好きにならずにいられない
Can't Help Falling in Love
エルヴィス・プレスリーの『バレンタイン・ギフト・フォー・ユー』はバレンタイン・デーに最適なエルヴィスのラブ・バラードが集められたアルバム。
なかでもエルヴィス・プレスリーの音楽的スケールの大きさを証明するのが<好きにならずにいられない>だ。
クラッシックにまで手を出して、エルヴィスは何でも歌うを実証しているが、それを全部エルヴィスの音楽というジャンルに仕上げてしまうに留まらず、永遠のスタンダードにしてしまう点が半端ではない。
「アーティスト・オブ・ザ・センチュリー」と呼ばれる由縁だ。
<好きにならずにいられない>はジャン・パウエル・エジート・マルティーニ作曲の<愛の喜び>をアレンジし、エルヴィス用に作り直した楽曲、映画『ブルー・ハワイ』の挿入歌である。
日本ではエルヴィス最高のヒット曲の印象を与えるほどに知られているが、ボブ・ディラン、ボノ、ブルース・スプリングスティーン、コリー・ハートなどカヴァーしているミュージシャンを挙げればキリがないほど、CM、映画のサントラにも多く使用されている。
1961.3.12-13録音の<好きにならずにいられない>を最初に聴いたのは<ロカ・フラ・ベイビー>のB面、本当は両A面だが、どちらかと言うと<好きにならずにいられない>がA面のはずだが、国内盤は<ロカ・フラ・ベイビー>だった。
廃盤セールで買ったお買得のシングル、ほとんど<ロカ・フラ・ベイビー>ばかり聴いていた。やがて『エルビス・オン・ステージ』で<好きにならずにいられない>を観ることになるが、『ブルー・ハワイ』のサントラとは全く違うド迫力に感動!観客全員を抱きしめるようなその姿は、とってもロマンティックな光景である。
『エルビス・オン・ステージ』のいま、この瞬間に自分をぶつけていく汗まみれの姿の方が遥かにロマンティックでロマンスの香りがプンプンする。
賢者は云う、愚か者のみ、愚か者のみが事を急ぐと
だが私は、だが私は、
恋に落ちるのをどうすることも出来ない・・・
この歌詞はその理解の仕方で、人を幸福に誘いもするし、不幸にも誘う。
急ぐ者は愚かなのだろうか?
そうではない。相手を警戒して徐々に少しづつ出したり、引っ込めたりして見せていくというつきあい方は賢いとは思えない、どちらかというと卑怯だ。
考えてみると恋のドラマというものは正確には恋の関係成立に向かうドラマであって、恋そのものではない。
しかし人間とは恋だけに生きてる者ではない、何かをするために生きている。何かをするためのエネルギーとなる恋こそが宝物なのだ。恋の関係成立に時間をかけているのが勿体ないのだ。
だから最初からバ〜ンと自分を出さなければ。
映画の<好きにならずにいられない>と『エルビス・オン・ステージ』の<好きにならずにいられない>は同名同曲だが、エルヴィスからのメッセージはまったく違うものだと思う。
知人にオーストラリア先住民族アボジリニの血をひく白人女性がいる。
彼女は日本に来る前、結婚していて2児の母親だった。まだ30才にもなっていなかったが、ある時、医師からガンの宣告を受け、長く生きられないことを通告された。
そこで彼女は旦那さんに自分のために重荷を一切背負わせたくないと考えた。「気にせずに新しい素敵な人を見つけてやりなおしてほしい、子供は私が責任をもって育てる。いざとなったら母と弟が育ててくれる。幸福になってほしい。これまで幸せだった、ありがとう」と言って離婚を申し出た。
そしてハイスクール時代から興味をもっていた日本に行くことを決心し、子供ふたりと同じく日本に興味を持っていた友人とバックパックひとつでやってきた。
不動産会社に就職した。後を追いかけてふたりの弟もやってきた。ビルやマンションのメンテナンスをするということで同じ会社で働くことになった。
やがて彼女はドイツ人の男性とバーで知り合って恋におちた。
彼は二人のこどもを自分の子供のように可愛がった。
ボクのオフィスの近くにある幼稚園に子供を迎えにくる彼をよく見たし、子供を連れて立ち寄った。
そしてふたりは結婚した。
ドイツとオーストラリアでそれぞれ結婚式を挙げた。
やがて彼女はオーストラリアに子供や母親のことを考えて帰国した。
彼はいまも日本で働いていて2〜3ヶ月に1回オーストラリアに向かう。夏季休暇はポルトガル語を修得するためにふたりしてポルトガルで過ごしたりする。
ふたりは離れていても同じものを同じ角度から同じ視線で見ているのだ。
弟は某企業のラグビーのコーチをして、末っ子はアフリカに行った。そこでたまたま乗ったバスで、隣に座った老人からガスが出るという話を聞かされた。
そして会社を興した。
いま末っ子が社長になり、彼女と上の弟は重役になった。
彼女はいまオーストラリアの大邸宅にふたりの子供と母親と住んでいる。
旦那さんはいまも日本で働いていて相変わらず2〜3ヶ月に1回オーストラリアに向かう。
ガンは?どこかへ消えたのだ。
ウソのようなホントの僅か4〜5年の話。彼女は川の流れに身を任せているだけなのだ。しかし溺れずにきれいに流れているのは、心をニュートラルにして、自分を信じて、しっかり抱きしめているからなのだ。
だからガンさえも飛んでいってしまったのだろう。たとえ再発しても、最初から覚悟してパートナーになってくれたドイツ人の彼なら自分が亡くなっても子供を守ってくれると思ったから決意したのだ。
他人のネガティブな物差しに惑わされずに、他人にリスクを背負わすこともなく、ひとりひとりがリスクを自分のものとして受け入れて生きるからこそ、
”賢者は云う、愚か者のみ、愚か者のみが事を急ぐと
だが私は、だが私は、
恋に落ちるのをどうすることも出来ない”
というフレーズがとてつもなく素晴らしいのだ。
本物のロマンティックはおむつやガーゼの匂いに包まれている。
エルヴィスの傑作バラード<好きにならずにいられない>はこういう人の歌であると思っている。
賢者は云う、愚か者のみ、愚か者のみが事を急ぐと
だが私は、だが私は、
恋に落ちるのをどうすることも出来ない
もしとどまったとしても、それは、それもまた罪
恋をせずにはいられないのだとしたう
川が確実に海に向って流れるように
いとしい人よ、これもまたそのように、何かのさだめ
私の手を取り、このすべてのいのちを貴女のものに
なぜなら、恋に落ちずにはいられない
好きにならずにはいられない、私なのだから
<好きにならずにいられない>は偽りの安っぽい恋の歌ではない。その本質は自分を大切にせずにはいられないという意味である。
もちろん自分のリスクを引き受けることなく、自分の人生を忘れ、依存する自分勝手なエゴイストということではなく、自分の人生を自分で引き受けて、ありのままの自分を生きる人の歌である。
『エルビス・オン・ステージ』のラスト・シーン、エルヴィスがステージ中央、獅子のように絶唱する姿と、声がそれを語っている。。
人間は完全無欠ではない。ポジティブ、ネガティブ、その両方を持っている。
両方をさらけ出して、同じものを同じ角度で見て考えるからパートナーなのだ。
一緒にいても違うものを見ていたら会話もバラバラになって続かない。
愛することはホントはとってもシンドイことなのだ。
好きにならずにいられないという言葉が価値を持つのは、シンドイことを引き受けるからである。
好きだからこそ、シンドイことをやり通せるのだ。無償の愛を引き受けるということだ。
人が他者を理解することはとっても辛いことなのだ。
相手の立場になって見て考えて、気がおかしくなるくらいに考えてこそ、はじめて相手の心の氷山の一角に辿り着く。
相手の立場ということは相手の人になるということだ、つまり別人になって考えるということだ。
エルヴィスが歌っている<Walk A Mile In My Shoes/ウォーク・ア・マイル・イン・マイ・シューズ>のことだ。
だからこそ自分を最初からさらけ出してあげることが大事なのだ。
自分の人生に自分を捧げる覚悟が出来たなら、急がなければいけない。”命短し、恋せよ、乙女”なのだ。
Wise men say only fools, only fools rush in
But l, but l, I can't help falling in
Love with you
Shall I stay, would it be, would it be a sin
If I can't help falling in love with you
Like a never flows surely to the sea
Darling, so it goes, some things remount to be
Take my hand, take my whole life too
For I can't help falling in love with you
For I can't help falling in love with you
心があるのは人間だけではない、
動物や植物はもちろんモノや道具にも心がある。
エルヴィスに限らず楽曲はどれも、必ずメッセージを持っている。
感受性を開いて曲に耳を傾ければ、川が確実に海に向って流れるように、誰もがそのメッセージを受け取ることができる。
<好きにならずにいられない>がボクに送ってくれるメッセージは、ありきたりなステレオタイプの考え方でなく、自分の心をしっかり開いて自分の目で見て感じて、そこで感じた自分を生かすために、リスクがあっても、自分を自分の人生に投げ込み、捧げて、引き受けなさいということだ。
『エルビス・オン・ステージ』が心をわしづかみにしたのも、ザ・キング・オブ・”オリジナル”エルヴィスだったからだ。
エルヴィスが録音作業にとりかかる時に、エルヴィスはいま目の前にあるこの曲にどんな作業をさせたいのかを考えていたと思う。どんなように聴く人の心に話しかけるのか、やさしく言うのか、きつく話すのか、ふざけてじゃれあうように話すのか、大人同士の会話をするのか、どうあるべきかを瞬時にキャッチして放出できる稀有の存在だったと思う。
だからどの曲も本当は優劣なんかないのかも知れない。映画では身動きができずに悩んだこともあっただろうが、音楽は曲そのものの出来、不出来を超えてエルヴィスの心と才能で最良を求めた。「歌なしでは生きていけない」というのはそういうことだろうと。
エルヴィスに接する時・・・
いろんな愛し方、好きのなり方があっていい。酒でも笑い上戸もいれば泣き上戸もいる、泣こうが笑おうが自分の感情を解放してあげればいい。でも自分を忘れるための聴き方は、愛とは呼ばない、ファンでもない。
リスクを恐れ、自分を忘れ、日常を忘れるために、聴いて聴いてむさぼり聴くだけなら「アルコール依存症」と変わらない「エルヴィス依存症」である。
エルヴィスの声はとっても心地がいいので、おいしいお菓子を食べ過ぎてしまうような傾向があるけれど、自分を忘れるために聴くのではなく、自分を取り戻すために聴いてほしい。
アルコール依存者は自分や現実と向き合うのが辛いために、浴びるように飲むことで逃避する。
飲んでいたら自分も浮世も忘れる。他の依存症も自分に向かわずに他のことに神経が集中して一瞬忘れられるから心地よいだけで、幽閉を熱中と錯角しているだけである。
一瞬だからまた自分と向き合う時間がやってきて、逃れるためにまた「依存の対象」へ逃げ込む。際限がない。いくらでも消費する。
酒ならアルコール依存、セックスならセックス依存、賭け事ならギャンブル依存、仕事なら仕事中毒、依存は何にでも起こり得る。
生意気だがボクは、エルヴィス・ファンにはそんなふうになってほしくない。と、言うか、お酒の好きな人にアルコール中毒者はいないように、本当のエルヴィス・ファンならそんな人はいない。
本当にお酒が好きな人、楽しめる人は、飲めないなら飲めないでも平気だ。同じようにエルヴィスを聴いても聴かなくても平気だ。聴かずにいられないなんてことはない。
自分の人生から自分を取り除き、代りにエルヴィスを捧げて、エルヴィスを聴くのなら、それはエルヴィスへの愛でも、音楽への愛でもない、自分を愛せない者に他のものを愛することはできないのだ。愛されたいだけで、しかし自分は誰をも、何をも愛せない。
しかし他者に依存する、アルコールに依存する位なら、エルヴィス依存症になることをすすめる。他者へ与える被害が少ないからだ。暴力、児童虐待、性的虐待・・・恋人やパートナーあるいは子供を傷つけたり、放蕩の末、借金を抱えて自分も周りの人をも不幸にする位ならエルヴィスを聴いているほうが平和だ。
だけどボクはエルヴィスのサイトや音楽を「共依存」にしたくない。依存とその依存を支える共依存者が作る悲劇なんて真っ平ご免だ。
「あの人は問題あるけど、こんないいところもあるからね」なんて「共依存者」のセリフは絶対言いたくない。相手の立場で考えたら、ボクが言えることは「それは間違ってるよ」だけなのだ。
そして「チャレンジしてごらんよ」だけなのだ。
そんな時に「エルヴィスの歌でも聴いてごらんよ」と言う。
孤独な時に、そっと手を差しのべるように、聴こえてくるのがエルヴィスだからだ。
だからこそ依存的な聴き方をしてほしくない。
なにより先に自分を大切にして、心を開いてエルヴィスを聴いてほしい。
自分を幽閉せずに、心を開けばエルヴィスは何かを言ってくれる、エルヴィスはそんなアーティストだ。そして会話が出来た時、本当のファンになり、エルヴィスのパートナーになれる。
堅苦しいことではない、対話は心地よい静寂の中で無意識に自然に生まれる。
禅で気が抜けたときに禅僧が「喝!」と背中を叩くようなタイミングで、聴けばいいのだ。ああ、疲れたな、饅頭でも食べたいなというタイミングで聴けばいいのだ。
しかし水道の蛇口をひねったら水が出るような感覚でエルヴィスを聴くのはどうかと思う。
それにしても勘違いしないでほしい、中毒、依存症状とは多く聴くから、少し聴くからの問題ではない。酒を少ししか飲まない重度のアルコール中毒者もいるように、聴く心のあり方の問題なのだ。
ファンもマニアも本質はモノの数ではなくて深さだと思う。エルヴィスが何を言ってるか、どんな気持ちで、どんなことを言おうとしているのか、自分の心を開いて考えることのできるのがファンでありマニアなのだと思う。
暮らしに創造の起こらないアートなんてアートじゃない。つまりエルヴィスに触れていないのだ。
エルヴィスのアルバムはたくさん出ているが、ボクはそんなにコレクションする必要もないと思っている。全身全霊で歌たい込んでいて、あるいは自然な心で歌っていて、エルヴィスの精霊が宿っているものを聴けばいい。
エルヴィス・プレスリーとはそれをしたアーティストである。
つまりお金のかからないミュージシャンなのだ。
じっくり聴き込んで、お小遣いでゆっくり買っていけばいいのだ。
1枚のアルバム、一枚のシングル盤を一生の友にするだけの仕事していると思う。それは聴く側の心の開き方の問題なのだ。
エルヴィスと何がしたいのかが分かれば1枚のシングル盤でも親友になれる。
たとえば某氏のコレクターぶりの断片は雑誌でも紹介されていて驚くばかりだ。
でも某氏はお酒が好きだから酒屋さんを開いた「酒屋さん」と同じ立場なのだ。
そういう生き方を本当にしている。自分のアイデンティティをしっかり持つことが輝きなのだ。
誰も彼もが同じようなアイデンティティで、あれを聴いた、コレを聴いた、自分は聴いていないから聴かなければ・・・・他人がヴィトンのバッグを持ってるから私もほしいというのと似ていないか。こんなことは本当にいいのだろうか?
エルヴィスが曲を通して話しかけたことは、世界中の人に同じことを語ったはずだが、メッセージをどう受け取るかは個人個人の心模様なのだ。
自分を高めることが先にあって高まるほどに自然にエルヴィスと愉しい会話ができる。スーパーマーケット、路上の光景、いろんな場所にいろんなメッセージがある。
ボクはこの20世紀最高のミュージシャンと対等に淀みなく愉しく話ができるようになりたいと願っている。・・・それは快楽不退な愉しい時間。”ザ・キング”の言葉の重みを熟慮すれば、身を小さくするしかないのだが。
グレイスランドの前、エルヴィス・プレスリー大通りで、”キャンドルサービス”を待つ列に顔のない女性がいた。どうしたのか気の毒に顔の大半に皮膚がない。その女性はそれを隠そうともせずに立っていた。
もしかしてコンサートでいつものように、エルヴィスは彼女に<ラブ・ミー・テンダー>を歌いながら、キスしたのかも知れないと思った。あるいは彼女はかって自殺を考えたのかも知れない、それをレコードのエルヴィスが遠くから止めたのかも知れない。・・・ボクは空想していた、
その時テレビ局は彼女にもインタビューしていた。彼女がそこに立ち、カメラマンはカメラを向けて、インタビュアーはきちんとインタビューしている、この関係がエルヴィスの家の前で成立していることは、実際はどうであれ、ボクの想像は実際に起こったのも同然だと思った。
ボクのイメージも、多くのファンのイメージも、エルヴィス・プレスリーとはそういう人である。
本当はエルヴィスの評価を他人の判断に委ねるなんてことは、とんでもなく馬鹿げたこと。これだけの人を誰も評価できる資格なんかない。それでもこの世の果てまで譲って通俗的なルールに任せたとして、エルヴィスの芸術的感性と豊かなオリジナリティーが今後どう評価され、どのように伝えられていくかは、実はファンと呼ばれる人たち、つまりエルヴィスのパートナーたち、ひとりひとりの生きる態度、エルヴィスへの接する姿勢にかかっているのだと思う。
自分のやりたいことは自分にしか分からない、自分を好きになるためには、自分を信じて、自分を解き放ち、自分の人生の川に、自分を投げ込み、大いなる海へ出ればいい。
エルヴィスが<ザッツ・オール・ライト>で最初に教えてくれたことは、<好きにならずにいられない>でもピカピカしている。そして『エルビス・オン・ステージ』では光りをいっぱいあげるから、勇気を出せよと言ってくれているようだ。
汗いっぱいながして、笑顔で、キラキラピカピカいっぱいの光りをプレゼントしてくれている。本当に見ればそこには白い神が立っていて、それは眩ゆく、自分に見る資格、聴く資格、光をもらう資格があるのかと震える。胸騒ぎは止まらず、気を失いそうになる。
少しでもエルヴィスの近くにいけるように、強くなりたい、優しくなりたい、自分を大切にしたい・・・イルミネーションのようにピカピカ光る。
観客に向かって自分をさらけだしているキングの背中・・・”逃すなよ、逃がすなよ”・・・・
『ELVIS〜THAT'S THE WAY IT IS/エルビス・オン・ステージ』のカメラマンだったら、ラストシーンにボクは最高のショットを求めながら、こう言いながらカメラを回しただろう↓。
「キングの本気を受け止められるか!
覚悟して聴け、見ろッ!
この姿こそエルヴィスに決まってるじゃないか!」