すばらしい成績をとってきたこどもをほめたいのは親なら当然。
ところが、それが意外にも「励まし」になりません。
ビジネスの社会でも同じことが言えます。
叱りすぎ、厳しすぎないかと懸念する。
ほめることへの注目を奨励する。ほめたときの喜びの表情、叱った時の悲しい表情。
明らかに違う表情を思い浮かべると、ほめる効用がないわけではありません。
ところがそこに落とし穴があります。
物事にはぞれ自体に意味があるわけではありません。
意味を与えているのは自分です。
ですから、ほめることも、なにを基準に置くかで意味は変わります。
親の目から見た表情、こどもの瞬間の感情。
その場限りの気休めでいいのなら、ほめことで自己満足もできます。
しかし、子育てが、成人後しっかりやっていける自律できる力、コミュニケーショ
ン・スキルを育む、自立させることを優先しているなら、そういうわけにはいきま
せん。
実は、こどもにしたら、ほめられるのも、叱られるのも、本質的には同じだからで
す。
ほめることには、次の2点がつきまといます。
・上から目線であること
・人格の評価であること
ほめることには、常に人格の優劣が潜んでいます。
ですから、こどもが親をほめることはありません。
冗談のように、こどもが親をほめる光景がありますが、その場合、甘えているように映ります。優劣の立場が変わらないからです。
「ほめる→ほめられる」関係は、暗黙のうちに「対等でない」というメッセージを相手に投げかけています。
ほめられたいという感情が、結局「依存心」を強めてしまい「自立」を阻害して、自分をコントロールできる力を弱めてしまうのです。
ところが、ほめた、ほめられた、互いの気持ち良さのせいで、気づかないのです。
間違って乱用すれば、病的なまでに閉鎖的な関係を作ることに発展します。
では、いい成績、いいことしたとき、どうしたらいいのでしょうか?
それは上位にある人が、相手の行動と自分の気持ちを率直に伝えることです。
「あなたが100点とってくれたらので、お母さんは安心したわよ。」
もっといいのは、
「あなたが毎日○○時間勉強しているから、100点とれたのよ、おかげでお母さんも安心できてうれしいわ。」
こういう話し方では、お互いの関係は対等です。
しかも、こどもは、毎日○○時間勉強を続けたらいい成績がとれる。
・いい成績をとるとお母さんが安心してくれる
・お母さんが安心してくれたら、自分は気持ちがいい。
・自分を気持ちよくするために、勉強しよう。
というように「因果関係」を知ると同時に「動機づけ」られます。
しかし、上から目線の「100点とったんだね、よくがんばった。」では、ほめられるためにがんばろうと依存心を強めても、因果関係が分かりづらく、特に「毎日○○時間勉強しているから、100点とれた」という結果を作った原因には触れていません。
実は、こどもが一番知ってほしいのは、結果そのもの以上に、結果にたどり着くためのプロセスなのです。
こどもは100点をとったことをほめてほしいと思います。
その理由は、「100点がとれた秘密」を知ってもらうことなのです。
昆虫を採集した・・・結果そのものではなく、結果にたどりつくための冒険こそ知ってほしいのです。
どれだけ頑張ったか、そのプロセスこそが「お手柄」なのです。
一番真っ先に知ってほしい相手、喜んでほしい相手に秘密のプロセスを知ってもらいたいのです。
お母さんも同じです。いろいろ苦労した結果、おいしい食事を作った。
みんな「おいしい」喜んでくれた。そのとき、知ってほしいのは、どうしておいしく作れたのか、プロセス、つまり「おいしさの秘密」です。
「ほめてほしい」の前には、いつも「喜んでほしい」があり、それは「プロセスで驚かせたい」ということなのです。
つまり、その関係は「対等」であることを意味しています。
いい結果が出なくても、「頑張っているプロセス」の数も量も、「いい結果の数」以上にたくさんあります。
「ほめてあげたほうがいい」と語るその胸中には、もっとスポットライトをあててあげたい思いがあります。
「あなた」でなく、「私」を主語にして「私はこう思う」を話の中心に据える。
アサーティブな会話力で勇気づけをする。
「あなたの失敗が、成功につながったら、私はうれしい」
「あなたが頑張っているのを見たら、私は応援したくなるだけでなく、元気になる」
スポットライトのあて方を工夫すれば、モチベーションアップの機会はもっと増えます。