エルヴィス・プレスリーの音楽
エルヴィス・プレスリーのDVD
エルヴィス・プレスリーの本
エルヴィス・プレスリー主演の
『ガール!ガール!ガール!』は
エルヴィス・ファンが愛する作品のひとつだ。監督は<G.I.ブルース><ブルー・ハワイ>で組んだノーマン・タウログ。ハワイを舞台にエルヴィスが歌いまくる。
共演のステラ・スティーヴンスは素晴らしい女優だ。違うことが重要なハリウッドで「マリリン・モンローの再来」は決してありがたい言葉ではない。後にサム・ペキンパーの『砂漠の流れ者』で絶賛される。
一瞬であるけれど、エドワード・ホッパーの絵画のようなシーンはエルヴィス映画一番の美しさで印象的。見てのお楽しみだ。
エルヴィス・プレスリーのファンが嫌うエルヴィス・ファンの傾向。たとえばジャンプ・スーツのそっくりさんに熱中するファン。あるいは極端に美化されたエルヴィスへのヒステリックな熱狂。それらを否定しきれない感情を持ちながらも、それらは結果的に一般の音楽ファンに誤解を与え遠ざける要因になりかねない危惧から憂慮する。その生真面目こそがキングを引き継いだエルヴィス・ファンの特徴。
人間エルヴィスのすべてを受け入れてこそエルヴィスが見える。それがシングルあるあるいはアルバム一枚一枚大事に聞き込んで、ゴシップに我慢してつきあい、金儲けのネタに誰かが仕組んだ挑発に乗ってしまい、その都度傷つきながらも、それらを超えてきたファンのココロ。でないかとボクは思う。
ボクはかねてからエルヴィス・ファンとコンピュータのアップル・ファンはよく似てると思う。株主でもないのにアップル社が利益を出したと発表したら拍手喝采で大喜びする。その利益は自分たちが計上したのに!
アップル、すなわちヒッピーあがりのスティーブ・ジョブスが作った会社こそがパーソナル・コンピュータの産みの親。にもかかわらず『20世紀の100人』という企画には、マイクロソフトのビル・ゲイツは入るがスティーブ・ジョブスは除外される。ビル・ゲイツは「アップルは我が社の研究所みたいなもの」とごう慢に語れば、スティーブ・ジョブスは「あんな見苦しいOSはない」と切って捨てる。しかし大衆はビル・ゲイツはすごいと想像する。アップル・フリークにはそれが許せない。アメリカでも日本でもファンは熱狂的に支持をする。彼等はアップル社のしなやかで自由な「文化」を愛している。
アップル社はビートルズの社名から取った。ビートルズはその対価を請求し、スティーブ・ジョブスは支払った。エルヴィスとビートルズのポジションにも似ていながら、そのねじれ現象のようでさえある。
貧しい暮らしの中で、死産した双生児のひとり息子の自分に愛情を注いだ母親を守り尽くすことに自分を捧げて生きた青年。エルヴィス・アーロン・プレスリー。
母グラディスが亡くなった後、自分の生きる場所が分からないまま、比類なき才能と財産を垂れ流すように浪費。
それでもどんな歌でもベストを尽くし、技術と自分のスピリットをぶちこんだ。歌の中にこそ、本物のエルヴィスが存在するといって間違いないだろう。
歌だけは滅法巧かった。なによりハートがある。どうすれば人の琴線に触れるのかを天才的に知り抜いていた。
それはキング自身が生活体験を通して感じてきたことのひとつ、ひとつ。いまこんな風に他人のしてもらったらうれしい。そんな思いが叶えられたり叶えられなかったりしながら、人の気持ちを学んでいったのだろう。そこには自身の暮らしの本質が集約されている。
エルヴィスには現実の生活なんてどうでもよかった。そう思う。空想する自分。幼少から現実を見て過ごすのは苦しかっただろうと他人が想像するのも簡単な環境。どうでもいいのは現実を見ないからだ。見ていたら苦しくなるばかりの現実なんて見たくないのも人情。気になり出したのは40歳を超えてからかも知れない。
しかし空想し歌の中に入り込んだエルヴィスに世界中の人は心酔した。琴線に触れてくるからだ。
それこそがエルヴィス・プレスリーの仕事だった。しかし自分がどんな才能を持っていて、どんなに素晴らしいことをしているか、それすら本当には理解していなかったかも知れない。
収入は自分の才能への対価にもかかわらずトム・パーカー大佐の努力への対価と勘違いしかねないほどの謙虚。
エルヴィスはもっと違う自分を探していたような気がする。もっと変わりたいと願っていたような気がする。
興行収入やレコード売上枚数で自分を評価する以外のものを求めていたのではないだろうか?
自分の努力の成果をもっとリアルに感じられる場所を追い求めていたのかも知れない。それがミュージシャンであろうが俳優であろうが、もっと別なことであろうが、自分を信じることができる強いなにか。
しかし自分のために生きることや努力をせずに、他者のためになら自分を捧げることができる、我慢もできる性質。最愛の母グラディスとの関係で学習した生活スタイルは生涯変わらなかった。
わずか21歳で頂点に上りつめた後に自分の目標そのものだった母親を失い、現状以外の選択肢がないというのはアメリカ南部育ちの素朴な青年には残酷である。富を得た後に残るのは自己実現しかないにもかかわらずどこに向かえばいいのかすら分からない苦痛。
それを紛らわすかのような、自分で自分を認められない空虚を埋めるための熱中は長くは続かない。すべては消費されるばかりだ。
それは珍しいことではない、どこにでもいる人の姿、近年増え続ける人物像だ。
エルヴィスが本当に求めたのは、財産でも他者への愛情でもなく、活気に満ちた自分その人だったように思う。
実際にはほとんどそうであったはずなのだ。エルヴィスが遺したもの、その大半は”たったひとり”で築き上げたものばかりである。それは驚異である。本当に驚異である。驚くべきことだ。そしてそれらは多くの妨害をたったひとりで乗り越えてのものばかりだ。
多くのものがエルヴィスから産み出された。影響を受けたのは音楽だけではない。芸能・音楽の世界に若者の主張できる場を、その膨大なヒットとセールスによって築き上げた。本当にエルヴィスによって世界は変えられたのだ。
世間がそのことに無関心なのが残念であるが、それ以上に当のエルヴィスが理解していなかった気がする、そうでないことを祈りたい。そのことを正当に評価してあげていたら、キングの70年代はもっと違ったものになっていただろう。
そんなことはエルヴィスの善も悪もすべてを受け入れようとする人には分かっていることだ。
そしてボクは誰の身の上にも起こるような悩み・・・・自分の居場所がない。本当の自分。・・・自己評価を低くしてしまう人たちにこそエルヴィスを聴いて欲しいのだ。このサイトはそういうものでありたいと願っている。それがボクにできるキングへの恩返しなのだ。
しかし現実は、たとえば『ミュージカル エルヴィス・ストーリー』のチラシを道で配っても、話かけてくるのはエルヴィス・ファンである。
主催者が求めてくるのもいつも同じ言葉「エルヴィス・ファンに・・・」「エルヴィス・ファンに・・・」ばかりだ。
ボクはいつも「エルヴィス・ファンでない人に・・・」「エルヴィス・ファンでない人に・・・」と考える。その気持ちを本当のエルヴィス・ファンなら分かってくれるはずだと、ココロの隅で祈るように願う。
本当のエルヴィス・ファンとはなんだろう。ファンなのだからエルヴィスを楽しめばいいのだが、本当のエルヴィス・ファンとは自分を忘れるためのエルヴィスでなく、エルヴィスをとらえることのできる人。それは愛する者、愛すること、すべてへの対処の仕方と同じだと思う。
「自分の居場所がない」に対して何かを伝えるだけなら他の手段もある。
先日観た映画『ブルー・クラッシュ』には思わず目頭が熱くなった。神様が舞い降りたような気がする大好きなノースショア(ハワイ)をリアルな舞台に「生きるとはどういうことか」を伝えてくれる。『リロ&スティッチ』を連想させるような姉妹。どうすれば子供が自分の人生に突進する力を持ち得るのかを簡潔に教えてくれる。TVキャスターが毎日のように電波で送る憂鬱なしかめ面や空虚な討論会より遥かに説得力があり、シンプル。
「私のお姉さんよ!」の言葉が永遠。
いい音楽、美しい映像、そして何より人間の笑顔の素晴らしさ。「こんな美しい映画観たことがない!」と思える力。スターは出演していない。劇場は若者で占められている。子を持つ人にこそ、絶対のおすすめ!このような映画ならいくらでも伝えることはある。
同じハワイをバックにしたエルヴィス・プレスリーの『ガール!ガール!ガール!』にそのような感動はない。それでもこの映画はボクが初めてキングを見た特別な映画だ。他の誰にもない雰囲気が衝撃的。音楽に興味のなかった当時のボクのヒーローはスティーブ・マックイーン。『荒野の七人』『突撃隊』『大脱走』・・・湿気を含まない軽い風のように感じた点では共通していた。しかしマックイーンの何かに向かう風と比べエルヴィスから吹く風はすべてがオリジナルだった。エルヴィスも、映画の作り方も、楽曲も、声もすべてが変わっていた。なかでも<心のとどかぬラブレター>は特別に変わったものだった。曲も、身のこなしも!
『恋のK・Oパンチ』『ヤング・ヤング・パレード』『アカプルコの海』『ラスベガス万才』へと続き、「変わったもの」から「好きなもの」へ移行していった。<心のとどかぬラブレター>から始まり<広い世界のチャンピオン><アイ・ガット・ラッキー><破れたハートを売り物に><あなたにそっくり><アカプルコの海><すてきなメキシコ><ボサノヴァ・ベイビー><ラスベガス万才>そして<好きだよベイビー>に辿りついた。体育館のエルヴィスに完璧に身動きできないほどにハマった。昨年世界中でチャートナンバーワンになったベスト盤『ナンバー130ヒッツ』に収録されたのはわずかに<心のとどかぬラブレター>1曲だけだ。エルヴィス・プレスリーとは、見出しで表現できない、そういうアーティストなのだ。
そこへ向かわせた『ガール!ガール!ガール!』とは、どういう映画だったのか。ボーイ・ミーツ・ガールの単純。ガール!ガール!ガール!が溢れる異様な光景、一方で中国人の子供が絡む。いかがわしさと優しさ。すべて虚構だけれど、すべてエルヴィスの本質そのもの。
ツイスト、カリプソ、フラメンコ、タンゴと趣向をこらしている。エルヴィスの見せ方、聴かせ方を変えて、エルヴィスが単なるロックンローラーでないことを伝えようとしている。
映画まるごと一本が、ただただエルヴィス・プレスリーを見せ、聴かせるための装置である事実が突きつけるのは、人々がエルヴィスになぜ熱狂するのかという謎だ。
この映画について、つまらないと語るようなら、その口を犬のようになめてやればいい。
「自分の居場所がない」と感じる人に聴いてほしい声。押しつけはしない。しかし『ガール!ガール!ガール!』はエルヴィスを知らない人にとって観るべき映画である。なぜなら。それはエルヴィス・プレスリーの映画だからだ。世界の音楽と文化を変えた男の出演映画だからという理由で十分だ。
この映画でエルヴィス・プレスリーも、エルヴィスが生きた時代背景も理解することはできない。しかしエルヴィス・プレスリーを大事にしてきた世界中の人々の心のときめきや痛みの一片のその切れ端くらいには触れることができる。なぜ人々はエルヴィス・プレスリーを最も好んだのか。なぜその声は長い旅の道連れになったのか。その事実を知ることこそ大切なのだ。・・・もしそれに触れることができたら、きっと自分はひとりじゃないと気付くことも難しくないはずだ。
ガール!ガール!ガール!
1962年
PDA-167
DVD発売元 パラマウント
ホーム エンタティメント
監督 : ノーマン・タウログ
主演 : エルヴィス・プレスリー、ステラ・スティーヴンス、ローレル・グッドウィン
7/25on sale!
■英語音声:5.1ch サラウンド ■片面1層
■復元版(英語):モノラル ■字幕:日本語/英語 ■複製不能
■カラー
■98分(本編)
■スクイーズ16:9(ビスタ)
DVD 問い合わせ先
電話 03-3486-5885
パラマウント ホーム エンタティメント ジャパン株式会社(マーケティング部代表)
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