ショットガン・ハウス
メンフィスから車でフリーウェイを走る。途中ナッシュビルへのインターチェンジがある。ノンストップで約3時間、テユペロという町に着く。
エルヴィスが生まれた町だ。ショットガン・ハウスと呼ばれた生家は保存され管理されている。ショットガン・ハウスと言うのは入ったら、すぐ突き抜ける小さな家という意味だ。
小さなELVISが駆け上った階段を通過してドアを開ける。ドアの左手には小さなブランコがある。ドアを開けて部屋に入ると左にベッドがある。寝室だ。そのまま進むとキッチンがあって勝手口のドアを出る。シャワーもトイレもない小さな家。太陽が周りの木々を輝かせている。かって黒人地区の近くにあったこの家の保存状態は素晴らしいが、この家に触れた時、キリストを思い起こすのは私だけだろうか?
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時代の扉を開けた。
アメリカ全土を不況が襲っていた1930年代、1935年1月8日、一卵生双生児として誕生。兄は死産。母グラディスの愛情を受けて育ったものの、3歳の時に父は小切手偽造の罪で投獄される。母親と3歳のエルヴィスは5時間バスに乗り続け刑務所の父に面会に行く。10歳の秋、町のど自慢大会に出場したエルヴィスはマイクにさえ届かない身長ながらも「一緒に暮らした老犬の悲しい物語」の曲を歌い2等賞になる。その褒美も兼ねて1946年の11歳の誕生日にギターをプレゼントされる。貧乏で遊び道具もなかったはずのエルヴィスは手放さなかった。当時、黒人と白人の社会は区別されていたにもかかわらず、貧しかったエルヴィスは黒人の音楽に触れながら育っていく。13歳の時に夜逃げ同然にしてメンフィスに職を求めて引っ越す。
1953年、18才の高校生の時にメンフィスにあるプロ向けのスタジオであるサン・スタジオに母親の誕生日のお祝としてレコードを贈るために録音に行く。(最近理由については異説が出ている)
そこで「マイ・ハッピネス」というバラードを吹き込む。このサン・スタジオの扉を開けた瞬間を小説「スローな、ブギにしてくれ」などで有名な片岡義雄は「このとき、エルヴィスは時代の扉を開けた」と表現している。こんにちサン・スタジオはロックンロール発祥の場所としている。「大人たちの権力から若者を解放し、女性を拘束の籠から解放する」扉を開けたのだ。
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ロカビリーの定義
エルヴィスがヒルベリーを歌うとそれまでになかった「新しい音楽」になってしまった。
曲というより、歌い方の問題だ。エルヴィスの歌い方はマンブリン唱法とヒーカップ唱法と言われているが、マンブリン唱法というのは口籠るような歌い方で、速いテンポでドモッているように歌ったり、低音で語尾をはっきりさせずに歌う。
そのためアメリカ人にも何を言ってるかよく聴き取れないというケースが多い。ヒーカップ唱法というのは逆に声をひっくり返すように高音でしゃくりあげる歌い方で、いずれも「ロカビリー」を定義づける要素となった。
マンブリンとヒーカップの両方を巧みに交互に使い分けながら歌うのが、「ロカビリー」の特長だ。名曲「ビー・バップ・ア・ルーラ」を歌ったフォロアーの代表選手、ジーン・ヴィンセントなどもその典型だ。ロック誕生の一番の謎となるマンブリン唱法はゴスペルから来ているというのが一般的な見解であり、事実黒人の教会へ出入りしていたことを本人が認め、実証もされている。ロカビリーとはヒルベリーとブルースのミックスと定義づけられた。
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身体と魂の越境が、世界を揺すぶった。
片岡義雄著「僕はプレスリーが大好き」の一節に下記のような文章がある。「ブルースがリズム&ブルースにまで進展しながら、その時々の時代の中で白人に受け入れられていく歴史は、白人に真似されていく歴史だった。リトル・リチャードの「Tutti
Frutti」を最も真似しやすい体質を持っていたのが、エルヴィス・プレスリーであり、プレスリーを真似することは誰もできず、バディ・ホリーを真似することはたやすく、ザ・ビートルズだってそれをやっていた。」
ゴスペルやメンフィスのビール・ストリートで演奏されているブルースを通して、彼の身体の中に黒人のフィーリングが宿る。
サンスタジオで見込まれた彼はオーディションを受け、相当な曲数をプレイするが、インパクトはなかったらしい。休憩に入り、エルヴィスが思うままにギターをかき鳴らし、歌い動き跳びはねた瞬間、周りの人は驚いたという。白人のモノでも、黒人のモノでもない音だった。「その危険な音はなんだ!オレたちはこの町から追い出されるぞ」と言ったという。
こうしてELVIS PRESLEYは危ない時代に危険な音を持ち込む。ロックンロールの誕生だ。
彼がその歌い方で歌えば、みんなが胸を騒がせ喜んだ。彼が体を動かせばみんながハラハラ、ドキドキした。貧しさゆえに黒人地区に住むことを余儀なくされた少年ELVISの身体と魂の越境が、世界の核心(魂)を揺すぶったのだ。
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危ない音で好きに歌い突っ走った男
1968年、彼にとってまさしくモンキービジネスだった映画を捨て、音楽にカムバック。当時ロックは「コンセプト・アルバム」の時代へ向かっていた。
コンサートもアルバム・プロモーションの色が強くなる一方だったにもかかわらず、逆に彼はまったくお構い無しに、好きな歌を好きに歌っていくという傾向を強めていく。これはある意味では危険な行為であり、結果的に無節操なイメージを作ったのは事実だ。歌は死ぬ間際まで、凄くなるばかりだったが、コンサートのやり方はひどいもので、乗れば観客が動けなくなるほど長時間歌いまくり、気分が乗らないと30分程度で終わりだったという。
それでも通用したのはTHE KINGであったことと、それこそエルヴィスだったからではないか?歌が好きで、歌さえ歌っていればご機嫌でいられた。離婚などの経験を通して、生活が破綻へ向かっていたことは事実だろう。それをかろうじて支えたのは「歌こそすべて」の生き方だったのではないだろうか?彼の心は最後まで母グラディスからプレゼントされた誕生日のギターにあったと思う。
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悲しみの曲に宿るやさしさ
エルヴィスの歌の凄みは、悲しみのどん底、あるいは不幸のどん底にある曲を歌っても、あたたかみがある。裏切った女を憎む曲を歌う。痛みがに表現されながらも、相手を気にするやさしさが響いてくる。あるいは、これ以上ない不幸にある。それを受けとめ、忍びながらも、希望を捨てない明るさが漂ってくる。
良くも悪くも彼の全身にしみ込んでいるのは、貧しい黒人たちを癒した黒人教会音楽(ゴスペル)だ。数々のミリオンセラーを集めたGOLDEN
RECORDSシリーズも当然素晴らしく、必須アイテムだが、彼を知る上でのベストワン・アルバムは"Amazing
Grece Sacred Peformances"と断言できる。このアルバムにElvis Presleyのすべてがある。
悲しみなかで癒された経験が、人々を癒す力を自然に身につけた。そう、愛はただただ、贈るものなのだ。
THE KING OF ROCK'N' ROLLは時を経て、バラードでその真価を再認識されつつある。
僕はいまでも家庭聖書を大切に持っている
そこにママが挟んだ一本のバラの花びらは
ページの間で押し花になった
まるで隠れ家を見つけたように
ELVIS HAS LEFT THE
BUILDING!
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