■エルヴィス・プレスリーに
「アサーティブ」を聴く
アサーティブの歴史
アメリカ 1896年。当時、白人の乗っているバスに黒人は乗れないようになっていました。
白人と黒人はいろんな場所、住む場所、電車やバスなど交通期間、レストラン、トイレなどで明確に区別されていたのです。
アメリカ最高裁が下した「分離すれども平等」という考え方は、人種差別待遇は憲法に違反しないという判決でした。
「分離すれども平等」とは、白人と黒人を分離して暮らす体裁をとっても、せ別していることにあたらないという解釈です。もちろんまやかしです。
この判決によって白人と黒人が同じバスに乗ったり、学校へ行ったり、レストランで食事したりすることができなかったのです。
1954年には「ブラウン裁判」が行われました。
「ブラウン裁判」とはカンザス州に住む黒人ブラウンは自分の娘を近所の小学校に入れたいと願ったが、白人学校という理由で拒否されたことで、教育委員会を相手どって起こした裁判です。
実際には黒人組織NAACPが白人社会に叩き付けた闘争といえるこの裁判は、最高裁に持ち込まれます。
全米が固唾を飲んで注目した判決の行方は、事実上まやかしであった「分離すれども平等」の判決を覆すという歴史的な結果となります。
しかしこの判決に不満をもつ白人感情は激しい闘争にエスカレートします。
KKKの黒人リンチ事件が相次いで発生するようになり、陽気なアメリカ人の暗い影の部分が浮き彫りになります。
1955 年12月、後に公民権運動の母と呼ばれたローザ・パークスという女性が、アラバマ州モントゴメリーの市バス内で席を移るよう求めた白人男性に敢然と拒否、バス運転手の通報で駆け付けた警官に逮捕され、収監されました。
「もう我慢しない」と決めたローザ・パークスの 事件をきっかけに、当時ほとんど無名だった故キング牧師を中心にして長期間の抗議行動に発展します。
翌58年には、米連邦最高裁が差別は憲法違反とする判断を下しました。
この判決によって一層、白人社会への黒人の対抗が強くなります。
一方、1954年。大衆文化の世界で異変が起こります。黒人音楽であるゴスペルやリズム&ブルースをベースにした白人によるロックンロールが誕生、差別は憲法違反とした1958年には若者を熱狂させました。
その原動力になったのがエルヴィス・プレスリーの登場でした。
白人でありながら黒人のように歌う彼のパフォーマンスは文化を変えるに十分な威力があり、また当時男尊女卑の傾向があり、抑圧されていた女性を解放する動きになりました。
ヒットチャートはエルヴィス・プレスリーの音楽が独占。所属するレコード会社は自社工場では生産をまかなえず他社の工場を借りなければならないほど売れたのです。
その一方で、エルヴィス・プレスリー が歌ったクリスマスレコードをオンエアしたDJが解雇されたり、レコードが焼き尽くされたり、コンサート会場の貸し出し禁止などが相次いで起りました。
しかし既成の価値観がどう拒もうが、世の中は、若者がエルヴィスを求めたように、従来の価値観から変わりはじめていました。
そして、1963年8月28日、ワシントンでは、マーティン・ルーサー・キング牧師が、「私には夢がある」と訴え、全米の黒人の心をひとつに束ね、20万人のデモ行進を展開します。
その公民権運動での抗議は、大きなうねりとなり黒人暴動という形で全米に広がっていきました。
米ソ冷戦、ベトナム、国内外に問題を抱えたまま、3ヶ月後にフロンティアスピリットを訴えたジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件が発生します。さらにキング牧師も暗殺されます。
さらに2年後の65年にハーレムでマルコムX暗殺、その4年後、今度は北アイルランドで公民権運動が起こります。人は平等であるとする精神は全世界に広がっていったのです。
人は誰でも自分らしく生きる権利があるとするアサーティブの考えと行動は、黒人差別に対抗したこの公民権運動にはじまり、やがて女性差別に対抗した1970年代の女性解放運動に引き継がれました。
黒人も白人と同じ権利を持っていいのではないかという主張は、白人を否定するものではなく、互いを肯定的に受け入れる主張です。男女平等も同じです。
黒人あるいは女性が白人や男性より劣っていると決めつけ、能力の値引きを行い、不安にさせ、依存させる仕組み。
お前は自立できないというメッセージとさせないルール=つまり搾取の仕組みを拒否するのは、ある意味、とっても勇気のいることです。
人は誰でも、 誰かに強要されたり、抑圧されることなく、自分を認め、同時に周りの人も認め、自分の考えや
感じ方を率直に表現することが許されています。
自分の将来、ライフスタイル、スケジュール、人間関係を自分自身で決定する能力を持つようにするがアサーティブです。
▲この
ページ のトップへ
死ぬまでに聴きたいエルヴィス・プレスリー100曲とは?
このページはメルマガ死ぬまでに聴きたいエルヴィス・プレスリー100曲でご紹介している楽曲と掲載したものを掲載しています。
よく知られているように、20世紀最高のアーティスト、エルヴィス・プレスリーの生涯は短く激しいものでした。
エルヴィスが、どれだけ愛されていたかはアメリカに行くと実感します。
ショーウィンドウの中心に片隅に、あるいはレストランの壁面には写真が、土産物屋には必ずエルヴィス・グッズがあります。書店にはエルヴィス・プレスリーの本
がたくさん置かれています。
忘れられるどころか、アメリカの伝説としてその存在は光を放ち続けています。
一昨年、友人の家で数日過ごしましたが、時折しも独立記念日で、スタジアムやあちらこちらで、花火が打ち上げられていました。ホームタウンでは各家庭でも家の前で、花火で祝っていました。
アメリカのもっとも素敵な光景のひとつです。
自分が過ごしていた家族の母親が、自分を日本から来た友人だと紹介してくれました。
その時に、 エルヴィス・プレスリーのウェブサイトを運営していることをアナウンスしてくれました。
そしたらどうでしょう!どの家庭でもウチにもエルヴィス・プレスリーのレコードがあると返ってくるではないですか。
そしてレコードを取りに行ってみせてくれました。
それは彼らにとってアメリカのグリーティング・カードのように見えました。
自分の中で、「 エルヴィスよかったね。みんながこんな風にあなかのことを愛しているなんて」と思いましたが、彼らこそそう思ったのかも知れません。
どんな楽曲であれ、表現力、声、人柄が、ひとつになって空間に漂ったときに、エルヴィス・プレスリーの真価が聴こえてきます。
多くはとっても分かりやすい曲ですが、本当になって エルヴィス・プレスリーの魅力を感じようとしたら、エルヴィス・プレスリーの真の魅力は分かりにくいかも知れません。
声の魅力が賞賛されます。エルヴィス・プレスリーのロックンロールは、そのビートのある声なしに成立しないものです。こんなロックンロールは50年を過ぎたいまでもありません。
近年、特に評価の高いバラードも魅力的ですが、ゴスペルであれ、カントリーであれ、なにを歌ってもエルヴィス・プレスリーの音楽は、エルヴィス・プレスリーのものです。
テクニックを用いることをせずに、エルヴィスの心でデザインされ、アレンジしたものばかりです。
なにより際立っている現象は、黒人音楽になるほど白人っぽく聴こえます。カントリーなど伝統的な白人音楽になるほど黒人っぽく聴こえます。つまり模擬がないということです。
この現象は他のビッグ・アーティストに見られない傾向です、
しかしそんなことさえ魅力という店では些細ななことに過ぎません。
人は誰でも、ひとりひとり違います。
ステレオタイプで考える本人その人が、 ステレオタイプの見方では理解できない人という皮肉。
エルヴィス・プレスリーは、どこかでそれを笑っているかも知れません。
生前、その人の人生を知るには他人の靴をはいてみないと分からない。と歌と共にコメントしていました。
人生が私たちに問いかけます。
おまえは人生に対して何をしてくれるのかと。
死ぬまでに聴きたいエルヴィス・プレスリー100曲では、
エルヴィス・プレスリーの楽曲とともに
私たちが獲得するべきものを探ります。