。
つまりこのシングルは中も外もエルヴィスのいい味が存分に発揮されているお宝シングルである。
大家が玄関のベルを鳴らしたが
しばらく返事をしなかった
カーテンの隙間から覗いて聞いたのさ
一体俺に何の用かってね
そしたらこうさ、money honey,money honey,money honey
わしと上手くやっていきたいんならね
憂轡な気分で廊下を戻り
そして彼女に電話した
やっと連絡ついたのが3時半頃さ
何の用かって聞かれて
俺はこう言った、money honey,money honey,money honey
俺と上手くやっていきたいんならね
どうかしたのって彼女に聞いたら
俺たちの仲は終わりだって言う
はっきり答えてくれよ、ベイビー
なんで他の男が俺の代わりをしてるのか
そしたらこうさ、money honey,money honey,money honey
あたしと上手くやっていきたいんならね
これでよくわかったさ太陽は輝き、風は吹く
彼女も次々変わってく
でも''愛してる"なんて言う前に
俺の欲しいのは、money honey,money horey,money honey
俺と上手くやっていきたいんならね
2003年は『宮本武蔵』がNHK大河ロマンとして放送されるようだ。吉川英治原作『宮本武蔵』をかって1年1作、5年かけて制作した内田吐夢監督の映画は素晴らしいものであった。同監督の『大菩薩峠(3部作)』『飢餓海峡』『血槍富士』などどれをとっても人間の業と因果を描いて、何度も観たくなる作品ばかりだ。
脚本家として内田吐夢監督と共に仕事をしてきた鈴木尚之氏が10年の歳月をかけて綴った『私説内田吐夢伝』(岩波書店:刊)の中に、水上勉原作を映画化した『飢餓海峡』をめぐる事件が描かれていて興味深いので、少し長くなるがご紹介する。
エルヴィスデビュー10周年記念アルバム『ゴールデン・ストーリー』(全2巻)がリリースされた年の正月映画である。
11月封切が諸般の事情から翌年1月15日に変更されたあたりから、会社側が危倶しだしたのは、膨大に撮られた尺数を吐夢がどのように編集するかという点にあった。興行的な面から二本立、一日三回の興行を主眼とする会社側と、あくまでも一本立で作品の質で勝負すべきであるとねがう吐夢の思惑とは、たがいにあいいれないものであった。12月19日午後、撮影所内で『飢餓海峡』の初号試写がおこなわれた。上映時間3時間12分1秒という長さであったが、観る人を圧倒的な興奮に包みこんでいった、試写終了後、音楽担当の富田勲が吐夢のまえに立ち、「ありがとうございました。いい勉強をさせてもらいました」と感動を素直につたえている姿を、私はいまなお覚えている。
そのときである。所長秘書がむかえにきて、吐夢は奥へはいっていった。本来ならこうした場合、私たちがいまいるスタッフルームに所長みずから出むき、監督にねぎらいの言葉をかけるのが普通であるが、何か他人には聞かせられない特別な事情があるのだろうーーー15分もたち、所長室から出てきた吐夢は「今日は家へ帰って、ゆっくり身体をやすめるよ」と玄関先に用意されていた車に乗り、あわただしく立ち去っていった、吐夢といま観たばかりの作品について、熱い想いを語りあいたいとねがっていた私には、まことに呆気ない幕切れであった。
(略)
私はまだ「内田組」のネームプレートがはずされないまま掛かっているスタッフルームにはいっていったが、誰の姿も見えなかった。おもい直すように前廊下に出ると、血の気を失い臓瀧とした太田がとおりかかった。「おい、太田ッ!」と声をかけたが、それも耳にとどかずまるで私など眼中にないよろにすぎていった。あきらかに何か強い衝撃をうけ動転しているサマが窺えた。
間もなくして私が来ていることを知ったのであろう、所長とプロデューサーの青野がとびだしてきて、私をスタッフルームに招じいれた。「仕方ないんだ、あんたにとってはイヤなことだろうけど、これは会社の方針なんだから:…・」所長の弁解がましいこの言葉が、何を意味しているのかわからなかった。キョトンとしている私に吉野が言葉を補足し、それによっていま会社が何をしようとしているのか、ようやく事態が理解された。
『飢餓海峡』の尺数が長いということについてはすでに先にふれたが、会社側は今夜、初号の一部をカットし興行的に見合う尺数に短縮することを決意したというのである。私ははじめて聞かされたこの結論におどろき、ふたりにたずねた。「もちろん、監督の了承ずみなんでしょうね?」「いや、いくらこちらの事情を話しても、吐夢さん聞きいれてくれないんだ。どうしても切るなら、誰か他の人に頼んだらいいというから、いま太田くんに編集室へはいってもらったところなんだ」太田にフィルムを切らせるーーーーー?
私は愕然とするとともに、先ほどの太田の動転ぶりがようやくうなずけた。所長らとどういう話しあいがもたれたかはわからないが、太田が唯々諸々とカットに応じるわけはなかった。しかしながらその立場に追いこまれてしまった太田に痛みをおぼえるとともに、何か目に見えない暴力に猛然とした怒りを感じた。
ーーーーーー吐夢はこの事態を知らない。ひとりになった私は受話器をとっていた。電話口に出た芳子に、「会社がいまハサミをいれはじめたんです」とつたえた。「えっ、フィルムを切ったというの!あなた、どこにいるのよ?」悲鳴にちかい芳子の声にかぶさって、事件を察知した有作の怒声もとどいてきた。
「とにかく、これから伺いますからーーーーー」と、私は電話を置いた。急ぐ気持を逆撫でするように、なかなかタクシーはつかまらなかった。笹塚にたどりついたときは、すでに11時をまわっていた。四畳半の茶の間に寝間姿の吐夢をはじめ、芳子、一作、有作が緊張した面持ちで座していた。私はあらためて今夜撮影所で起こった、またいまなおつづけられているであろうカット作業について知るかぎりを説明すると、一同は信じられないことになってしまったというように唖然とし、一瞬、言葉も出ないようであった。
吐夢は激した感情にとらわれているにちがいなかったが、そんな自分を必死に押し殺すようにつぶやいた。「そうかねーーーーーとうとう切ったかね」そのときである。吐夢の両眼からボロッ、ポロポロッと大粒の涙がこぼれおちた、それは私がはじめてみる吐夢の姿であった。吐夢の悲しみとは、丹精こめて育てたわが子がいま惨殺されようとしている。ーーーーーーそんな想いであったにちがいない。有作が立ち上がった。これから撮影所へ行ってみるというのである。吐夢がそれをとどめた。「これからのことは、よく考えた上でのことにしよう」それぞれが沈みきった気持ちのまま、この夜はふけていった、翌々日21日の月曜日をむかえると、吐夢はうごいた。短縮版を封切るなら、タイトルから「監督内田吐夢」の文字をはずすよう、おのれのかたくなな姿勢を会社につたえた。新聞はいちはやくそれを嗅きつけ「カット事件」として報道した。もともと『飢餓海峡』の企画を発し、いまは京都撮影所の所長である岡田は事態のなりゆきを心配し、吐夢と電話で話しあった。「わしが段取りつけるから、社長と直接合ってみてはどうか?」
この助言は吐夢にとっても望むところであった。それ以外に解決の道が見つからないと感じたからである。翌22日、本社社長室でふたりの面談がもたれた。席上、何が話されたかについては吐夢はいっさい語らなかったが、ともかく結果として修復版をつくることが決定された。ちなみに吐夢と大川社長は同年齢であり、たがいに長い人生を懸命に切り拓いてきた者だけに、相手の立場を理解し歩みよることができたのであろう。現在、映画館あるいはテレビで放映される、3時間11分の『飢餓海峡』はふたりがこの会談において到達した最終結論だったのである。ともかくこの仕事にたずさわった関係者それぞれの心のなかに、この事件は苦い想いと痼をのこすこととなった。
あけて昭和40(1965)年1月15日から『飢餓海峡』はいっせいに封切られたが、その形態は直営館では修復版が、その他の契約館では短縮版が上映されるなどまちまちであった。上映されたとはいえ、吐夢の心はかならずしも晴れあがったものではなかった。
(鈴木尚之著『私説内田吐夢伝』岩波書店:刊)より抜粋
『飢餓海峡』はこの年、作品、監督、俳優たちはそれぞれ数々の映画賞を受賞した。演技に対する厳しさに耐えられず、この作品から降ろしてくれと懇願した主演のひとり伴淳三郎は多くの受賞をし「ありがとうございました。監督の次の作品にはどんな小さな役でもいいから出させてもらいたい」と心の底からの喜びと感謝の気持ちを大泣きで伝え、高倉健はいまも居間に内田吐夢監督の肖像を置いているという。
お分かりように、この問題は映画会社とそのお得意先である映画館主と作家との間の問題だ。映画館主にすれば1日どれだけお客の入れ替えができるかは重要な問題だ。メーカーである映画会社は満員にできる映画を用意する必要がある。それぞれの立場で言い分があり、一番強いのは映画館主であって、一番分が悪いのが作家であり、さらに俳優である。俳優の努力を活かしてやれるのも監督である。
作家にとって自分が創造したものをいじくられるというのは堪え難いものであろう。しかも無断と言うのはーーー。クリエイティブな仕事に携わっている方ならその悔しさは容易に理解できるであろう。しかも68才(エルヴィスは今年だ)の監督が渾身のエネルギーで作ったものであるなら一層。
短縮版を封切るなら、タイトルから「監督内田吐夢」の文字をはずしてほしいという思いとはいかがなものか。
You know the landlord
rong my front door bell
l let him ring for a long long spell
l went to the wlndow and peeped through the blind
And asked him to tell me what was on his mind
He said money honey, money honey, money, honey
If you wanna get along with me
Well, I streamed down the hall and I was so hard pressed
l called the woman that I Iove the best
l flnoliy got my baby 'bout a half post three
She sald l'd like to know what you want with me
I sald money honey, money honey, money honey
If you wanna get along with me
Well I said tell me baby what,s wrong with you
From this day on our romance is through
l said tell me baby face to face
How could another man take my place
She said money honey, money honey, money honey
If you wanna get along with me
Well, l've learned my lesson and now, I know
The sun may shlne and the winds may blow
Women may come ond women may go
But before i'll say I Iove 'em so
l want money honey, money honey, money honey
If you wanna get along with me
カットする、逆に増やすの違いはあれど、CDショップに並んでいるアップグレード盤とは、それと同じである。売るためには12曲では弱いとして本来のアルバムに関係のないものが収録されている。このため新しいファンは意識することなくオリジナルのアルバムの性質から遠のいているのだ。
<ハートブレイク・ホテル>はシングル盤であった。それがなぜ『エルヴィス・プレスリー登場!』に収録されているのだ。<本命はおまえだ>はシングル盤であった。それがなぜ『エルヴィス・イズ・バック』に収録されているのだ。それらは『ゴールデン・レコード』に収録されていたし、それゆえ『ゴールデン・レコード』も特別な意味を持っていた。世界を変えたアルバム『エルヴィス・プレスリー登場!』の価値はどこに行ったのだ。
トム・パーカー大佐は悪の権化のように語られるが、悪玉にしても悪女にしても水戸黄門の悪玉のように簡単ではない。money
honey,money honey一途の大家にしても、時にお裾分けと言ってはベルを鳴らす。
シングル・リリースしたものはアルバムに入れないのがトム・パーカー大佐が貫いた主義である。後になってサントラ盤こそ”シングルカット”して”シングル・リリース”したが、この方針は50〜60年代一貫していた。
したがって『ゴールデン・ヒム』に収録された<クライング・イン・ザ・チャペル>の場合には例外の扱いが施されているのはジャケットが語っている。
そこには「シングル盤」の重みがあった。そして間違いなくエルヴィス・プレスリーは「シングル盤」を核にしてきたミュージシャンだったし、だからこそ若いファンが自分で買うことができた。
世の中は便利になった。『スターウォーズ』をはじめDVDにはメイキングも収録されている。どちらから先に観るかはユーザ次第である。しかし本編より先にメイキングを観るというのは、映画を観ているとは言いがたい。
同じことがアウトテイクを集めたアルバムにもいえる。
正式に作品としてリリースされたものを聴かずにアウトテイクを聴くとうのはおかしくないか?
アップグレード盤、アウトテイク集、ブート盤、中古CD、ビデオにDVD。便利の使い方が問われていないだろうか。映画『監獄ロック』のカラー・バージョンなんて余計なお世話でしかない。
<ブルー・スエード・シューズ>はその出だしにこそ、エルヴィスの奇跡とも呼びたい素晴らしさがある。盤が回り、針が精霊を削るように走るその瞬間にエルヴィスの感情の大噴出がある。それが<ハートブレイク・ホテル>によって弱められていないか?それはリスナーの責任でもないし、リスナーも被害者である。money
honey,money honey,money honey、売ることと鑑賞の狭間でエルヴィスが雑に扱われるのはつらいし、なによりリスナーの損失なのだ。敢えて言うなら、アップグレイド盤は叩き割ろう。少しキツすぎるが、ジャケットとタイトルだけ引用したまがい物である。紙ジャケ盤を探そう。通常のCDでは出せなかった、あのジャケットの質感、色、エルヴィス・プレスリーがアメリカ人であること伝えてくれる。紙ジャケ盤が入手できなければ中古店を回って、アップグレード盤でないものを探そう。こんなに便利になったのだから、便利さを使おう。なぜ『歌の贈り物』の始まりが<サレンダー>なのだ!どうして『ポットラック』の途中に<あの娘が君なら>が出てくるのだ。まったく聴く気が失せる、それは感傷ではない。理由はひとつ、エルヴィス・プレスリーの遺したものではないからだ。
エルヴィスを見失わないために、エルヴィスが選んだ正式リリース盤を聴かない間はアウトテイクは押し入れに隠しておこう。
2003年1月4日から8日のクライマックスまでグレイスランド及びエルヴィスゆかりの場所ではバースディ・セレブレーションが開催されている。
1月7日には故カール・パーキンスの息子スタン・パーキンスがビール・ストリートのレストラン「エルヴィス・プレスリー・メンフィス」でライブを行う。
<ブルー・スエード・シューズ>に愛を、カール・パーキンスとロカビリーに愛を、世界を変えたアルバム『エルヴィス・プレスリー登場!』に愛を、底の抜けたジャケットに入った擦り切れたレコードに愛を、そしてエルヴィス・プレスリーに”ハッピー・バースディ、ビー・ハッピー!”を
エルヴィス・プレスリーを未来へ伝えるために、エルヴィス・プレスリーをできるだけ大切にしていきたい。
1月8日はエルヴィス・プレスリー・ディである。
money honey,money honey,money honeyが聴こえるかい?
''愛してる"といった後にも?