サムシング
SOMETHING
ルックスも、リーゼント、もみあげ、ジャンプスーツも、エルヴィスの記号のどれもこれもが嫌いじゃないけど別に好きでもない。
唯一、ふりしぼるように歌う姿と金ラメスーツ姿が好きで、くり返し繰り返し、ほぼ毎日、聴き続けて。それは何なのかと、ふと思う。「なんか分からんけどいいな」から始まって、いまだに「なんか分からんけどいい」愛ピのエルヴィス物語。
そういうボクのような人間にとって、”レジェンド・イン・コンサート”のような類いはまったくつまらないものに感じてしまう。
それぞれ、そのミュージシャンの記号を頭のてっぺんから足の先まで貼付けて、自分を隠してそっくりそのように動き表現する。しばらくは彼等の芸に見とれるものの、すぐにブラインドされた「自分」が悲しく思える。
お笑いの物真似がおかしく笑えるのは、自分は誰だけど誰のマネをします。というはっきりしたものがあるだけでなく、適度なシニカルが救いになっている。
ミュージカル『エルヴィス・ストーリー』は物真似ではなく、エルヴィス・プレスリーを演じている。似て非なるものだ。演じるのは記号をなぞるというのと違う。
しかし”レジェンド・イン・コンサート”にはそれがない。最後まで誰だったのか分からない。誰と聞かされても分からないが、自分を消し去っているのが虚しい。
その主旨は観客に夢を売っていることに尽きるのだろうが、記号ばかりで文化のないそれは、いい男、いい女、表現者として立派であればあるはど、淋しくなるばかりなのだ。
それは割り切って楽しむべきものなのだろうが、目の前の人間の才能と努力がどこかに向かうわけでもなく、「似てたらなんでもいい」に使い捨てにされているように思えて悲しい。
衣・食・住・性など本能や生命の安全に近いところに文化と呼ばれるものがある。
食べられたらなんでもいい、住めたらどこでもいい、という欲求を少しでも心地よいものにしていく、それが人間の本能であり叡智なのだろう。
食文化とは材料や技術ではなく、その背景にあるもの。グルメ番組の退屈は素材や料理のハウツーに集中して背景にある人間や自然が感じられない。せいぜい伝統がブランドとして背景を飾る程度で見ているこちらが貧しい気分になる。
決して豪華なもの、高価なものを求めるわけではない。質素でいい。しかし質素なほど文化がしっかりしていないと難しいのかも。本当は「なんか分からんけどおいしいな」というのが食の文化なのだと思う。なんか分からんの中に人間と自然が織りなす細やかな思いが印のように込められていて、その集合体が演出となっている。
京料理というものには自然と向かい合って暮らす人の叡智が揺るぎない文化としてあって、少々高価であっても頭を垂れるだけの知性が心を動かす、
一方、巷に溢れる京風料理というものの多くがつまらないのは記号ばかりがならんでいるだけで、文化が乏しいせいか。
16才だった女子が60才の男性と交際していた。
少女は嬉しくて友人に紹介もしたし、こそっと教えたりしたという。
「カッコいいやろ」が彼女の口癖だった。いわゆる援助交際(グロテスクな言葉!)でも、ファーザーコンプレックスでもない、彼女はホントに恋していたのだ。”シンプル・ラブ”、結婚したいと思ったという。高校を卒業して、その後の方向性が定まったら、一緒に暮らしたいと願っていた。
そうする内に「援助交際」という言葉がマスコミで使われだして60才の男性は抵抗を感じた。
「援助交際と思われたらイヤだから、交際をやめよう」と別れを切り出した。
少女だった彼女は「ふられた」と言う。(「ふられた」が素敵だ!)
モテそうな愛らしい風貌と明るい気性の彼女、
その後21才でふさわしい年令の男性と結婚したが、2年で離婚。いまでもあの時60才だった男性が好きだと言う。
本当にカッコよかったのだろう。
小説『青空』(桃谷方子:著、講談社刊)には74才と16才の恋愛が描かれている。
年齢差こそ小説の方が衝撃的だが、内容的には小説の方が現実には届かない。
とんでもないことだと思う。娘を持つ親なら「気持ち悪い」と思うのも無理もない。
しかし少なくとも少女には心地良い場所だったのだ。
現実の世界は何でも起こるということのひとつの事例だ。
だからこそ何事もあきらめてはいけないのだろう。
彼女を惹き付けたのは60才の男性の個人的な文化の素敵だったのだろうと思う。
文化の威力の凄まじさを感じる。
もし「許せない」「気持ち悪い」と思うなら、自分にふさわしい(記号をもつ)相手とつきあえと矛盾を言うのではなく、説く者が自らの文化を見直し、もっと素敵な文化を創るしかないのだ。
映画『闇に響く声』でエルヴィス演じる多感な青年が父親に求めたのも男としての文化だった。
記号で判断するステレオタイプでは文化は築けないし、理解もできない。個人の文化はその個人が創造していくものだ。
Something in the way she moves
Attracts me like no other lover
Something in the way she moves me
I don't want to leave her now
You know I believe and how
Somewhere in her smile she knows
All gotta do is think of her
Something in her style that shows me
I don't want to leave her now
You know I believe and how
You're asking me will our love grow
l don't know I don't know
You stick around and it may show
l don't know I don't know
Something in the way she moves
Attracts me like no other lover
Something in the way she moves me
l don't want to leave her now
You know I believe and how
You're asking me will our iove grow
l don't know I don't know
You stick around and it may show
l don't know I don't know
Something in the way she moves
All I gotta do is think of her
Something in her style that shows me
I don't want to leave her now
You know I believe and how
まだ幼かったエルヴィスは自分の暮らしを気持ちを豊かにするために、ちっちゃな身体で無心に音楽を聴いたのだと思う。
もちろん子供だから豊かにするためになんては考えない。
気持ちがいい状態を本能的にサーチした結果だろう。
自分の日々を少しでもよくするために、自分を守るための行為が重なって重なって、ひとつの文化が創られていったのだろう。
小さい時からエルヴィスは音楽を魔法のように使って、受け入れるしかない現実を受け入れた上で自分に合うように変えたり調整して心地よくする術を身につけた。
慣れ親しんだ生活体験が映画用のつまらない曲も、自分の力で最良に変えようとしてきたのだろう。
ビートルズはそこが違う。
自分たちが好きでないような曲はファンだって聴かないという率直な判断。
そのためには曲だって自分で作るし反発もするし妥協はしない。ジョンとポールがドラマー、ピート・ベストやマネジャー、アラン・ウィリアムスの首を切ったように、ビートルズならトム・パーカーの首を切っていただろう。
客観的に考えて、もし親の立場で子供にどちらを見習うべきかと言うと、多くの親にとってクリエイティブでポジティブなビートルズを選ぶのが妥当だろう。
エルヴィスは落ちこぼれに映るかも知れない。世間ではやさしくいい子だから、ちゃんと評価してあげてというだろう。しかし現実の社会では思うような評価も処遇も手にするのは難しい。
現実を知っていてジョン・レノンは<イマジン>なんて曲を作ってしまう。
イギリスの港町の勉強嫌いの無名の青年が、世界の頂点に昇りつめたからこそ抱けた妄想とも夢ともつかない次なる目標への一歩。
<イマジン>という曲は現実から遠い場所から歌われている曲だが、”どっこいしょ”のひとことがこぼれる。現実を受容しながらも「理想の自分」と世界中の「理想の自分」のネットワークを作ろうという曲だ。
私事になって縮みまするが・・・・某女史が活躍していることでも有名な世界的なボランティア団体、ある年の暮れ、年1回1時間限りの街頭募金活動のために<ダンシング・オールナイト>のヒット曲で知られる、もんたよしのり氏が無料出演してくれることになり、大阪駅前でライブをやることになった。
設備する費用がないというので、成りゆきから貧乏な愛ピが畳の下をほじくり返して壷を探した。おかげで例年のように募金箱を持って街頭で呼びかけなくても、人が集まったが、もんた氏とそのバンドの寒さを吹き飛ばす熱演が終わると、もんた氏自身の呼びかけも虚しく、あっと言う間に何ごともなかったように人々は消えて行った。
平成維新を起こそうと、よい政治家を選んで応援しようという試みも同じく、集まってきた人々は営利目的が主体になってしまい、ストレートな人の熱意も時間も費用もはじいてくじく。
ゴミをひろって歩いても、その後からタバコや空き缶を捨ててくれる。
人は聞いているようで、聞いていない。自分のことを話すだけ、自分の都合にあわせているだけが大半なのだ。
そこで<イマジン>あるいは<明日への願い>などが登場するが、自分の不安がなくならない限り、あり得ないことだから歌になる。
あきらめてはいけないのだ。あきらめてはいけないのだが、募金箱に5円のお金を入れてもらうそんな小さなことすら困難なのだ。現実を受容したら理想の自分を捨てることが容易くなるほど至難の技なのだ。
あきらめ愛ピと違ってジョン・レノンにもエルヴィスにも共通するのは、想像するだけでも困難な目標へ向かって、理想の自分を捨てない精神は同じだと思う。
歩き方は極端に違ったにしても、たったひとりで手の届かない遠くまで歩いたという点で、エルヴィスのそれは社会通念では理解できない、奇跡と呼ぶしかない出来事だ。
ビートルズのように頑張れと教えることはできても、エルヴィスのように頑張れとは教えられない。「どう頑張るの?」って聞かれたら答に窮するしかない。
”主張する”ビートルズの文化に、”受容し変容させる”エルヴィスの文化をぶつけているのが、<ヘイ・ジュード><イエスタデー><サムシング>である。
その意味でこれらは聴き応えのあるナンバーだが、エルヴィスがこれらの曲を歌う時に、「ただ好きだから」という理由では釈然としないものがある。
シナトラをはじめジャズ畑のミュージシャンが歌うのは分かる。
もともとビートルズのサウンドはシックスコードなどジャズっぽいサウンドとフィーリングが特長だ。
逆にカントリー&ゴスペルを土台にしているエルヴィスは、ロック自体前例がない衝撃度も加わり、デビュー当時からMJQで有名なディジー・ガレスビーなどジャズの巨人たちからは好ましく思われなかった。
拒絶の真意はともかく、ロックといってもタイプが違うのだ。
その上、ビートルズ空中分解中のアルバム『アビイ・ロード』の後始末がフィル・スペクターの手でやり遂げられたように、これらの一連の曲にもフィル・スペクターの思想、技術やブライアン・ウィルソンの深遠な『ペット・サウンズ』が影響している。
『ラバーソウル』以降、ビートルズはレコード用、ライブ用をはっきり分けるようになっていた。これらの曲は念入りなスタジオワークから誕生しているもので、エルヴィスの芸術の対極にある。エルヴィスはスタジオまるごと相手に無謀なまでに裸で勝負しているようなものだと言える。
エルヴィスは夢想し描く「理想の自分」を60年代に起こった革新的な音楽シーンの現実に投げ込んで、対極にあるそれを突破し思い通りにしょうとする壮大な試みを行っているように思える。
絶対的な信頼を寄せていた自身の芸術に大量に塗り込まれている自分の文化の尊厳を守るための試みのように思えるのだ。
”受容し変容させる”文化の業か。何にしろ自分の文化にこだわるほどに人は孤独にならざるを得ない。・・・<サムシング>・・・孤独の極みから信頼するしかない自分の文化をハワイから全世界に向けて星の電波に乗せた時、それを他者がどう評価できるのだろうか?
「やるしかないのにそんな簡単なことがわからない奴が多すぎる」と語っていたジョー・ストラマーの声が懐かしい。文化にこだわる者の業であり性であったにしろ、ファンサービスの領域を超えて本能的にエルヴィスはやるしかなかったのではないか。
個人的には念入りなスタジオワークならではの楽しさ、レコーディング技術が駆使された<ヘイ・ジュード><イエスタデー><サムシング>はその性質からして創造主であるビートルズのものが、生一本のエルヴィスで聴くより素敵だと思うけれど、それゆえに痛いくらいに自分を信じて果敢なエルヴィスの歌一本、小細工なしのハートがすべてに「人間っていいなあ」と大喝采を送りたいのだ。
エルヴィス・プレスリーはとってもシャイ。
シャイである程にシャイの裏には現実に屈しないごう慢なほどの自分いる。
そのごう慢なほどの自分こそがポップ・アイコンの笑顔の裏でエルヴィス・プレスリーというビッグ・ネームを支えてきた”奴”なのだ。
人が自ら自分の死を選ぶのは、そこにいる自分と理想の自分との二者択一の結果である。
理想の自分にこだわらなければ死を選ぶほどの苦痛はない。
エルヴィスは現実の自分を受け入れられずに最後まで理想の自分を愛しこだわった人である。
それにしても晩年、『メンフィスより愛をこめて』は混乱と混沌の中でついにエルヴィスがいまどうあるべきかを考えて、本気に一歩踏み込んで、理想の自分を捨てようと思った場所から歌われた曲たちだと思う。
すでに肉体的に朽ちる間際であったにしろ、いまある自分と理想の自分の狭間で、いまある自分を生かすために、憤る理想の自分を押さえつけて、唸るほどに凄まじい摩擦熱から生じるエネルギーと破壊音なのだ。
ボクの脳の中ではブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)の<キャロライン・ノー>がオーバー・ダビングされて、”どうしたんだい、エルヴィス。・・・エルヴィスだめだよ、そんなことしては。”がくり返し唸る。・・・そして犬の鳴き声と列車の音が・・・。
ミステリー・トレインはUターンして帰ってくるから最高に素敵だったのに・・・轟音と共に走り去る列車を見送るハウンド・ドッグの鳴き声だけが途方もなく深い闇に虚ろに残されている。
<サムシング>はジョージ・ハリソンの作品。
ジョージの言葉だ。
「エルヴィスと違って僕たちは四人がいつも一緒だったことが良かった。エルヴィスはひとりだから、いつも可哀想だと思っていたよ。エルヴィスにも仲間はいたけど、エルヴィスはいつもひとりだった。エルヴィスがどんな気持ちでいたのか、誰も分からなかった。ボクたちは何でも一緒に体験できたからね。」
心とらえて離さないのは数々の強い記号の向こうにあるエルヴィス・プレスリーという人の文化のせいなのかも知れない。
ステレオタイプの価値観では測定不能。曲がよくても悪くても、古さを感じさせるパフォーマンスであってもなくても、演奏がどうあれ、構成する要素、記号を超えて、主張せずに受容する傷ついた天使の苦痛の中から、幸福のおまじないを見つけてくる、エルヴィス・プレスリー、ひとりぼっちの天使のために血を流す孤独な悪魔の健気が熱い。
理想と現実の混ざりあう世界に漂う”サムシング”・・・・聴こえない声が聴こえる人でありたい。
彼女のふるまいの中には何かがある
他の恋人には無かった僕を引きつけるものが
僕をつき動かす何かがある
今の僕は彼女から去りたくない
知ってるだろう、僕がいかに信じているかを
彼女の微笑みはそれを知っている
僕に出来ることはただ彼女を想うことだけだと
彼女のやりかたの中にもそれはうかがえる
今の僕は彼女から去りたくない
知ってるだろう、僕がいかに信じているかを
君は僕達の愛は育つだろうかとたずねる
僕は知らない、僕には判らない
待っていてくれれば、いずれ判るだろう
今はまだ僕には判らない
彼女のふるまいの中には未だかつて無かった
何ものかがあるんだ
彼女のやりかたの中には何かがあるんだ
今の僕は彼女から去りたくない
知ってるだろう、僕がいかに信じているかを
君は僕達の愛は育つだろうかとたずねる
僕は知らない、僕には判らない
待っていておくれ、きっと今に判る
でもまだ今の僕には判らない
彼女のものごしの中に何かがあるんだ
彼女のやりかたがそれを僕に教える
今の僕にやれるのは彼女を想うことだけだと
今、僕は彼女を失いたくない
知ってるだろう、僕がいかに信じているかを