WHAT NOW,WHAT
NEXT, WHERE TO
ホワッツ・ナウ・ホワット・ネクスト・ホエア・トウ
本来は「アルバム」をリリースする予定で1963.5.26〜27日にかけて録音されながら、結果的に引きちぎられた12曲。
<はてなきハイウェイ><恋のやまびこ><ネヴァー・エンディング><ブルー・リバー><恋の魔術>など、あるものはサントラに、あるものはシングルのB面、あるものはサントラアルバムのボーナス・ソングに。離ればなれになった12の兄弟みたい。
それらがエルヴィス他界後『ロスト・アルバム』としてまとめられ、1964.1.12録音の<胸に来ちゃった><メンフィス・テネシー><アスク・ミー>の3曲を加えて、本来はこうであっただろうと思われる近い形に修復された。
近いというのは<悲しき悪魔><恋のあやつり人形>は予定通り?勝負曲としてシングル・リリースされたので、ここには収録されなかったはずだからだ。
1963.5.26〜27録音分 |
はてしなきハイウェイ |
1965.8/シングル盤(A:僕は君のもの) |
ウェスタン・ユニオン |
1968.6/「スピードウェイ』 |
恋の魔術 |
1963.lO/シングル盤(A:ボサノバ・ベビー)
1968.2/「エルヴィスのゴールデン・レコード第4集」 |
ラブ・ミー・トゥナイト |
1963.12/『アカプルコの海」 |
ホワット・ナウ、ホワット・ネクスト、ホエア・トゥ |
1967.6/『ダプル・トラブル」 |
恋のあやつり糸 |
1963.6/シングル盤(A:悲しき悪魔)
1968.2/『エルヴィスのゴールデン・レコード第4集 |
ブルー・リバー |
1965.12/シングル盤1967.6/「ダプル・トラブル』 |
ネバー・エンディング |
1964.7/シングル盤(A:サッチ・ア・ナイト)
1967.6/『ダブル・トラブル』 |
悲しき悪魔 |
1963.6/シングル盤
1968.2/「エルヴィスのゴールデン・レコード第4集』 |
君と僕はいつまでも |
1965.7/「メンフィス・テネシー」 |
恋のやまぴこ |
1964.3/『キッスン・カズン』 |
がっちり行こうぜ |
1963.12/「アカプルコの海」 |
1964.1.12録音分 |
胸に来ちゃった |
1964.1/シングル盤(A:いとこにキッス)
1968.2/『エルヴィスのゴールデン・レコード第4集」 |
メンフィス・テネシー |
1965.7/『メンフィス・テネシー』 |
アスク・ミー |
1964.9/シングル盤(A:ラヴィング・ユー・ベビー)
1968.2/『エルヴィスのゴールデン・レコード第4集』 |
中古ショップで探してきた『ロスト・アルバム』-----こうしてバラバラにされた曲を塊にして聴くと、エルヴィスがどこからどこに行こうとしていたのか、その輪郭が見えるようである。
自分自身による個人的な理由による個人的な選択。
ハイスクールを出たエルヴィスは何気なく職についたが、自身の選択と決意によってミュージシャンへ転職。
誰もがそうであるようにエルヴィスも誰も身替わりになれないところに過去と現在を背負って立ち、その場所から自分の足跡を残しながら、未来をめざした。
コンプレックス、恐怖の重みも加わって、はてなきハイウェイを未来への歩む、ひとつひとつの足跡は決して軽くない。
母の死に直面する一方で可愛い恋人との出会い、60年代に入って、喜びも悲しみも時には、どうにもならないことがあるのを知ったうえで、折り合いをつけていこうとするかのような孤独感を内包した穏やさ、
それが人への優しさに昇華しているようなアルバムだ。
その中に4Dの世界観で歌っているような<ホワッツ・ナウ・ホワット・ネクスト・ホエア・トウ>がある。
サウンドトラック・アルバム『ダブル・トラブル』にボーナス・ソングとして収録された曲だ。
「メロディーの中においで、おいで」と誘っている、
その誘い方が決して押し付けがましくない。で、ボクは誘いにのるより先に、無断でその歌声に入って、まるで赤子のようにすっかり包まれてしまっている。
そしてこの曲を説明しろと言われてもそれ以上言うことなんてない。
外から鑑賞すれば、いろいろ言えるのかもしれないけれど、なにしろその歌声の中で上がったり下がったりしているのだから、気持ちいいとしか言えないのだ。
1963月5月に居た場所から見ると、エルヴィスのめざしたものが『約束の地』『Today』であったような気がする。
『約束の地』には<ホンキー・トンク・エンジェル><ミスター・ソングマン>さらに深みを増した『Today』には<嘆きのスーザン><愛なき女>などエルヴィスの成熟が伺える。
一部にはテクニックでこなした<アンド・アイ・ラブ・ユー・ソー>もあったりするものの、全般にエルヴィス色に染まった自然でハートフルなパフォーマンスは胸を打って、いくら聴いてもあきさせない。聴くほどに愛おしさがこみあげてくるような歌声でありパフォーマンス。エルヴィスは間違いなく自分のめざした音楽の途上に辿り着いている。
エルヴィスは人生の大事なことに勝利したとはっきりと言えるような気がする。
人生の成功者でありながら、反面失敗の影がつきまとっていたが、『ロスト・アルバム』を1962年6月の『ポットラック』と1967年3月の『ゴールデンヒム』の空白の5年の間において見渡せば、伝説の68年『NBC-TVスペシャル』すら、スティーブ・バインダーの熱意が動かしたように、やはりエルヴィスがやりたくなかったことのように思えて来て、録音をいやがったばかりか、エルヴィスらしからぬテクニックを縦横無尽に使った謎の多いアルバム『メンフィスより愛をこめて』『ムーディ・ブルー』が一体なんだったのか、
「ワトソン君、それはこういうことだよ」と少なくとも自分の中でははっきりと解明できたように思えるのだ。
いたずらな<心の痛手>が聴こえてくるエルヴィス・プレスリー大通りの暗闇に、「言っただろう、僕は何でも歌えますって」と微笑んでいる19才のエルヴィスがいる。---その時、口元は歪んでいなかった。
一方、我々はどこに辿り着いたのだろうか?
すぐに飽きる服、使い捨ての道具、即席の食べ物や快楽。
それはエルヴィスの音楽の対極にあるもので、多くの人は自身が望んでもいないままに、その音楽の性質と違う方向へ自覚のないままに進んでいないだろうか?
コンビニの弁当、スイッチポンでできるハンバーガー、それらには本来きちんとした素敵な理由が存在しているが、それを考える前に、違う使い方に慣れてしまって、人間の素敵でない部分に手を貸し怪物を育てあげている。
音楽も服も使い捨て、自らのアイデンティティの不足を何かにつけ他人と違うことで補おうとしてハートに響いているわけでもない音楽を無理矢理刷り込む、
ファッションを道具にする。むさぼるように求め、あきたら捨て、あんなに熱心に通った店にも寄り付かない。
消費の中にアートはない。
アートとは自分を忘れるためのものではなく、自分と出会うためのものだから。
しかしまだ逆襲する力は残っている。
1枚のハガキを情熱カードにできる人のエネルギー。
一冊の詩集を明日に向かうための区切りの遺書のように創りあげる感謝の心。
1枚のハガキを送る相手のことを思い浮かべながらも、いつしか忘れて思いきりのめりこんで楽しんでいる。
いくつもの”のめりこみ”をあちらコチラに丁寧にほどこしていく。5分---10分---時を刻みながら1枚の紙は自分をむきだしにした情熱カードに成長していく。
ほどこしていく中に自分がいる。幸福でも不幸でもなくただ自分がいる。
自分に出会える素敵は幸福や不幸の尺度では語れない。
轟音を立て怒り狂うかのような山にあって、海にあって、山の洞窟は何ごともないかのように静か、海底はいつもと同じく深く暗く静か。
同じことは家にあっても、外は雨風でも部屋の中では穏やかに過ごせるように、悩みや心配事が唸っていても、不幸のどん底にあっても、その時間は悩みも心配事も立ち入る隙がない。遮断でも逃避でもない、無心に仕上げていく無の一瞬、一瞬にこそ、本当の自分に出会える場なのだ。
自分の素敵は自分にしか作れず、そのような時に人は幸福とも不幸とも考えない。
ただ何かをしている自分がいるだけだ。
『ロスト・アルバム』に収録されている、あるいは『約束の地』『TODAY』に収録されている、
それらはそんな楽曲である。
だから飽きない、自然なふるまいだからだ。テクニックを施す時、そこに本当のエルヴィスはいない。
ただ無心に歌っているとき、鼻歌が情熱的でないのと同じように、それは時に情熱的でないものである場合が少なくない。
むしろ多い。
命日にグレイスランドの空から降り注いでいた楽曲の多くはそのような楽曲であって、身動きできずにただそこにいることしかできなかったのも、そこにあるがままのエルヴィスがいたから。その場に居合わせた人たちが一斉に涙したのも、「よく来てくれたな」とエルヴィスに肩を叩かれたような錯角に突き動かされたのも、エルヴィスのいのちの雫を使い捨てにすることなく、一瞬一瞬を共有し”交流”してきたからこそ出迎えてくれたのだ。
錯角ではない、間違いなくあの夜、人々は自分の親友に会ったのだ。
ジョン・レノンは語っていた。
「実在しないと証明されない限り、ぼくはどんなものでも存在すると思う。
だから妖精も神話の神々もドラゴンもいると思う。たとえ心の中のことにしたって、何だって存在するのだ。
いい夢にしても悪い夢にしても「ここ」「いま」と同じように本物なのさ。現実にはまだ想像する余地がたくさんあるんだよ。」
人間は身体がないと生きていけない、呼吸がとまれば身体があっても死ぬ。
身体の中に自分を入れて生きている。身体は乗り物。入って出て、入って出て、自分はどこにいるのかと考えるといま体内にある空気が自分で、呼吸を止めて、次に入ってくる自分を見つけることができるかも知れないと考える。
ハーブティーの香りと共に、そうやって自分を探す。見えるわけなどない、しかしそうしていると自分が何者で、大事なことはなにかが分かるように思える。
と同時に親友エルヴィスも同じように大気の中で遊んでいるように思える。
その姿を見るまで死ねないなと思う、無心に包まれて自然につながれば、それは4次元の世界、きっとあの夜肩を叩いてくれたように、すぐそばで見つけることができるように思うのだ。
なにより世界をタテ・ヨコ・タカサで旅するより、タテ・ヨコ・タカサ・オクユキで旅するほうが面白そう。
1月8日、NさんがPさんのお家を訪れた。Pさんのお嬢さんは今年20才、生まれた時からエルヴィスの声が響いている環境に育った。母にあきれながらも無心のひとつの形を五感で見続けてきた。
ロウソクの炎を<マイ・ウェイ>が揺らす。
はじめて訪れたお家を包んでいるあたたかい空気と大事にされているエルヴィスを見てNさんは突然泣き出した。「お母さんと同じ人がいてよかったね〜」「私はいつも母で慣れていますから。」と自然体で話す20年の恩返しは、はじめて会った人にも向けられる。
多くの人は美しい景色が好き。他者の優しい機微が好き。きれいな場所を旅したり訪れたり、だったら他者が自分の地を訪れた時に同じような感動を与えてあげたくなるはずなのに、たばこを捨て、空き缶を捨て、ふれくされる。受け取るばかりで与えることの素敵を考えずに、自分の感動、感性すら使い捨てている。
旅の感動、自分の感性、つまり自分を活かすのは旅先と同じように、他者を心地良くさせるように自分の身辺を美しくすること。飾る花がなければ、ほほえむだけでもいいのでは。
与えてもらったから捧げる番が回って来た。エルヴィスと共有し交流するためにミルキー・ホワイト・ウェイを一生懸命、駆け昇ろうとするバースデーケーキの炎は限りなく女前の美しさに輝いている。
よかったね、素敵なお母さんに出会えて、
火を吹き消す瞬間、それはエルヴィスとハグしてキスする瞬間。
よかったね、エルヴィスに出会えて。
与えて受け取る・・・・地球上の生物すべてが受け取った分だけ、与えて捧げる去ることで「地球」という共同体を守っているように、無償の愛のなかに一番生き生きした自分がいる。
幸福とか不幸とかそんな言葉でわりきれない素敵。
エルヴィスはそれを教えるために寒い冬に命を与えられ誕生し、四季に自分を捧げて、暑く熱い夏に消えていった。
冬は寒さの内にあたたかい季節を用意し、夏は暑さの内に凍てつく季節を用意する。幸福ばかりがあるわけでもない、不幸ばかりがあるわけでもない、しかし無心に過ごせば幸福も不幸もそれはかげろうでしかない。
冬は手が凍ったとわめきながら寒さを楽しめばいい、夏は暑さにヒーヒーいいながらアイスを楽しめばいい。
エルヴィスが教えてくれた。
『今週ノおススめ』は<ホワッツ・ナウ・ホワット・ネクスト・ホエア・トウ>・・・・・エルヴィス・プレスリーという人の本質、エルヴィス・プレスリーの芸術の真髄である。
現在流通しているもので入手可能なのは『FROM NASHVILE TO
MEMPHIS THE ESSENTAIL 60's MASTERS』ぐらい。エルヴィス・プレスリーの理解とはその程度でしかない。エルヴィスの持っているものを、多くの人が持っていないということの意味に他ならない。・・・・
<最後の恋>のトム・ジョーンズ、<マイ・ウェイ>のシナトラ、<アンド・アイ・ラブ・ユー・ソー>のペリー・コモ、<ハワイアン・ウェディングソング>のアンディ・ウィリアムス・・・・。巧いミュージシャンならいくらでもいる。
しかし<ホワッツ・ナウ・ホワット・ネクスト・ホエア・トウ>のように歌えるアーティストを他に知らない。
間違っても彼等の素晴らしさでエルヴィスを聴くべきではないだろう。
<ホワッツ・ナウ・ホワット・ネクスト・ホエア・トウ>・・・・・歌詞も翻訳も解説もいらない。
エルヴィスに身も心も委ねればすべてが聴こえる曲である。・・・・でも呼吸だけはしておいてね。
『MASTERS』は’50〜’70全部揃えても3〜4万円だ。
(なんと『50'Masters』の新品を3500円で販売していたショップもあった!)
これはBMG/RCAからの素敵な地球人への贈り物。
(因に鈴木喜久雄氏は<ホワッツ・ナウ・ホワット・ネクスト・ホエア・トウ>を『ELVIS
BALLADS』に収録することを切望されたそうだが、実現されなかった。)