そしていまも、プレーヤーに載せられたときには、このレコードはおなじことをする。歌詞、サウンド、歌いかたをとおして表現される考えかた、ギター、ベース、ドラムが一体となってさけぶやりかたをとおして表現される考えかたによって、それをする。
このレコードは、嘲笑的で辛辣で、軽蔑と憎悪に満ちている。ぼくたちのなかの、何が何でも蜂起を、革命を、嘘のない世界を求める部分に語りかける。それは喜びである。それは解放である。それは大きな騒音である。空気のなかに何か特別なものがあったのだ。そして充分に大きな音で聞けば、いまもこのレコードがオゾンを放っているのがわかる。ロックンロールは、ひとつの時間をとじこめて表現する。
だからこそ、たとえ関係者それぞれの意図はかなりくいちがっていたとしても、このような集団的な創造行為が成功することがある。マルコム・マクラーレン一マネジャー>は名声と注目と肩書と金がほしかった。ジョニー・ロツトン<本名はジョン・ライドン>はロックンロールをきらっていたようだが、仕事を必要としていて、行きあたりばったりのチャンスを試してみることに抵抗できなかった。マトロック、ジョーンズ、クックの三人は、ロック・ミュージシャンを夢見ていたが未経験で、楽しいこと、将来へのチャンス、自己表現の場を求めていた。若者たちが集まる場所には、パンクの気分があふれていた。
世界に対する不満が急速に激化した(ただし焦点の定まらない、目的のない不満だ)。
とくにストーンズやザ・フーやレッド・ツェッペリンやデイヴィッド・ボウイといった、死にそこなって老いさらばえた「若き」反抗者たちの、なかなか消えていかないイメージに対する不満が高まった。メディアや音楽業界の有力者たちは身を飾って、おれのコネをつかえ、おれを利用しろと懇願するあほなやつらにすぎない。マクラーレンには考えがあった---ほかの考えをといわれても、それしかなかったのかもしれないが、とにかく仮は自分のアイデアを信じた。そしてそのアイデアはタイミングがよかった。川はすでに方向を変えようとしていた。マクラーレンはすこしだけ、その後押しをしただけだ。グレン・マトロックもおなじようにして、仲間といっしょにセックス・ピストルズの容赦のない、がなりたてるサウンドをつくりあげた。
ジョニー・ロットンもおなじようにし、あらゆる抑制をとりはらって自分のなかにあるサイコバス的な側面を前面に押しだし、「時計じかけのオレンジ」のアレックスのイメージに命を吹きこみ、マイクにむかって笑ったり、にくにくしげに「おれはアナキストだ」といったりした。ばかなことではなかった。気どったボーズでもなかった。ただ、人々の最大の恐怖を実体化したいという心からの欲望だった。「さあ、心配するな」これはとてもおもしろいレコードだ。そして同時に、あきらかに現実的なものだった。現実的なものを創造することが、もっとも有効な革命の方法である。なぜなら、それは、それ以外のすべてのものを愚かに見せるからだ。
何年ものあいだ、何世紀ものあいだ、ロックンロールがつくりたいと願いつづけてきた大きな騒音が突然、この45回転盤から飛びだしてくる。まるで空を切りさく稲妻のように。いまもそれは変わらない。最初の50秒は、壮絶な解放の悦惚感。とどろくベースのイントロ。ジョニー・ロットンの最初のことば一「さあ、いまだ!)のタイミングとエネルギー。彼のすばらしい笑い声。一番、そして二番の冒頭まで保たれる異常な速さのテンポ、「反キリスト」と「アナキスト」という韻を踏むことは。
高度化した産業社会の若者たちの考えかたをみ.ことに要約した「ほしいものはわからなくても、それを手に入れる方法は知っている!」という一節。ロットンの、すべてのことばをべったりと発音する独特の口調がレコードのパワーの中心にあり、最後の瞬間に「アナキスト/怒れ/破壊しろ」というさけびのマントラで最高潮に達する。最後のことばは、音楽の最後の音と合体するまでひきのばされ、ひとつの輪が完成する。はじまりとおなじように、破壊的で爽快なクライマックス。すごい。
彼らはどうしようとしていたのか?自分たちのリンゴを積んだ荷車をひっくりかえして、どうしようというのか?だが心配はいらない。長いあいだ待っていれば、かならずどこかの。パンクがやってきて、かわりに車を引いてくれる。