「ぼくの宝物だ。」とボブ・ディランは言った。
ボブ・ディランのベストアルバムに、あまり知られていない曲「明日は遠く」が入っている。
知られていない曲がベスト版に収録されるのは異例のこと。この曲についてディランは「この曲はぼくの宝物なんだ。」とコメントしている。
ボブ・ディランがELVISに贈った曲なのだ。ELVISは喜んでアルバムに収録している。ボブはベストアルバムを出すにあたって自ら歌い収録したわけだ。彼の気持ちが伝わってくる話だ。
BlueSuede Shoesという曲は、
ロック魂そのものだ!
well you can do anything but lay off my blue suede shoesロックの黎明期、エルヴィスは「あんたが何をしたって構わない。だけど俺のBlue Suede Shoesは踏まないでくれ」と歌った。この曲がロックンロールとは何かをすべて表現している。
誰もが見たことも聴いたこともないその過激さゆえに悪魔か殺人鬼のように世間から袋叩きにされたメンフィスの貧しい田舎者エルヴィスが当時のライバルで優等生のパットブーンの白で固めたコスチュームに対峙して歌った「ブルー・スエード・シューズ」。
カール・パーキンスのオリジナルだが、当時のELVISの状況を映し出した曲として、ELVISのシンボリックな曲として扱われている。
女性的なカール・パーキンスのオリジナルとは違いELVISは最初からたたみかけるようにイッキに突っ走る。ワイルドだ。
ロック魂がストレートに伝わってくる名曲。ロック魂とは、つぶれそうになりながらも、あるいは潰されそうになりながらも、泣きたい、降参したい、それでも自分の道を貫き通そうとする。追い込まれてもがむしゃらにやる、カッコ悪さではないだろうか?カッコ悪いというのも、第三者に言わせればの話で、実はそう言う本人にやり通す自信がないだけのこと。つまりコンプレックスの裏返しでしかない。ロック魂とはこの裏返ってハスに構えた状態ではなく,もっとストレートでがむしゃらで変化を恐れないことだ。
停滞とアナーキーのはざまに
「ELVISがいなかったら、我々はパティ・ペイジと訣別することはできなかっただろう」という有名な言葉がある。ジョン・レノンは「ELVISがいなかったらビートルズはなかった」と言い、ポール・マッカートニーは「われわれは遂にELVISを超えることができなかった」と言った。
それは先駆者としてのELVISを賞賛する言葉だが、身震いするほど凄いのは、人種差別問題が激化した時代に黒人のフィーリングで歌い、エキセントリックに下半身を動かす独特のアクションで「テレビ時代の始まりのテレビ」に登場したことだ。この状況を想像するだけで、全身にゾーとしたものが走る。
白人と黒人が同じバスに乗ったのはELVISが全米に大ブームを起こした6年後の出来事なのだ。
1896年、アメリカ最高裁が下した「分離すれども平等」という考え方は人種差別待遇は憲法に違反しないと判決を下した。この判決によって白人と黒人が同じバスに乗ったり、学校へ行ったり、レストランで食事したりすることができなかった。1954年に歌手としてELVISが黒人の歌をレコーディングしているがこの年には「ブラウン裁判」が行われる。「ブラウン裁判」とはカンザス州に住む黒人ブラウンは自分の娘を近所の小学校に入れたいと願ったが、白人学校という理由で拒否されたことで、教育委員会を相手どって起こした裁判だ。実際には黒人組織NAACPが白人社会に叩き付けた闘争といえるこの裁判は、最高裁に持ち込まれる。全米が固唾を飲んで注目した判決の行方は、事実上まやかしであった「分離すれども平等」の判決を覆すという歴史的な結果となった。しかしこの判決に不満をもつ白人感情は激しい闘争にエスカレート。KKKの黒人リンチ事件が相次いで発生するようになり、陽気なアメリカ人の暗い影の部分が浮き彫りになる。
1963年8月28日、黒人の公民権運動のために「私には夢がある」と訴え全米の黒人の心をひとつに束ねたマーティン・ルーサー・キング牧師率いる20万人のデモ行進がワシントンで行われる。やがてその抗議は全米で黒人暴動という形で広がっていった。米ソ冷戦、ベトナム、国内外に問題を抱えたまま、3ヶ月後にフロンティアスピリットを訴えたジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件が発生。さらに2年後の65年にハーレムでマルコムX暗殺、その4年後、北アイルランドで公民権運動が起こる。
ロックンロールによって
爆破された壁の向こうに。
1956年に起こったELVISのヒットチャート独占による衝撃は自由なアメリカ社会においても当時は尋常ではなかったのだろう。「白人女子を汚らしい黒人文化で汚すのか」「卑猥で下劣だ」という抗議が相次ぐなか、ELVISのクリスマス・ソングを放送したとしてディスク・ジョッキーがラジオ局から一方的に解雇され裁判沙汰になっている。
1950年代のアメリカは建国以来のピューリタン的なマインドが薄れていくにつれ、価値観に変化が起こりはじめ、社会不安が強まる傾向にあった。既成の倫理のほころびを最も強く感じていたのは若い世代そしてマイノリティだった。
「怒れる若者たち」は存在したものの、今日の若者文化の原形が完成したのは1956年のロックンロールの発火によるものだ。ELVISが持ち込んだ「危ない音」によって爆破された危ない時代の崩れた壁の向こうに、人々が見たこともない世界が存在していた。こうして始まったロックンロール旋風は、若者を大人たちの既成の価値観から、女性を権力の拘束から解放し、黒人音楽のリズムに潜んでいる「乾いた性」を白人社会の抑圧された湿った性に突き付け解放する方向へ押し進める力となる。米英のレコード売上倍増に始まり、ファッション、音楽、セックス、車(バイク)がワンセットになった若者文化の誕生した。
それはまさしく戦後の停滞とアナーキーのはざまに咲いた「ポップカルチャー」誕生の瞬間だった。もともとは経済用語として誕生したティーンエージャーという概念が、一般化する。ティーンエージャーはギルバート・ティーンエイジ・サービスという市場調査会社が15歳〜19歳の市場が経済にあたえる影響力の大きさを1945年に提言した際に使用した造語だった。要するにELVIS以前に「ポップカルチャー」というものは存在しなかったのだ。そしてそのインパクトが世界を駆け巡り、収穫逓増の原理が働くのに多くの時間を必要としなかった。「ELVIS以前には、なにもなかった」「ELVISがアメリ文化を変えた」という伝説が生まれたのはそのためだ。
1958年、デビューから2年、人気絶頂にあったELVISは軍に召集され入隊、ドイツへ派遣される。ELVISの留守中、バディ・ホリー、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセントなどが事故死、ジェリー・リー・ルイス、チャック・ベリーのスキャンダル、リトル・リチャードの引退。一線を飾っていたロックン・ローラーが相次いで消え、ストレートなロックに変わって軽いポップスがヒット・チャートを塗りつぶすようになる。
ポール・アンカ、ニール・セダカ、コニー・フランシス、デル・シャノン。レイ・チャールス、イギリスではクリフ・リチャードが変わって主役となり、メロディーラインの美しい、いわゆる60年代POPS全盛期に入る。日本で最も愛されているPOPSはこの時代のものだ。1960年、ブランクをモノともせず、人気の衰えを知らないままELVISは復帰するがロカビリーからより大きなシンガーへの転身のはじまりとなる。のちにジョン・レノンは「僕はハート・ブレイク・ホテルによってロックに目覚めた。そのELVISは軍隊に殺された」と言っている。
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