■あなたにとって「目標」はエネルギーか、爆弾か?
人生の目標と言うと大袈裟に聞こえますが、そこまで言わずとも、当面の目標すら設定できない人がたくさんいます。
あるいは目標を言葉にするのは簡単だ。
「年収1000万円にするぞ。」
それにしても、目標は自分の力になってこそ目標なのです。
じぶん力にならない目標は機能していないと考えるのが正しい。
目標は自分を目標達成地点に誘導するエネルギーであって、ノルマではない。
ノルマと目標をはき違えたまま、目標を設定するから、いつまでも目標に取り組めない。
つまり、目標は自分を走らせるガソリンのようなものですが、ノルマは自爆しかねない危険物なのだ。
目標が重圧になるのは、目的がないからです。
目的がない目標は、目標がエネルギーになっていない証明です。
走るときには必要なガソリンであっても、走っていく先もないのに、ガソリンを保管していたら危険で不安になるしかない。
どこに行きたいのか?目的があってこそ目標はエネルギーになる。
私的生活において、そうなのだから、会社でも、目標は社長のエネルギーになるが、社員には重圧でしかないことが起こります。
会社に出勤はするが、目的もないまま、目標だけ言われても、目標はエネルギーにならない。
だから会社などチームでは、目標を達成するとどんなことがあるのか、目的の共有が重要です。
共有と言っても、原理原則はともかく、従業員の場合、給料をもらうのが目的だから、会社が期待するような目的を持ち合わせていないのが普通です。
そこで目的づくりから始めるのが一般的です。
仕事を通じてなにを得るのか?押しつけても仕方がないので「どうなりたいのか?」「どんな人間になりたいのか?」このへんが目的として普遍的かつ設定しやすい。
それが目標とリンクするところまで落とし込めないと、いつまでたっても目標はエネルギーにならない。
せっかくのエネルギーも、車でも飛行機でも燃料タンクに穴があいていると、エネルギーもれになる。
目標に対する誤解と併せて、穴のあいた状態になる”もうひとつの要因”「感情的行動」、「依存」という障害です。
「目標は気にはなるが、他の問題があって思うようにならない」という状態。
ほとんどの場合、目標を気にできないように、自分が原因を作っていて、怒り、恨み、憎しみがその典型です。個人でも組織でも同じ。
誰かに不満をぶつけて、そのせいにして行動をしない。
それも、いまするべきことから離れる格好の口実になります。
自分では気がつかない分、余計に始末に悪い。
このこじれ現象を解く鍵は「主体性」です。
周囲のせいにすることは簡単です。
しかし、相手の考え、意志は、相手が決めることです。
親子、夫婦であっても他人がいくら考えても、どうにもならないものです。
自分にできることは、自分をしか変えることしかありません。
どんな場合も人は、自分を主体にして、自分にできることをするしかない。
だから、目標がエネルギーになるし、目標をエネルギーにする。
目標を使わなくてもいい生き方、働き方は、依存的になるしかない。
「目標」を積極的に使うことで、自分から主体性(責任ある行動)をはぎとる方法をやめるようにしましょう。
■隠された依存
恋愛をすると他のことが考えられない状態は、アルコールに酔いしれて五感が麻痺した「思うようにならない状態」に酷似しています。
気がかりがあっても、打ち込めない状態という点では同じです。
自分から主体性をはぎとっていることに自分では気がつかないが、「思うことができない状態」が、一番、居心地がいいのです。
自分の感情を使うことで、時間を消費するのは、テレビを観ているのと変わりませ
ん。同じく、誰かへの不満をぶつけている人も、行動をしないのも、いまするべき
ことから離れる格好の口実になります。
感情的になって、これからどうしょうかと「考える」のも同じです。
考えたつもりでも、実際には考えているわけではない。
もちろん、自分自身では、苦しい訳ですから、自分ではため息が出るほどつらい。
でも、その苦しい状態こそ、自分に合っている。
だから自分で苦しい状態を作り出しているのです。
自分に合っていないと苦しい状態を続けない。
やるべきことに取り組むより、それが楽だと思い込んでいるのです。
だから懲りずに続ける。
このような状態は、考えているのではなく、消費にしているに過ぎない。
このトリックに気がつかないまま、一度の人生を終えていく人が多い。
ライフスキル講座は、この悲劇を突破して、自分を活かすことを目的にしています。
■自分に必要なことに、自分を使っているか
本来、考えることは、すぐに成果があるかないかはともかく、生産的なことです。
脳と感情と身体、これを統合したものを心と呼ぶ。
心で考えるとは、心を使ったもので、生産的なものです。
脳だけで、感情だけで、考えたものを「考え」とは呼ばない。
考えているように見えても、意識がバラバラで生産的でない。
ゲンキポリタンの解釈です。
感情的な行動によるアドレナリンが、元気を与えてくれるけれど、目先の一日を過ごすのがやっとで、目的、目標、計画性が乏しい。
本当に必要なこと、自分がすることに自分を使わず、時間も使っていない。
感情的な行動、怒り、憎しみ、恨み、あるいは過度な愛着行動に費やしている時間は膨大です。、
恋愛依存症の場合なら、好きなひとのことを考えていると言えば聞こえはいいが、本当なら時間をもっともっと生産的に使えます。
愛するとは、励ますことですから、彼はいまどう思っていてくれてるのかとやきもきするのは、自分の心配でしかない。はたしてそれを恋愛と呼ぶのかどうか。
恋愛の名を借りた依存でしかないことが少なくない。相手のためにも自分のためにもならない。
だから成就したら終わる。終わってくれないと困るのです。
破綻に走る自分の仕組みが自分では分からない。
■主体性(責任ある行動)をはぎとる生き方をやめる。
自分から主体性をはぎとる要因は、いくらでも探し出せます。
他者のせいにする、他者への不満も同じです。
そもそも相手の考え、意志は、相手が決めることであって、親子、夫婦であっても他人がいくら考えても、どうにもならないものです。
自分にできることは、自分をしか変えることしかありません。
だから主体性をもって、自分のことを考えて、じぶん力をあげていくことをめざすのがいい。
主体性のない依存から、主体性を活かす自立へ、自分が舵を切る。
依存をやめて、自立しようとしたら、最初は大変難しい作業になるかも知れません。
でも自立は思っているよりも断然楽しい、依存ではありえない楽しさに出会える。
自立というと、強い、硬い、自分中心の印象があるけれど、そんなことはありません。
思いやる、支え合う、応援する・・・・自立ならではのぬくもりがある。
それは依存に求めていることですが、依存にこれらはありません。
当人に主体がないから、影を支えるようなものになるので、健全な人には、支える術がない。
出来ないから、空しさと寂しさを味わうだけで、健全な人は、離れて行くしかない。
だから依存を求める人は「健全な人」が苦手だ。
事態は悪くなる一方の仕組みです。
共依存の場合は、思いやってくれ、支えてくれ、応援してくれと互いに求め合うから、共感しているように思う。
両方共に引き受けないけれど、行動の面では、どちらかが従属的になるので引き受けているような錯覚する。
好きな彼のことで頭がいっぱい。他のことが手につかないは、かわいく見えても、実態はそんな甘い話ではない。
しなければいけないことを先送りしてりるだけです。
好きな彼が次々に登場するのは、本当に好きなわけではなく、必要なことの先送り
のために意識を他に集中する道具として「好きな彼」が必要なのです。
魅力的な人はウヨウヨしているのだから、好きな人なんていくらでも出てくる。
自分がすることに取り組む人は、好きな人がいても気にしないようにする。
気にしていたら、自分のことができなくなる。
自然、パートナーはひとりでいいことになる。
不満、不足を言う人も同じで、次々と不満、不足を用意する。
不満、不足なんて探せばいくらでもある。
自分がすることに取り組む人は、不満、不足があっても気にしないようにする。
気にしていたら、自分のことができなくなる。
不満、不足はいくらでも出てくることと割り切る。
先送りするためにトラブルを見つけてくる。どこまでも先送りは続く。
これをやめるには、目標をエネルギーにして取り組む。
できるとか、できないではなく、できるまでやり抜くことに自分を投げ込む。
自分以外に原因を求めない。目標をエネルギーにして行動する。
主体性(責任ある行動)をはぎとる仕組みを壊すには、それが一番なのです。