日本でのエルヴィス・プレスリーの評価が低いもうひとつの理由は<ブルー・ハワイ>等の映画を通しての印象が強いのも一因だと思う。
映画でも、ビートルズ登場後の<ラスベガス万才>ではなくビートルズ登場前の<ブルー・ハワイ>の印象なのだ。観光映画の案内役をする歌う2枚目スターと革新的なロックバンドビートルズという構図だ。
その後のエルヴィスの印象はジャンプスーツになる。<エルビス・オン・ステージ>による印象によるものだ。
ロックンローラー、エルヴィス・プレスリーがゴッソリと抜けているのだ。
そのためにエルヴィスの評価が低い最大の理由は意外にも「革新性がない」「発展がない」というものなんだろう。
例えば日本の書店で取り扱われている音楽関係者では圧倒的にビートルズが多い。アメリカではエルヴィスが一番多いし、パティ・スミスも多い。(日本では極端に少ない)まあ、それぞれの国によって違うのは勝手なんだろうが。
さてエルヴィス・プレスリーは一体何をしたのか?
ひとことで言えば「世界を変えた男」ということだが、実際のところエルヴィス前の世界を知らないし、どちらかというとビートルズ前の世界すらよく判らない。
これだけの大スターでありながら自伝もないし、同業者との交友録もなければ、語録すらわずかしかない。ベールに覆われた生活とおもしろおかしく書かれたスキャンダル本や死後の「まだ生きている」本がある程度で、相当に正確に書かれた誠実な本ですら不透明な点が多い考えれば考える程ミステリーな部分に突き当たる。
ただひとつ信じられるのは「エルヴィスの声」だけだ。僕はそれが好きで聴いていたにすぎない。その繰り返しの中でいくら聴いても飽きないのが「サンスタジオ」のエルヴィスだ。
聴けば聴く程に、サンでエルヴィスは頂点に達してしまったのではないだろうかという思いが強くなる。
かの有名な<ハートブレイク・ホテル>はその頂点に達したお祝の記念盤のようにすら思える。<ハートブレイク・ホテル>のエルヴィスはサンスタジオで録音したものとは随分違うもので、プロフェッショナルが集合して作り上げた珠玉のロックンロールであっても、(僕には)エルヴィスの最高傑作でない。
僕は<ミルクカウ・ブルース・ブギー>は最高のロカビリーだと思っている、そして<今夜は快調!>は最高のロックンロールだと思う。共にサンで録音されたものだ。
黒いシャツにピンクのパンツというファッションはいかにも黒人っぽい。単なる好みの問題ではない。白人社会からの拒絶に対するエルヴィスの回答であり、生きる姿勢を意味する。
貧困、監獄にも入れられた父親、アルコール中毒による家庭内暴力、双生児の一人を死産しながら何もしてやれなかった虚しさからくる不安定な母親の過剰な干渉、教会の施しの食事に頼る日々、メンフィスの学校で嘲笑された悔しさ、安定した収入を得る仕事を夢見た13歳の少年。
唯一の居場所がギターのピックの中だった青年が希望の火をメラメラと燃やしながら突進していく疾走感が<ミルクカウ・ブルース・ブギー>を通して悲しいまでに響いてくる。
僕は<A FOOL SUCH AS I>のエルヴィスが一番好きだが、それはポール・マッカトニーが遂にカヴァ−してしまった<恋にしびれて>を最高に楽しい曲とかねてから公言していたのと同じ意味で、それはいつでも聴いて楽しい、声の素晴らしさで、楽しめるものだ。
<A FOOL SUCH AS I>が娯楽版とすれば<ミルクカウ・ブルース・ブギー>は純文学の世界なのだ。
キース・リチャーズ(ローリング・ストーンズ)は「エルヴィスにも出来なかったロックの完成を俺はやるぜ」と言ってるようだが、それは結構だ。キースやE.クラプトンたちは大好きだ。しかしいかに大好きで偉大であっても彼等はブルース、黒人音楽に向かい合っているようにしか感じられない。エルヴィスがキングでありえる最大の理由は向かいあっているのではなく、エルヴィスそのものが黒いという点にあると思う。別に黒でも、黄色でも、白でもいいのだが、黒にこだわるのは、黒の粒子の隙間から「絶望」の声が聴こえてくるからだ。
エルヴィスの歌い方、声からは「絶望感」ではなく、「絶望」が響いてくる。絶望だけではない「希望」「反抗」「屈辱」「飢餓」「怒り」「悲哀」「倦怠」「恐怖」「抑圧」「憂鬱」「空想」「焦躁」「空虚」人間のあらゆる感情がうねりのように発信され押し寄せてくる。その甘いルックスからは想像できない精神が肉体に宿っている。それがリズムとメロディと一体となってばく進する。
それは<ミルクカウ・ブルース・ブギ>の赤と黒のねっとりとした南部の熱い夏の情景が出だしの語りの声によって表現されている。その後に続く感情の嵐、創造的でシンプルなサウンドが心臓の動きのように正確に響く。白人の音楽でも黒人の音楽でもない。エルヴィス・プレスリーという個の存在、歌っているのではなく、魂を内包した身体が表現している。ロックンロールを歌っているのではない。ロックンロールそのものがそこにあるのだ。エルヴィス・プレスリーという肉体と精神がロックンロールなのだ。
自分自身がロックンロールそのものであるなら、音楽的なロックの発展、追求は自身の死と再生の繰り返し以外に選択はない。ブルースと向かい合って「ここはこうだよね」と技術を楽しんでやっているのと決定的に違うのだ。
意識する場合もあれば無意識の場合もあるが、人間には『そのこと』をする理由がある。
エルヴィスはなぜ歌っていたのだろうか?なぜキャデラックをピンク色にしたのだろうか?
安定した暮らしをするために安定した収入に憧れた少年はそのアメリカ的な成功によって信じられない富を手にした。
キャデラックはその象徴であり、<ハートブレイク・ホテル>を歌うことと引き換えに獲た純金を使った富の象徴をピンク色に塗り替えてしまった。
まるで金を捨てるかのような裕福な暮らしへの同化と反発だ。
彼が求めていたのは「安定」であり、そこには安らかな安心すなわち「愛」が欠けていた。「憂鬱と倦怠」、しかし彼は「安定」とは何か本当は知らなかったのだろう、そんな経験を知らない人間に分かるはずがない。ピンク・キャデラックはそれを語っているような気がする。
この時にエルヴィスの魂は生きるために死んだ。死ぬことによってのみ彼は癒され再生した。
自殺者の遺書を原作にした<ハートブレイク・ホテル>はサン・エルヴィス=エルヴィス・アーロン・プレスリーという個人へのトリビュート・ソングだ。「こんな暮らしはもうイヤだ」と決意した13歳のエルヴィス、白人から嘲笑された高校時代、アル中の父親を壁に押し付け「今度お袋に暴力を振るったらただでは済まさないぜ」と凄んだ屈辱にまみれた<白人の屑扱いされた>エルヴィス・アーロン・プレスリーへのトリビュート・ソングだ。
再生したエルヴィス・プレスリーは新進気鋭のシンガーとしてマシンガンのように自分の分身をヒットチャートに連続で撃ち込み世界を変えていく。貧しく馬鹿にされ自ら自分を卑下せずにいられなかったエルヴィス、それを「お前は卑下することなんかなにもないんだよ」と言い続けた母グラディス、怪し気なトム・パーカー大佐を味方にして「みじめな南部の田舎者の逆襲」はメディア、上流の、いや普通のアメリカ中の生活を挑発し嘲笑しながら世界制覇に発展していく。
RCAエルヴィスは、ブルースから憎しみを消し去ったことでロックンロールを創造したサン・エルヴィスをパロディすることで火の玉のように飛び転がりロックンロールした。彼は明らかに憎しみより愛を選んだ「確信犯」である。
そして入隊決定。
国家は人気絶頂、サブカルチャーはもとより世界を変える勢いに成長したエルヴィスを潰しにかかったのだろう。
免除金を出せば徴兵は免れることが可能だったし、その他特別な扱いを受けることが可能な条件をいくつか提示されたが、一切を受けなかった。
そのことに対しエルヴィスは自分の意見を言わない男と受け取られがちだがそうではない。彼はどこにでもいる「ただひとりの白いアメリカ男」になりたかっただと思う。ここに沈黙に潜む強固な意志、言い換えれば<礼儀正しさと奔放さ>の二面性の接点が伺い知れる。
インタビューを求めて殺到するマスコミ。貧しくどちらかと言えば社会からはじき出されていた<ヒルビリー>少年には金以上の栄光ではなかっただろうか?彼は本当に「白人」になり、「アメリカ人」になった。
「軍服を着ている限り何処に行ってもアメリカを代表して行動している」という発言は紋切り型であるが、この言葉の裏には「白人社会」に受け入れられたことが強くこめられている。貧しい服装を嘲笑された高校時代が脳裏を横切っただろう。
「黒いシャツにピンクのパンツ」はみんなと同じにはなれないから、同じではいられない孤独と生き続けるための反発、理不尽に課せられた生きる悲しみがこめられていたはずだ。
ドイツに赴任したエルヴィスは14才のプリシラに出会う。ファンに取り囲まれてもその真の心は判らない。富と名声を獲得すればするほど、人間の心は見えにくくなる。純真な少女の心はエルヴィスには識別可能な「安心」だったのだろう。
彼は二度目の死を迎えて癒された。白いアメリカ人というアイデンティティと引き換えに、ロックンローラー、エルヴィスは死んだ。
後日、ジョン・レノンが「エルヴィスは入隊で死んだ」と語っているが、音楽家としてのエルヴィスは変質したが、人間エルヴィスは永く暗いトンネルを抜けたのだ。しかしロックン・ロールはエルヴィスそのものであり、ロックンロールの死でもあった。
除隊し、復帰したエルヴィスはサン・エルヴィスを内包した偉大なロックンローラー、エルヴィスへのトリビュート<ELVIS
IS BUCK!>を発表し、大ヒットさせる。ファンから忘れられたのではという不安は瞬く間に消え去りショービジネスに君臨する大スターとしての地位は間違いのないものとなった。
世間から袋叩きにされた時代は遠のき身も心もアメリカの一員となった偉大なるアメリカの大スター・エルヴィスは大御所シナトラと共演。映画<ブルーハワイ>はヒットし、サントラ・アルバムは20周連続ヒットチャート・トップの大成功、その地位を確固たるものにするためにもハリウッドに専念するようになっていく。
三度目の死だ。癒しはなく再生もない死になってしまった。
エルヴィスは結婚することで癒しを受け、待ち望んだ「安定」を手に入れたかのように見えた。安定を経験したことのないエルヴィス・アーロン・プレスリーを内包した偉大なスターは次第に生気が薄れていく。エルヴィス自身が生きるために再生を渇望するようになっていく。
四度目だ。葛藤の結果、安楽の中で腐乱していく偉大なハリウッドスターを自らの手で殺し、その死体の中から取り出したエルヴィス・アーロン・プレスリーを再生させる。<TVスペシャル><シッドダウン・ショー>に失ったかっての自分を再生させる。見事に美しいまでの光景だ。サン・エルヴィスのようなメラメラした突進はないけれど、ここには白いアメリカ人というアイデンティティ、安定、愛との引き換えに封じ込めてきたものへの怒りがあり、挑戦がある。スタジオにはロックンロールそのものが存在しており、巷にはロックが溢れていた。
しかし存在そのものがロックンロールであり、「ザ・キング・エルヴィス」であるエルヴィスは一体どうすればいいのだろうか?
音楽的なロックの発展、追求、結晶は自身の死と再生の繰り返し以外に選択はない。<TVスペシャル><シッドダウン・ショー>のエルヴィスを生かし続けるためには死を以て再生させるしかない。ラスベガス・エルヴィスはこの道程のすべてのエルヴィスを内包したショー・ビジネスの王者、世界一自由で富みに満ちた国<アメリカそのもの>として蘇る。
<アメリカそのもの>はハワイで「豆絞りの手ぬぐい」を首にかけ、麻薬取締官にも任命され、大統領とツーショットで世界中のアメリカ大使館の額縁の中に入った。ロックンロールであり続けるために死と再生を繰り返してきた道程に終わりの時が近付いていた。いまや誰も立てないところに立っていたのだ。思い起してもらいたい、彼の歩んだたったひとりで戦った道を。
そして「白いアメリカ人」のアイデンティティはプリシラの浮気によっていとも簡単に崩壊する。「えっ!あのエルヴィス・プレスリーが浮気されたって」他人はおもしろおかしく言う。
ずっと欲しかったもの、憧れた結果やっと手にしたものが意味をもたなくなったとき、ピンクのキャデラックは金属のおもちゃ以上の意味しかなかったことを思い知らされ、グレイスランドはテユペロの家より大きいだけの意味でしかなく、ファンはただ歌を聴いてくれる存在でしかないとき、一体自分の存在にどんな意味があるのだろうかと疑問を持っても不思議ではない。もはや「牛の乳しぼり」にメラメラと燃え上がる情熱を再燃させようにも、もっと大きな絶望が立ちはだかる。そう「牛の乳しぼり」に命が燃えたときは絶望もあったが、それを睨み返す反抗も希望もあった。いまは自分のやり方は正しかったのか、間違っていたのか?それすら分からない。あれだけの声援、支持を受けながら怖れていた「拒絶」が事実としてある。エルヴィス自身に非があったのかも知れないし、なかったかも知れない。いずれにしろ、かって無垢だった白人女性の妻は有色者と恋に落ちたという事実。プリシラの拒絶は”ただひとりの女”の拒絶では無い。世界の拒絶だったのではないだろうか?
「お前は卑下することなんかなにもないんだよ」と言い続けた母グラディスの言葉は正しかったのか?すべてが崩れ出した。
死を選択してもおかしくなかった。エルヴィスは死にたかったのではないかと思う。あの死の直前のコンサートに見るエルヴィスにはもはや「緊張」はない。
戦い続けた結果、残ったのは「白人からはじきとばされたエルヴィス」だったとしたら、全人生が否定されたように思ってもおかしくないよね、エルヴィス。
でも違う。
あなたの歩んだ道は決して間違っていなかった。と言ってあげたい。
こんなに世界中でこんなにもあなたの歌に声に癒され勇気付けられている人がいる事実がそれを語っている。その人生の最後を閉じたところから「永遠のアメリカ」となった。
ジャンプスーツのエルヴィス・プレスリーを悪く言う人がいる。
エルヴィスは死と再生を繰り返してきた。彼はいつも拒否されずに受け入れられてきた。これはダメだ、捨てろというメッセージは彼には届かなかったし、誰も出せなかった。エルヴィスの受け手たちはエルヴィスの発信するものを比較するものもないし、受け入れるしかなかった。受け手はそれをエルヴィスに返し、エルヴィスは受け取り、死に、再生する。
再生の度に、それまでのエルヴィスのすべてが内包される。当然、繰り返す死と再生は自分を大きくしていく。
すべてが終わった後に、すべてが見えた後に、とやかく言うことは簡単だ。
いま歴史が創られている瞬間に、誰が何を言えるのだろう。エルヴィスが歩いた後に道が出来たことを忘れてはいけない。
彼は成功のあり方も失敗のあり方も通信教育した先駆者であったことを忘れてはいけない。
この世界のどこにエルヴィスほど人の心をとらえ、死してなおファンクラブの会員数が増え続けているアーティストが存在するのだろう?この事実は何を語っているのだろう?
その謎はこういうことではないのかと思い当たる。
エルヴィスは誰よりも「オリジナル」であり「現実的」であった。
ロックの発する自由、奔放、快楽、その対極に誰でもが抱えているありふれた現実の暮らし。
極度に高度な表現力と欠伸が出そうなつまらない脚本の映画
神聖な神の歌と人の誹りを受ける程に奔放な歌
裕福な暮らしと歩兵暮らし
意志をもって調整すればできそうなことをしない意志のなさ?と頑な意志
尊大なまでのパフォーマンスと内向性
天使と悪魔の2面性の中に、おそらくファンの誰もが意識するしないにかかわらず感じている「黒人教会の前にひとり佇む純真な白人の少年の心」
どれだけ「オリジナル」でありどれだけ「現実的」であったか?それは彼の歌にも読み取れる。
エルヴィスは<ラブ・ミー・テンダー>などを別として自身で曲を作らなかった稀なアーティストであるのは有名だが、その活動の最初から最後まで、誰かが歌った歌という『現実』を誰もが真似のできない表現で『オリジナル』なものにしてきた。
彼程の才能がありながら、なぜ自分で曲を作らなかったのか?これには曲を創る意志がないのではなく、創らない意志があったように思える。それが<ELVIS----That's
the way it is>なのだ。
どんな状況になっても現実を生き抜くこと、それこそが自らに課した使命であり最大の戦いだったのではないだろうか?
その心情から溢れ出る無言の思いを声を通じて無言の内に感じるのではないだろうか?
音楽は古代からひとときの癒し、休息を求めて聴く「生活の助け」だと思う。
音楽を聴いても、生きるということを聞いていないかもしれない心のない音楽評論家も多い。
エルヴィスはロックを追求しなかったという、ロックは一時期だったという。確かにビジネスとしての音楽という点をいま現在の一般的通念で考えた場合にはエルヴィスとその周辺で幾つもの誤りを冒してきたと思う。RCAが発表した数多くのコンセプトのないアルバムはハリウッドの映画と同じくらい、それ以上にエルヴィスを傷つけるようなことをしている。
掲示板に書き込んでくれた高校生だという彼は「メガ・エルヴィス」によってとりこになったという。反対にコンセプトが目茶苦茶な「ラブソング」やアルバム「バーニングラブ」を聴いた人はとまどいホテルの宴会歌手のような錯角をしてもおかしくない。
しかしそれはエルヴィスというひとりの人間が残した無言のメッセージによって語られた重要なことからすれば、ほこりにもならない程度の小さなことだ。
最後にポール・ウィリアムズの文章を記す。この全文に対して決してイエスもノーも言わない。ロックとエルヴィスの関係は前述した通りが僕の感想だ。
50年代、60年代、70年代、どんな時代のエルヴィスの歌声にも癒され勇気づけられるのは、そのコアとなっている人間の感情、「愛情」「絶望」「希望」「反抗」「屈辱」「飢餓」「怒り」「悲哀」「倦怠」「恐怖」「抑圧」「憂鬱」「空想」「焦躁」「空虚」等などの思いを、すなわちエルヴィス・アーロン・プレスリーという少年の心がポール・ウィリアムズがいうように親友のように、隣で語りかけるからだろう。
西暦2000年、キース・リチャーズが言っていた。「ロックンロールって言うけれど、最近ロールはどこに行ったんだ。」