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愛ピのエルヴィス・プレスリー コレクションエルヴィス/今週ノおススめエルヴィス・プレスリー全仕事エルヴィス全曲名エルヴィス全アルバムエルヴィスSongBookエルビス映画エルヴィス/電脳シアターエルヴィス/エッセイエルヴィス/写真館エルヴィス/WHO'S WHOELVIS Kidsエルヴィス ロックな書き場ミュージカル「エルヴィス・ストーリー」

POT LUCKの社会

このアルバムはエルヴィスのオリジナル曲ばかりだと思うのですが、…………、つまりエルヴィスのために楽曲をみんなが持ち寄ったという意味の…………POT LUCK WITH ELVISでないのかと。

ポットラックとは、みんなが食べ物やドリンクを持ち寄ってするホームパーティのこと。

日本ではあまり行なわれる機会は少ないポットラックスタイルのパーティ。
その一因に住宅事情があげられる。しかしその理由は必ずしも適切でない。
日本で暮らす欧米の人は、2DKのマンションでも3,40人程度のホームパーティを日常的にやってしまってる。
自分で作った簡単な料理やファストフードを持ち寄って、片付けも、誰かれなしに自然に助け合って、誰かに特別な負担がかかるということもない。
あるときは車椅子の方も、車椅子ごと参加する、それが2DKの部屋でもやってしまえる。(やってしまう)それは心の問題。

ポットラックの悪夢

で、ピエロが参加したあるポットラック・スタイルのバースディパーティの時のこと。30人程度のアメリカ人やカナダ、イギリス、オーストラリアの人たちに交じってピエロ他5人ばかりのジャパニーズも参加。

旅行の話になって、ある日本のマダムが「どこか行くご予定は?」とピエロに質問をしてくる。「メンフィスへ行こうと思っています。」と愛想もなしに答える。「なにかあるのですか」「グレイスランドってエルヴィス・プレスリーが暮らした家があるんですよ、そこへ」と親切に(?)答える。

「エルヴィス・プレスりーって誰ですか?」

カキーーーン!このひとことで体内の回路が音をたてた気がしたのだが、とりあえずポーカーフェイスで「アメリカの有名な歌手です。ロックの王様って世界的に言われてます。」そのご婦人は近くにいた日本のヤング・レディに質問する「エルヴィス、なんとかって知ってる?」「聞いたことあるように思うけれど、分からない」と若い方は愛想よく答える。(まあ仕方ない)
マダムが「その人、古いんですか」とピエロに尋ねる。「死にましたよ」とぶっきらぼうに答える。

ピエロはそのバースディの主役に「もう帰る」「早いね、これからケーキ出すのに」「いいから帰る」と言い残し、その場を立ち去った。

エルヴィス・クラスになると、好きか嫌いかは別にして「知らない」ということはまずない(と決め込んでいる)。年齢に関係なく、みんな知ってるし、そればかりか、アメリカ人ならグレイスランドにも行った人も多い。どうせマザー・テレサも知らんのだから仕方ないよ、と自分に言い聞かせた。

だが、エルヴィスを知らないのも自由、好きなのも自由だ。

アメリカを表現する軽快なポップ・チューン

で、事実はともかく反社会的な匂いが強い入隊前のエルヴィスと比較して、除隊後はかなりマイルドになったエルヴィスと「ポットラック」の関係はなんとなく分かってしまう感じなのですが。1962年6月にリリースされた、ゆったりとした感じのアルバムはちょっともの足りない。
これが後年の「ハレム万才」や「ゴー!ゴー!ゴー!」まで行くと、「すごい!」と思う程カルト的?に「すごい」んですが、中途半端な出来映えとなってしまった感じ。
もうここではロックンローラー、エルヴィスの面影はないくらいだ。だけど、きっちりミリオンセラーにしてるのはさすがだし、その声と技術から発信される情感はもう、やはりエルヴィス!!
それにこの後に続く楽曲、例えば『アカプルコの海』『ヤング・ヤング・パレード』などの原点はここに全部揃ってる感じがします。では曲目をご紹介。

赤字はオリジナルの曲目、(  )内は日本盤初回のタイトル
黒字はアップデート盤で追加された曲、
は「いかすぜ!この恋」に使用された曲

1.Kiss Me Quick/キス・ミー・クイック(早くキスして)
2. Just For Old Time's Sake /昔を思って
3. Gonna Get Back Home Somehow /今すぐ家に帰りたい

4. I Met Her Today /新しい恋人を見つけた
5. Easy Question, (Such An) /イージー・クエスチョン(こんなにやさしい問いなのに)
6. She's Not You /あの娘が君なら
7. I'm Yours /僕は君のもの
8. You'll Be Gone /ユール・ビー・ゴーン
9. Something Blue /なんとなくユーウツだ
10. Suspicion /サスピション(うたがい)
11. I Feel That I've Known You Forever /いつまでも忘れまい

12. Night Rider /ナイト・ライダー
13. For The Millionth And The Last Time /最後のキッス
14. Just Tell Her Jim Said Hello /内気な打ち明け
15. Fountain Of Love/愛の泉
16. That's Someone You Never Forget /忘れ得ぬ人
17. Steppin' Out Of Line/ステッピン・アウト・オブ・ライン

このアルバムからのヒットは2年後の64年4月にシングルカットされた<キス・ミー・クイック><サスピション(うたがい)>などだが、リリース当初はシングルカットはされていない。
エルヴィスそっくりに歌うテリー・スタッフォードが「サスピション(うたがい)」をカヴァー。ヒットチャートに盗塁もどきの技でトップ3に送り込んでいる。勿論日本でも大ヒット。ビートルズが占領するヒットチャートを堂々と占領。あわてて<キス・ミー・クイック>の裏面でリリース。「早くキスして」なんて言うより先に「早く売ったら」よかったのに。

アルバム発表から3年後、ファンのリクエストで映画『いかすぜ!この恋/Ticle Me!』の挿入歌として使用されたものも多い。リクエストというのは映画制作時に「エルヴィスが映画で歌っていない曲で好きな曲を選んで」と応募を呼びかけたもの。<イージー・クエスチョン>などが選ばれている。

このアルバム・リリース1カ月後の62年7月に「あの娘が君なら/内気な打ち明け」をシングル・リリース。続いて9月に『恋のK・Oパンチ』(サントラ盤EP)、10月に<心の届かぬラヴ・レター>、11月『ガール!ガール!ガール!』(サントラ盤LP)、63年2月<破れたハートを売り物に>、4月『ヤング・ヤング・パレード』(サントラ盤LP)、6月<悲しき悪魔>、9月にゴールデンレコード第3集をはさんで、10月<ボサノヴァ・ベビー>12月『アカプルコの海』(サントラ盤LP)と精力的な仕事ぶりだ。全体にコミカルで軽いポップ・チューンが特長。

ポットラックの国の自由

さて、 この「ポットラック」は自由を尊重した機能している共同体の生活習慣です。

この根底にある思想が、実はすごく重要なことだと思うんです。
人間は何かに属さないと、やっていけないものというか、アイデンティティというものが獲得できない。

どういうことかというと、
何にも属さないのは自由だと思いがちですが、そうではない。
何にも属さないというのは、どこからが自分なのか境界がなく分からなくなります。

人間は考える葦になったけれど、その代わり本能が退化してしまってます。
金魚のように自分の生んだ卵を食べるようなことはしないけれど、もっと複雑に人を傷つけることをしてしまいます。考える能力は高めたけれど、それによって悩み、傷つき、悩ませて、傷つけてしまうことをするようになった。

そういう人間は「本能の赴くままに生きる」ことは出来ない動物です。
本能の代わりに「自我」というものが必要で、アイデンティティとは「自我の安定」に他なりません。

「自分」というものを認識しようとすれば他者が必要になります。
ここまでが私の身体、ここからはあなたの身体というように区別できる境界が必要です。
{当たり前やろう!と思われるでしょうが、その当たり前のことがすごく重要なのです。
もし、違いがなかったらどうでしょう?奇妙に感じるでしょう?
そこでは他者との違いが重要になります。他者との違いによって自我が支えられるのです。
他者との違いは究極ともいえる「確かな関係」の積み重ねによって確認できます。

まず人間には、強い弱い、仲がいい、悪いは別にして「親子の関係」が誰にもあるものでしょう。
これが最小、最弱の関係としたら、「この関係」を確かなものにずるために、それを支える関係が必要になります。男女、家族、地域、職場、というような属性が支えることになります。一番大きな属性が国家であったり、地球規模のエリアということになります。
さらに細かい属性が網の目のように網羅されています。
エルヴィスファン、ビートルズ、オアシスというような好みのものや甘党、辛党などもそうです。このようにいくつもの属性があって自分というもののアイデンティティが確かになっていきます。
どの関係もひとつひとつは究極の関係ではないけれど、積み重ねていくことで「究極の自分」に近付くことが出来ます。
「俺は自由だ」と思っていても実は自分でいろんな縛りを入れているのです。

ピエロは「自由」という概念が日本人と欧米人では、どこか決定的に重要なところで違うと思っています。「ボランティア」という言葉の意味も同じく違うと思います。

先日居酒屋チェーンで飲んでいたら、乳母車に赤ん坊をのせた夫婦がやってきてました。案の定赤ん坊は泣き通しに泣いているのですが、我かんせずで知らん顔。いい迷惑なのは周囲の客。
夫婦の気持ちは理解できますが、だからと言って大人が楽しむ場に赤ん坊を連れてくるのは、どうでしょうか?自由とはこういうことでしょうか?

自由とは自主ということであり、自我を自分のものにする戦いです。
「壊れた本能」のままに生きるということではない。
お互いの自由を楽しめるようにするために存在しているのが「マナー」という調整機能です。この場合明らかなマナー違反です。例えば信号無視は人間無視です。赤か青かが問題でなく、恐怖を感じさせるか、させないかが問題なのです。マナーが尊重されない大きな理由は「人間を見ていない」ということではないでしょうか?

エレベーターや電車に乗るときは、降りる人が優先、ぶつかったら「ごめんなさい」というのもマナーです。そこには「痛かったでしょう?」という相手を思う気持があります。
欧米人が「ありがとう」「ごめんなさい」「問題ないよ」という言葉をしきりに使うのは、「思いやり」でしょう。

そこには「人と人が暮らしている」という前提があります。自由は共同体の中にあります。
共同体を壊さないというのは自分の領分、自由を壊さないというのと同じなのです。
思いやりとシステムがあります。あるのが当然です。相手を思いやるのは、自分にも思いやりをもってくださいという権利の主張なのですから。
「信号無視をしてもいい」ということは「信号無視されてもいい」という表現です。これでは共同体は加速度的に破壊に進みます。(進んでますが---)

アメリカでは学生時代に「子守」のアルバイトをする習慣があります。
おかげで親は外出でき、学生は「子育て」のトレーニングをすることができます。これは合理的なシステムだと思います。夫婦でレイトショーのロードショーも見に行ける。
だからレイトショーは大人ばかりです。最近シネマコンプレックスが増えていますが、レイトショーはヤングばかり(昼は老人ばかり)。アメリカなど欧米とは反対です。
一見幸せそうだけど、本当はそうじゃない。だってみんな順送りで同じような立場に立つわけですから。
結婚したって女は女だし、男は男。
お母さんが人生の役割のすべてではないし、会社員がすべてでもない。
みんな本能のいかれたただひとりの人間なんだから。

属性や共同体が稀薄になればなるほど自分が失われています。
自由や過った権利を主張すればするほど、自分はなくなります。
ピエロはこの問題がいろんな不幸な事件の原因だと思って居ます。

例えば国歌や国旗がない、それがカッコいいデザインかメロディかというのは別の問題です。
国の歴史も新しく、多民族であるせいか、カナダはやたら国旗が多いと思います。国歌もよく聞こえてきます。アメリカの大リーガーなんかでも、毎回国旗を仰ぎ、国歌を歌います。勿論観客もそれにつきあいます。野球観戦するたびに、フットボール観戦するたびにおれはアメリカ人だと無意識のうちに意識してるわけですよね。
なぜこんなことをしてるのかを考えることが大切でしょう。

日本の場合、いろんな文化が入り込んでいるけれど、ベースが単一民族に近いせいか、このようなことを意識せずに、違う角度で「国旗、国歌」の論争をしているように思います。
いいとか、悪いとか、好きとか嫌いではなく、自分は誰か?自分は何か?が断定できなくなるようなことをマスコミや政治がどんどんやるってのは、不安なことではないでしょうか?

属性の基盤となる大分類が国だと思うのです。家庭は最も身近かなものです。
家族同士のつきあいをみても、話題はグルメ、ファッション、本当に大事なことは誰にも言わない。
これでは家族という属性がはっきりしない。本来はその関係からして最も自我が安定する場所でなければならないのに、その機能がない。
そればかりか、こどもがそれを見ていたら、「自分の悩みは他人に言ってはいけない」と教育されているよなものではないでしょうか?これでは悩みを抱えた時が大変です。なにしろ自分のことを話す経験をあまりしていない。差障りのない話題で人間関係を作っているわけですから。
自我を安定させるための属性として、いくらともだちを作っても「ストレス」は解消されない。その理由は分からないけれど、壊れた本能でなにか変だと思っていますから、「得体の知れない変」にストレスをぶつけていきます。自分とは誰か、何かをはっきりする場所向けて石投げているようなものです。

いまこの国では政治、マスコミ、評論家の方々が「自己責任」ということをしきりに叫んでいます。
かって明治維新では封建社会から離れて自我を確立しょうとしました。
第二次世界大戦では軍国主義から離れて自我を確立しょうとしました。
いままた会社から離れて自我を確立しょうと叫んでます。
欧米から「形」を持ってくるのはいいですけれど、「心(精神)」はどうするつもりか?と思ってしまう。
居酒屋に赤ん坊連れてくるのも、信号無視も自己責任だったらいいってことに発展するのかな?

人間は何かに属さないとアイデンティティが安定しないことを忘れたら怖いですね。

アイデンティティの獲得へ挑戦的に立ち向かったサン・レコードのエルヴィスと『ポットラック』のエルヴィスはほとんど別人状態だと思います。
『ポットラック』のジャケットの屈託のないエルヴィスの笑顔を見ながらを、この軽快で脳天気なアメリカン歌謡曲のアルバムを聴くたびに、「日本のシステムってどこか寂しい」と思ってしまうのです。
自分は誰か?自分は何か?が断定できないのは不安なことではないでしょうか?

おっと、エルヴィスの温かい声にホロリとする『メンフィス・1969・アンソロジー』の<WHO I AM?>が聴きたくなってきた。

 
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