率直、誠実、対等、自己責任な自己主張、いわゆる「アサーティブ」の背後にあるのがアサーション権です。アサーション権とは、つまり基本的人権のことです。憲法でいう基本的人権を少し角度を変えて説明したものと考えてください。
人間は万能の神ではないので、完璧な人っていないわけですから、失敗や間違いは誰にもあります。つまり人には失敗や間違いをする権利があり、併せて責任を引き受ける権利もあります。
その証拠と言ってはなんですが、会社などでは、責任者になりたい人がたくさんいます。政治家もその典型です、
ただ、政治の世界を見てると分かるように責任者になることと権力者になることを混同している人がいます。アサーション権、基本的人権では、直接ではないけれど、この混同を因果関係でたしなめています。
間違い、失敗をしたとき、”責任をとらされる”と思うのは、ネガティブで受け身です。反対に自ら進んで責任をとりたいと思う人は、ポジティブで自主的です。
それは責任さえとれば、間違っても、失敗してもいいということではなく、間違わないように、失敗しないように、準備を怠りなく、プロセスには細心の注意を払ってやり遂げることで責任がとれる意味が濃くなります。間違わずにやり遂げて責任を果たすよろこびを、自ら主体的に求める人たちがいるのです。
大きく分けて、間違うと責任をとらされると考える人と、間違わずに責任を果たそうとする人の2種類がいるということです。
それはなにがどう違うのか、ざっくり言うと、いまこの瞬間に集中する力を使うスキルの違いといえます。考えても仕方のないことを考えて、いまこの瞬間に集中しないようにするか、ひたすら、ひたむきに、いまこ瞬間に集中して暮らすようにするか。
それは癖、習慣なので、放置しておけば、なかなか変わることはありません。一生、その習慣が変わらないことが多いけれど、主体的に取り組めば習慣だから変えられます。
それができないのは、考えても仕方のないことを考えて暮らすほうが楽だからです。準備したり、プロセスに注目しないで気楽です。気楽さを選択することで失う代償は大きいわけです。
それでも、それも「ダメだ、ダメだ、わたしはダメ人間」だと、錦の御旗のように「ダメ人間の旗」を立てて堂々と気楽の王道を歩めば代償も気にならないという乱暴な暮らし方のできてしまう。「どうせ私はダメ人間だ」と”不幸の先取り”をしておけば失う代償もへっちゃらみたいなところがあって、考えても仕方のないことを考え続ける。
つまり分かりやすくいうなら、化粧をきちんとすれば美しい人でも、そんなわずらわしいことをするなら、どうせ化粧したってミスワールドになれないのだから、パジャマで暮らす方がいいいとルーズを選ぶようなものです。
しかし、こんな調子で自分の人生をドブに捨てるくらいなら、完全でなくていいから、やれることはやった方が楽しいじゃないですか。少しでもたくさん、いまこの瞬間に集中する時間が持てたら幸福だと思います。
振り返って楽しかった思い出といえば、ひたむきに打ち込んんでいたときのことばかり。それが生きるよろこびだと思います。結局、逃げた分だけ痛みになって残っているものです。
考えても仕方のないことに時間を使い切れば、なにも出来ない、出来ないから何も残らないのが人生です。
アサーション権とは、そんなことにしない権利が誰にもあるんだという権利です。
もちろん、考えて仕方のないことを考えて過ごす権利でもあります。自分の人生だから、どっちを選んでもいいです。属している共同体である国にしたら税金だけは払って他の人に迷惑かけないようにしてくれというのがホンネでしょう。
率直、誠実、対等、自己責任を背景にした「アサーティブ」であることのすすめは、自分の生を精一杯生き抜けという点です。それは世界中どこでも、一番美しい姿です。
アサーティブを学ぶ
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