結論から言うと、ミスはミス、上司の怒りは関係ないので気にせず、迅速に責任を持ってミスの処理をしてださい。以上です。
では次に、どうしてこれで完結するのか、その理由を説明していきます。
まずミスの責任と、上司に怒りを分けて処理しましょう。
ミスの責任を引き受ける権利はあなたにあるので、積極的に引き受けて責任を果たすようにしてください。
上司の怒り、不機嫌は、ミスと関係ないことに注目してください。
■どこまでが自分の責任なのか
上司が不機嫌な態度をしていても気にしない人もいれば気になる人もいます。
同じ状況でも感じ方が人によって違うのはなぜでしょう?
それは、私たちの感情が、事象や出来事そのものによって、決められるのではなく、私たち個人それぞれが身につけた特有の「ものの見方」や「考え方」、つまり認識の仕方によって決まっているからです。
自分の感じることは"自分自身のもの"であって、相手の感じていることも"相手自身のもの"です。つまり人と人の間には、明確な境界があるということを意味しています。
この「境界」の存在を理解したうえで意識していないと、自分の感情と相手の感情が入り乱れ、自分の感情を相手の感情と錯覚してしまうことが起こります。
境界が認識できないと、たとえば不機嫌そうな上司を見ると気になったり、怒鳴っている上司を見て悪いなあと感じたりするわけです。
しかし、先に話したように、そのこと自体への責任はあっっても、上司の感情は上司個人のものなので責任は終えないのです。
相手からの言語メッセージには返答のしようがあります。しかし非言語メッセージにどう答えたらいいのか、なかなか答えにくいものです。明らかに怒っている場合には、「ミスして申し訳ありません」と謝ることはできます。問題は言葉にして謝っても、相手が態度を変えない場合です。
この場合も、気にすることはないのです。
何度も言いますが、相手の感情は相手のものなので、こちらが気にすることではありません。
■それでもすっきりしない場合、どうしたらいいのか
この問題について、どうしたらいいのか、念入りにご説明したいと思います、
それでも気になる場合、いったいどんな問題が潜んでいるのか。
コミュニケーションは言語だけでなく、表情や態度も含めて行っていて、言いにくいと感じたことほど非言語なメッセージでコミュニケーションすることが多いものです。
そこで、あなたが責任を感じるべきか、そうでないかの判断をどうすればいいのか。
もしあなたが相手から揺れ動く感情を感じた場合、その場に居合わせた者として、相手の不機嫌や怒りを引き起こす刺激を与えたかもしれませんが、感情は相手自身が自分で生み出しているのです。感情は相手のものであって、どのように感じるかは相手次第です。
あなたがコントロールできることではないのです。
同じように自分の感情について、相手に責任を求めることはできないのです。
この説明で分かっていただくと、問題は解決します。
しかし、実際には、分かったようで、実はなかなか理解されないようです。
頭では理解出来るけれど、身体の芯の部分で、ストーンと腑に落ちるところまでいかない。
腑に落ちない理由は、実際には感情はコントロールできるという体験から抜けられないからです。
赤ん坊が泣いているとき、親は懸命にあやします。大人になってもこの関係を再現していることはありませんか。
再現は、カップルに多く見受けられますね。親しい関係には「再現」を多く発見できます。
こどもと親の関係は文字通り、一心同体です。体外に出たときから、ゆっくり時間をかけて分離していきます。
親とは身体も意識も感情も全く別な人になることを目標にしているのが子育てです。
親しい関係が間違いを起こしやすいのは幼児返りに親近感を感じてしまうからです。それには理由があります。
人間には親の心、大人の心、子供の心の三つがあって、状況で使い分けながらコミュニケーションしています。
子供の心には、無邪気な子供と、従順な子供があります。
楽しいコミュニケーションは、無邪気な子供の心を使っているときです。
両者が同じように、無邪気な子供の心を使ってコミュニケーションしているときは互いに楽しいはずです。
しかし片方が、従順な子供の心を使っている場合は、状況は変わります。そこには上下関係、強者と弱者の関係が生じます。
親がこどもの感情をなだめようとする場合、強者が弱者を守ろうとしていますが、従順な子供の心を使って相手の感情を変えようとする場合は、弱者が強者を守ろうと働くことになります。
これは歪んだ人間関係です。歪んだ人間関係では相手の価値の値引きが起こっていて、人権の無視が働いています。
日本では、昔から「親しき仲にも礼儀あり」と戒めてきました。
親しい関係では、悪気がない、甘えを根拠にして、人権の無視が起こりやすいのです。
つまり強者が、幼児体験において十分甘えたらなかった不満から、身近な相手との間で無邪気な関係を再現したいと感情的な交流を求めてしまうのです。
しかし、大人ですので赤ん坊のように甘えるわけにはいきません。 そこでプンプン、ツンツンしたりで、自分の気持ちをなだめるのはあなたの責任だと非言語でメッセージしてくるのです。先に話したように自分の責任範囲でないと割り切れない人の場合にはたまらなく居心地が悪くなるのです。
このようなメッセージを適切に処理できない側にも問題があります。
やはり甘えたい欲求が満たされていない同じ穴のムジナだからです。
相手の感情を処理することに躍起になるのは、実は自分が温かい交流という見返りを求めているからです。
これがピシャとはまって迎合してしまうと「共依存」の関係になります。行き着くところは共倒れです。
互いに甘え合う関係が、自立が基本の大人社会のシステムに適合することはあり得ないからです。
ですから対策は、相手の感情を自分がどのように受け止めようが、相手の感情に反応しないということしかないのです。
しかし私は、その注文は酷だと思います。感情を受け止めてしまう以上、気にするなというのはハードルが高いからです。
そこで私は、「相手の感情に注目して、自分がなにをするかを考え行動する」ことをおすすめしています。
こう言うと、「アレっ、相手の感情を気にするなと言ったばかりじゃないか」て思われるかも知れません。
実は、問題の核心は、相手の感情でなく、自分の感情の処理の仕方にあるのです。
どういうことかと言うと、相手の感情を気にして行動するのではなく、相手の感情を気にした結果、自分が感情的になって自分の感情に注目して反応していることなのです。
つまり実際には、相手の感情に過度に反応した自分の感情に注目した結果、相手の行動を変えさせようとしているのです。
なぜなら見返り(メリット)を求めているからです。 相手の行動を変えさせてどんな見返りがあるのでしょうか?
実はそこにはほとんどの人が、自分でも気がついていない自分の人生を左右している重大な問題が潜んでいます。
■共依存に観る危険なメリット(見返り)
共依存の関係には、その問題がはっきり浮かび上がってみることができます。
同時に、共依存が破滅的な関係なのは、この点にあります。
どっぷり感情世界に浸って、当事者にも周囲にも、仲がよく見えたり感じたりしているけれど、実際には相手を観ているわけではなく、両者とも自分の感情に埋没して行動が起こらない関係だからです。
行動が起こらないのは、行動しないことが安心だと認識しているからです。つまり彼らは自分の感情世界に浸って安心という見返りを得ているのです。それが刹那的なものであっても、いまこの瞬間、安心ならいいわけです。ですから感情世界に浸っていることができなくなれば、その共依存の関係は破綻し、また別な共依存の関係を渡り歩くことをします。
大人社会のシステムに暮らしていて、行動が必要に届かなければ破滅しますが、それでも止まらないのは、行動しない心地よさ(実は本人の思い込みですが)が、安心をも上回っているからです。
見返りの仕組みを共依存という分かりやすい事例でお話しましたが、一般にこの見返りの仕組みは、もっと巧妙に行われていて判りにくくなっています。
■すがすがしい自分を求めて
健全な関係は、「相手の感情に注目して、自分がどのような行動をとれるか」に注目します。
これは本来の親子の関係と同じです。強者が弱者を守る関係です。サポートする思いやりの関係です。ホスピタリティです。
間違った関係は、(相手の感情に注目するように見えますが、実は)「自分の感情に注目して、相手がどのような行動をとるか」に注目します。ですから自発的な行動が起こりません。自分が思うことを話せないというのもこの部類に含まれます。
境界が曖昧になっているわけですが、曖昧になるのはメリットがあるからです。メリットは無難、安心、心地よいなど様々です。
ご質問のなかの「どうすればすっきりした形で仕事ができるようになるでしょうか。」という部分は、この問題なのです。
メリットと相手の不機嫌とセットになっているのがおもしろくないのです。
しかし相手の不機嫌が気になるのは、境界の乱れです。自分の感情と相手の感情が混ざり合って混乱しているのです。
「相手の感情に注目して、自分がどのような行動をとれるか」に注目した場合には、自発的な行動になります。
相手の感情に注目するけれど、相手に反応するのではなく、自分が自分の意志で行動するのです。自分の行動の責任は自分が引き受ける状態です。この状態には「境界」があります。
■主語は誰か
自分の行動の責任は自分が引き受ける状態にあると、主語が「わたし」になります。自分に主体性があるからです。境界があります。
自分の感情に注目して相手の行動を考えると、主語は「相手」になります。相手に従属しているからです。
「相手」を主語にした話し方をする時には、 境界がありません。
どんな場合も自分の行動は自分が選択して行動するしかできません。にもかかわらず相手が主語になるのは、相手に従属していることを意味します。
なぜ従属するのか、自分にも意識できない見返り(メリット)を期待しているからです。
自分でも意識できない見返りを求めている状態とは、主体性を失った依存によって得られるメリットであることを考えると、そのやり方はやめたほうがいいと忠告しておきます。
■アサーティブ
ある状況を肯定的に認識する人もいれば、否定的に認識する人もいます。
つまり、私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、自分のあるがままで世界を見ていることを意味します。
それは、認識の仕方が現実的で柔軟であればあるほど、他者とのコミュニケーションはアサーティブになりやすいことを意味します、
アサーティブの知識があっても、考え方が現実的でなく硬直化していると、アサーティブなコミュニケーションは困難です。IQ
よりもライフスキルが大事という意味もここにあります。
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