悪魔の文法、下心のマンデー/したいことをしないトリックがある
脳と心の違いが切なさに胸キュン。
目的志向・原因志向は人種が違うほど違う
努力と成果の感じ方のズレが不安と孤独を刺激する
PDCA マネジメントサイクルの基本
判っていてできないのはどうして
白か黒かの発想をしない
成長のやり直しをする/ したい生き方に立つ
心をヌードにして蝶のように舞う /気持ちを隠さない
内なるこどもを砂場で遊ばせるように。自分を出す練習をする
数値と状態を目標に持ち、日々優先順位を遵守して行動
悪魔の文法、下心のマンデー
「したいことをしない」トリック
「したいことができない」「したいことをしない」「したいことがわからない」「やらなければならないことをしない」には隠された動機がトリックのように存在しています。
私たちは、この動機によって、生きづらい状態を自ら作っていることに注目したいものです。
生きづらいと感じるのは、したいことをしないことで、元来自分が身につけている力を発揮できないまま成長機会を逸しているからですが、
それは概ねYES、,BUT、IFという単語を間接に使って話されます。
まずYESです。
「そうですね、それはその通りです。そうしたほうがいいと思います。」と、まずは肯定的な反応をしまします。
次にBUTが登場します。
「しかし、現状はいろいろ忙しくて、なかなか時間がとれないんですよ。」
そじてIFの出番です。
「もし、状況が変われば、すぐにでもできるんですが。いまはムリですね。」と最初の肯定的な反応はどこへやら否定的な結論に推移します。 |
否定する理由に正当性があるように語りますが、その背景には概ね他者否定(実は自己否定感から実行を避けるという心理)が働いていますが、状況や人、環境のせいにします。
このようにYES、,BUT、IFを使った 話し方(考え方)をする限り、「したいことをしない」「したいことだできない」「やらなければならないことをしない」状況は変わることがありません。
このようにできない理由を並べて 自分の非力、環境、状況、他人のせいにするのはNG
です、これが習慣化すると行動パターン化してしまい自己実現ができなくなります。
どうしてこういう考え方をするのでしょうか。
「やらなければならない」受け身の場合はある程度仕方のないのは不思議ではありませんが、「したいこと」の場合でも同じ言い回しが起こります。
もし、YES、,BUT、IFを使った考え方をしなければ、実行することになります。
すると、恐怖や不安と向き合うことをイメージすることから率直になれません。
なにが恐怖や不安なのでしょう?
先のことを想像していまよりもひどい状態になるのではないかと想像します。最悪の結果を想像してしまうことが少なくありません。そのため実際にどんなことになるのか客観的な分析もしないので、ますます現実を知らないまま不安だけが募り、なにかにつけてネガティブに考える習慣が身につき繰り返され強化されてしまいます。
先のことを計画するのは大変いいことですが、ネガティブな想像をするのは根拠がありません。
ネガティブな想像とは、考えても仕方のないことです。
考えても仕方のないことを考えてしまうのは、目標、到達すべきゴールがないからです。
ゴールがあれば大変とは思いません、大変の代わりに出てくる言葉は楽しみです。
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脳と心の違いが切なさに胸キュン。
ポジティブとネガティブ /心とは脳と身体と感情
さて、ここが重要な分かれ道になるので、しっかり考えてみましょう。
脳と心は同じようで違います。
しかし心というのは心臓ではありません。実は心も脳ですよね。
では脳と心は同じかというと違いますね。
判りやすくずるために、こういう表現をします。
つまり、考える場合に脳を使い、判っているけどできないというような場合のように、感情に預ける場合のことを仮に心に委ねるというとします。
結論を合理的に求める場合に脳を使いますが、同時に感情も使うことが少なくありません。
感情を使ってしまうのは、同じ脳を使っているからです。
脳と感情の境界は薄く小さなものというようにイメージしてください。
誰しも脳と感情の使い分けが整然とできるわけではありませんが、特に感情処理が苦手なひとは、合理的に考える場合にも、感情を使ってしまい、脳と感情を往来しながら考えることになります。
因に、みなさんもご存知のようにコンピュータのプログラムに感情はありません。
感情的な資質の強い人は、本人にしたら合理的に考えたつもりでも、感情が入り込みやすい。つまり考えても仕方のないことが侵入してきて混乱してくる。
どんどんネガティブな想像をしてしまう。もちろんポジティブな想像をすることもありますが、その場合は根拠を求めるので、合理的に考えるようになります。
しかしネガティブな想像には根拠を必要としません。
ネガティブな「想像」は目の前の現実に対しては起こりません。ただ現実があるのみです。
ですから、どんなときもいまこの瞬間の現実に対して不安になることはありません。
先のことを考えているときに不安は起こります。 不安は、いつの場合も「考えても仕方のないこと」なのです。
先のことを心配するなら、「考えても仕方のないことを考えるのではなく、するべき準備を怠らずに実行するしかありません。つまり計画を立てて行動するしか対策はありません。
できない理由を並べても、対策を計画
して実行するのはOKです。
恐怖は現実に対して起こりますので、先のことを考えているときに起こることはありません。
恐怖への対策はできないので、恐怖の場面が起こることのないように未然に防ぐ計画をして準備をしておくことが対策になります。つまり実行するしかありません。
たとえば、人間は地震が起こらないようにはできませんが、起こったときの対策として、個人レベルなら災害グッズを持ち出しやすいように用意しておくことが実行できます。
つまり「したいことをしない」「したいことだできない」「やらなければならないことをしない」場合に障害になっているのは「不安」です。
感情的な人ほど不安という名の想像が強く邪魔をします。 |
ですから、ゲンキポリタンでは、ことあるごとに、感情的な行動をしないでくださいと繰り返してお話しています。
感情は人間の暮らしを瑞々しくします。 愛情と勇気の源泉ですが、行き過ぎると感情的な行動となります。 現実的で理性的な考えを機能させる脳の働きを止めてしまいます。
人間は現実を生きています。想像の世界を生きることもできますが、この場合は、「精神障害」という判断が下されて、一般の社会生活の上では障害が起こることを意味します。
さて、自らが勝手に想像してつくり出した不安によって「したいことをしない」「したいことだできない」「やらなければならないことをしない」ひとは、どうしたらいいのでしょうか。
自らが勝手に想像してつくり出したことを「妄想」と呼んでいますが、その妄想をやめて計画することです。
考えても仕方のないことを考えるのをやめて、考えても仕方のあることを考える、どうしたらやれるのか、その仕方を考える、つまり計画することです。
因に動物は現実的で妄想はしません。
10分前に食べようとして食べられなかった食べ物のことは考えもしません。
しかし、いま目の前にあるものを食べようと行動したり、後々のために食べ物を隠しておくことはします。
どうしたらいい、どうしたらできるのかと考えて、ゴールに向かって楽しみの内に暮らすのと、考えただけでいやになる、大変、大変の暮らし方の違いはこうして起こってきます。
目標のない暮らしは気楽ですが、その気楽さが自分を狂わせます。
誰にとっても いまこの瞬間しかないという現実を忘れて、自分がつくり出した 妄想に脅えて 自分の力量に見合わない力量以下の次元の暮らし方をするからです。
誰にとっても いまこの瞬間しかない現実に生きている私たちができることは、準備しかありません。
準備とは計画のことで、目標のないところに計画は作りようがありません。
目標がなければ刹那的に生きるしかない。その現実をうまく取り込んでいるのが消費社会なのです。そして先進国とは消費の先取性において標準以上だということに他なりません。
私たちの暮らし方には、 感情から離れて客観期、主体的、理知的に考え行動する暮らし方と、そうでない暮らし方に大別できます。
そして感情的な暮らし方には、感情によって成長の機会を妨害してしまうために、ライフスキルが育まれにくいことからさまざまな依存症の危険が潜んでいます。
言い方を変えるとそのスタイルは、目的志向と原因志向に分類できます。
ただ注意したいのは、なにをめざしているのか、その目的です。目的によって幸福にもなるし不幸にもなります。
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目的志向と原因志向は人種が違うほどに違う
目的志向と原因志向
目的志向は原因志向の対極にある考え方です。
●目的志向・・・いまに立って未来に目を向けています。
●原因志向・・・いまに立って過去に目を向けています。
目的志向というのは、「目的」という未来に向かっていることから「どうすればできるか」をいつも考えています。
人間の行動にはその人の意志が働いて行動していると考えます。
すべての行動は自分の選択なので当人に責任があると考えます。
責任とは別の言い方をすると主体性があるということです。
つまり自分は無力ではなく、自分の人生は自分がコントロールできるという考え方です。
この主体性のある能動的な考え方によって、自分は運命の犠牲者ではなく、運命の開拓者である、真の意味で自由であり、希望を持つことができると定義づけます。
目的志向の人が他者を励まし、モチベーションを引き出せる特質になりえるのは、そのような事情からです。
反して原因志向の人は過去、現在の状況の何かの影響で現在の行動があると考えます。「結果」という過去に注目します。
何らかの原因があって現在の行動があるわけですから、自分は過去や現在の状況の影響を受けた被害者・犠牲者と思い込みます。
主体性はなく運命に翻弄されているようなイメージでとらえ、意識は不足に傾斜し、不平不満が日常化しています。
不平不満を言わないことがモチベーションの高い状態にあると錯覚します。
目的志向が考える「どうすればできるか」とは、作戦を考えるのに似ています。
そして具体的でなければ行動はできないことから、目標にたどりつく具体的なプロセスが重要に考えます。
一方、原因志向は「結果」という過去に注目します。
目的志向の場合、結果はもちろん大事ですが、プロセスを間違えると、目標に辿り着けないことを痛いほど知っていますので、プロセスに強い関心を示します。
また 結果が良くても、プロセスに誤りがあると関連する因果要因にも支障が発生することも懸念しますので、結果オーライとせずに、プロセスにこだわります。プロセスへのこだわりは、いくつかの異質と併せて励ましの技術といえます。
プロセスへの注目は自分の場合も、他者の場合も同じで、この特長は。励ましのできる人の際立った態度のひとつです。
励ましのできない人が抽象的、結果重視であるのと正反対の態度です。
これは励ましのできる人が未来に向かった目的志向であるのに対して、励ましが苦手な人が過去を向いた原因志向であることと関係しています。
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努力と成果の感じ方のズレが
不安と孤独を刺激する
なぜ、ひとは報われないと思い込んで
努力を止めてしまうのか
次のグラフは、累積努力と累積成果を示した「努力の感じ方と現実の成果のズレ」です。
ここに報われないと思い込んで努力を止めてしまうのか、その理由が見えます。
不安が孤独感を強めて安易な興奮、つまり消費や娯楽、あるいは依存へ誘います。
不安、孤独感 この2つは人間から勇気を奪う悪魔のささやきのようなものです。
努力から感じる成果と実際の成果で結ばれた範囲がギャップで、努力と成果のギャップの大きさが分かります。
誰しも結果が気になり、早く求めますが、努力をしても思うような成果がでない期間があります。
結果が出ていないと誰でも不安になるものですが、我慢する力が弱いと成果を感じない苛立ちから努力をやめてしまいます。
モチベーションを引きだせる人なら、努力に比較して成果がついていかない期間に共感を示します。
結果はプロセス次第、プロセスをしっかりしていくことが大切だと知っているので、親の心からの厳しさとやさしさの視線で自分や周りの人を支えます。
結果だけを注目している原因志向の人とプロセス重視の目的志向の人はここで違いが生じます。
どうしたらいいのかを考えて、手を打っている目的志向の人は、原因志向の人より、配慮が細部にまで及ぶので、気になるポイントが増えます。
配慮が細部にまで及ぶのと、細部にこだわるのは似ているので注意が必要です。
大局から観ているのが細部にまで配慮を行き届かせるひと、細部にこだわるのが自分の価値観、論理に固執しているひとです。
前者が森を見て木を見ているひと、後者が木を見て森を見ずのひと。
それほどの違いがあります。
目的志向のひとは注目するポイントが多い分、準備もフォローも量的に増えるので、すぐにはできないという認識から、ロスを防ぐ重要性も認識します。
ロスを防ぐために用意周到さが増し、自分や回りの人に対して粘り強く接するようになります。
難易度を感じるほどにマネジメントする意識が高まり、マネジメントに力を入れるのが必然となります。
取り組むほどにいろんな要素が相互依存の形で入り組んでいるのが分かるようになってきます。
分かるほどに、すぐに目標に到達できないことを知ることから、貴重な資源である時間のロスが気なり、同時にプロセスをコツコツ歩むことの大切さ、何でもなさそうな小さなひとつひとつを確実に仕上げる重要さが分かるので、共感する力が身についていきます。
そこで励ます機会が増え、質的にも深まりますが、それは必然であり自然です。
思うようにならず苛立つことが少なくなり、逆に思うようにするための準備、励ますことが増えます。
ロスへの怖れが強まると念入りな先手先手の行動が増えるのです。
ロスを減らすためには、確実さを求めますので、PLAN〜DO〜CHECK〜ACTIONの循環速度が早くなりCHECKを機会に最適な行動を求め続けます。
行動の質を低下させる阻害要因を取除き、取り組みやすい配慮を怠りなく実行します。
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PDCA
〜マネジメントサイクルの基本
PLAN(計画)→DO(実行)→CHECK(反省)→ACTION(対策)
PLAN (計画) |
目標を明確にして、現状を把握、打ち手を明確にする |
DO (実行) |
意欲を最大にして、刻一刻の変化に対応し続ける |
CHECK(反省) |
検証して新事実を発見、選択肢の柔軟性と明確化をキープ資源の発見と明確化
|
ACTION(対策) |
意志の確認、意欲の最大化、 |
行動が積極的になり自律性を増します。
目的志向ならではのセンス、反応の仕方、行動がはっきりと出ます。
没頭しているので無意識ですが、自分自身がマネジメントそのものになった感覚です。
プロセスのひとこま、ひとこますべてを自分が動かしているので、プロセスのすべてが自分の手のなかにあり、手の中から誕生したことだと実感します。
目標に向かって徹頭徹尾やり抜く無邪気はこどもの心から発散された遊び心いっぱいが正体です。
人間には親の心、大人の心、こどもの心という三つの心、三つの私があると言われますが、自分の内なる自我から発散される三つの私がそれぞれ適役を得ることで、統合した状態で活躍できるので、楽しくて仕方がない状況が身近に表れます。
「大人の心」とは理性的な心です。
「親の心」「こどもの心」は愛情が絡んでいますが、大人の心は冷静で客観的なのが特長。社会生活を営む上で欠かせません。 聴き上手、目的志向、大局を観る、など重要なスキルの基礎になる心です。
目的志向のプロセスでうまれる「どうすればできるのか?」というパズル解きに没頭している至福の瞬間は、仕事に自分を合わせたことで得られた幸福かつ自然体の自分です。
抽象的、結果重視の原因志向のひととはかなり違った結果になります。
それは、原因志向のひとがどうかということではなく、スタートが違うためプロセスが全部変わってしまうことで生じる違いなのです。
自分と他者の境界がはっきりしていることと、自分と他者への信頼と尊重があります。
いまは力不足であっても、意識して経験を積めばできるようになる。 それには
● プロセスに注意深く関心をはらう、
● モチベーションが低下しないようにサポートとトレーニングをする。
● 行動することで自分への信頼が高まり、自信が行動を変える。
● 同じことでも、否定的な意見は言わず、必ず建設的な意見を述べる
自分で自分のやる気を引き出すときにも、あてはまります。
したいことに取り組まない人は、ことごとく、この反対をしているので、モチベーションも高まりにくい、あるいは継続しにくいものです。
その一方で叱咤激励するので疲労感が高くなります。
モチベーションを高めるとは、主体性をもっとも自分の手許に引き寄せる作業で、自分で自分自身を勇気づけられるようにして自律性を身につけることです。
自分も誰かの役に立てるのだと思うのは、期待が自分に向けられた状態で、自分の勇気づけになります。
期待を膨らます、膨らませた期待をつないでいく、気を抜くと萎んでしまう。膨らましたものを持続する日々とは、目標をもって、毎日同じ時間に、同じことを繰り返していくことで、間違いなく「自分への信頼」は高めることができます。
そのために、したいことに専念できる毎日の数時間を自らの工夫でつくり出すようにします。
その一方で、社会には次々とニュースなことが用意され「自分へのごほうび」などなど、売るために考え抜かれたコピーが待ち受けています。
無用な消費への誘導に惑わされて真実を手放したせずに、自分(あるいは部下や周りの人)への好奇心をもっともっと高めたい。
それを支えるのは親の心・・・誰にとっても求めてやまない懐かしいものであり、母のやさしさと父の厳しさなのです。
たとえばイチロー選手が300本安打を達成したときに、「小さなことの積み重ねの結果」だと語っていました。
とるに足らないような、いまこの瞬間の小さなことが大記録につながったことに触れていて感動的でしたが、誰にとっても、いまこの瞬間しかありません。
その現実をありもしない妄想による不安でねじ曲げて、いまこの瞬間を想像に費やしているのが、YES、,BUT、IFという単語を繰り返し繰り返し使い回して「したいことをしない」「したいことだできない」「やらなければならないことをしない」ひとなのです。
その動機とは、不安という想像をねつ造し続ける本人なのです。
めざすゴールがあるイチロー選手にとって そのプロセスの苦労は楽しみであり、大変ではありません、
できないことに注目して、それができるようになることを楽しみにできるひとと、
できないことに注目して大変だと思うひとがいます。
大変だと思うことが多いのなら、発想の転換をするようにしてください。
それができない方は、プロセスでできたことに注目するようにして自信が深まれば失敗に対する考え方を変えるようにしたいものです。
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判っていてもできないのは、どうして?
自分の価値を値引きするひと、しないひと
自分の感情、欲求に気がついていないことがありますが、もうひとつ大きな課題があります。
それは「体験しない」からです。
できるようになるには体験するしかありません。やりたいことは自分の責任で実行します
。
体験することを嫌う理由がはっきりあるわけでないにしても、避けてしまっているのには理由があります。
間違い=失敗=自分にはできないという勘違いの方程式を無意識に身につけているのです。
間違い=問題発見=自分にできるようになる機会という方程式とは、まったく反対の発想をしています。
だから間違いを拒むひとは、間違いを失敗と見なし、さらに失敗=敗退をイメージします。
一方、違いを気にしない目的志向のひとは、うまくできるように近づいたと考えます。
間違いや失敗を学習の機会ととらえるのです。
ゴールがあることでプロセスは楽しみになります。感じ方の問題ですが目標を達成したい意欲が高いほど、大変と感じることはありません。だからあきらめない。それが自然な行為になります。
あきらめないのは、あきらめたくないからです。
プロセスの諸問題を気にしないひとは、成功のプロセスの一場面に立ったことを意識します。 この気持ちが目的志向なのです。
このとき彼らは脳を犬のように現実的に使います。
一方、 間違いにダメージを受けたひとは、脳を使わずに感情を使います。
動物が使わない感情を使うので、非常に人間的ともいえます。しかしこの場面で感情的あるいは感傷的になっては元も子もありません。現実を見つめるようにしたいものです。
自分を値引きしない。他者に対しても同じく値引きをしないので他人にも同じ。
ひとの能力を絶対に値引きしない姿勢こそ、もっとも人間的な愛情に満ちた態度、行動と言えるはずです。
この場面で、これこそが愛情あるアプローチであることはお判りいただけるはずです。
そこで、ひとの能力を絶対に値引きしないと決めたら「やり直し」が起こってきます。
できるまでやるという態度が起こってきます。
この状態が「決めたことは責任をとる」責任を引き受ける状態です。
できるまでやるには、どうしたらいいか。
「いまこの瞬間の小さなとるにたらないことに集中する」その瞬間を黙々と重ねて行く。できるまで脳と身体を使う。
ゴールデンルールに掲げている「できるまでやる」も、「決めたことは責任をとる」も同じと言えば同じですが、当事者の意識は違います。
「できるまでやる」には成就をあきらめない態度があり、ことが自分に及ぼす影響に対峙した状態があります。
「決めたことは責任をとる」には、自分の役割へのこだわりがあり、自分が現実に及ぼす影響と向かい合った態度があります。
理想と現実はいつも違うものですが、イチロー選手が語るように壁は自分が作る、つまり理想は自分が作っているからです。
目標設定がなかなかできないひとに、実は眩い光がさしているのは、その壁を自分が作っていることです。自分には行きたい場所があり、そこまで行きたいと思っている。
素直に向かって行けないのは、間違いが怖い。ダメージを受けると思っているからですが、別に間違ってもいいんだと飲み込むことができれば、気楽になるものです。
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白か黒かの発想をしない
非現実的な間違った社会観・人間観
世の中で起こるさまざまなことは、そのほとんどが「白か黒か」で判断するものでありません。
だからこそ、勝負事としてスポーツが楽しまれたりします。
白か黒かの世界は一般の社会からすれば特殊な世界であると認識するのが妥当ではないでしょうか。
できるまでやろとしない、責任を果たそうとしないのは、「白か黒か」の発想が邪魔をしていたり、これまで説明したことができない状態なのです。
YES、,BUT、IFの単語を並べて文章を作り、逃げ回っていることで体験から学ぶことをしないことで、心ここにあらずを繰り返しているために、いつまでも自信が身につかないのです。
たとえば政治家や企業人に間違いがあると、すぐにマスコミは、いつ辞任するのですか、はやく辞めろコールを起こしますが、責任をもって解決しろというアプローチがあると、「間違い」に対する意識も変わるかも知れません。
わたしたちは、間違いに対して石にかじりついてでも、正しくやり直すようにしたいものです。
そうすると、自分の四苦八苦の経験、プロセスを通して人をみる力が身についていくと思います。
自分にもできたのだから、他のひともできるはず。これが謙虚さだと思います。
体験により「自己肯定・他者肯定(自分はOK、他者もOK)」の構えが強まります。そこから「自己肯定・他者肯定(自分はOK、他者もOK)」が自然に形になって実行できるようになります。
「自己肯定・他者肯定(自分はOK、他者もOK)」が育まれないと、自己否定という劣等感から無意味に競争的になる傾向を強めてしまいます。
すると結果ばかりに注目して、ますますプロセスに学ぶことができず、他者の失敗を喜び、併せて自分の失敗に不安を抱くようになってしまいます。
結局、コミュニケーションスキルが育まれません。
逆にコミュニケーションスキルを伸ばすには、どんどん間違いも体験して、どうすればやり遂げられるかを考え計画し、繰り返し繰り返し挑み、四苦八苦のプロセスを通して、目的を達成する経験を踏むことが大切なのです。
こころを込めてと言いますが、感情を自分が思うままにコントロールして、脳と身体をいまこの瞬間に投入している状態が、実は心を使った状態だと思います。 |
この状態が人間の最高の幸福の状態ではないかと思います。
心と身体は別々のものではなく、つながっています。だから自分の気持ちを率直に表現していたら、身体も快調です。身体は正直です。気持ちがよくないといくら頭で否定しても身体に表れます。
つまり脳と身体を感情を使ってマネジメントする。
「マネジメント」は「〜状態にする」という意味です。つまり自分の思うような状態にする。
感情が乱れていたら思うような状態になるはずがない。 |
でも、いまこの循環に集中している状態とは 、一般人の尺度では気楽な状態とは言いがたい。第三者が観察すれば、それはむしろ緊張した状態です。
でも当の本人には、なにもかも一体となった状態、すべてが統合された状態で、ただただ行動しているのみ、つまり禅でいう無の状態です。
寝食忘れてといいますが、その状態です。本当のところ、自分をいかす最適の状態で、じぶん力の安定を感じます。しかもこれ以上気楽な状態はない。
私たちは一般にこの状態になれていないので、先入観が邪魔をしてキツい状態を考えますが、本当は落ち着いて静かな状態です。
しかし自らが何度も壁を創造しては乗り越えて来たイチロー選手をはじめ優秀なスポーツ選手が、集中できる環境を大切にしていることを、口々に語っていることからも判るように、違う感じ方をしているひとがたくさんいます。
それはどうしてできるのか、あるいはできないのか?
脳と身体が感情を使ってマネジメントしているからです。
その三位一体のマネジメントを支えているのがライフスキルなのです。
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わたしはいま、なにをしたらいいのか。
つまりは成長のしなおしを実行すること。
やれると判っていたら取り組む?
そうは言ってもやれると判っていたら取り組むのが心情でしょう。
心情は理解できても、それが自分のために好ましい行動かといえば、そういうわけにもいかない。
いまこの瞬間に我を忘れて熱中することがないからです。
それは幸せな状態ではない。達成しても成就しても喜びがない。
そんなストイックなことはごめんだとする価値観があっても、それもOKです。
なにを幸福とするかは自身が定めることだからです。
ただひとは共同体に暮らしていて、そこには、それぞれにかけかげのない人生のあること。
だれもそれを踏みにじることは許されない、憲法で定められた約束を忘れないようにしたいものです。自分の幸福になる権利もその約束の上でのことです。
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「したい生き方をする」立場に立つ。
したいことをする立場に立つ。そのときにどんな気分になるのか、気分を味わうことも大切です、
ひとの顔色を伺いながら育って来たひとには、自分の気持ちを優先して暮らすことは、あり得ないように感じることがあるかも知れません。
しかし、それは当然の権利なのです。ただ忘れていけいないのは、自分もそうなら他者もそうだということです。自分と周囲の人を尊重し励ます土壌はそこにあります。
自分がしたいことをしない立場にいると、周囲の人に競争的になります。
比較する必要もないのに、無力感を抑え込むために、勝手に比較する。
すると自分の欲求にそって暮らすより、消費社会のアプローチにそって暮らすようになります。自分の欲求が判らないからです。
ライフスキルのひとつ、自己認識スキルは自己表現するうえで重要な役割を担いますので、自己認識スキルの向上を意識しましょう。
まず自分の欲求に傾聴する習慣を身につけましょう。
聴くではなく傾聴のレベルで、自分の欲求に耳を傾けます。自分の感情が判らないことがあっても不思議ではありません。
他者が感じていること、考えていること、なにをしたいのか。あるいは他者が自分になにを期待しているのか。
それを考えるよりも先に、自分がなにをどう感じて、何を考えているのか、そしてどうしたいのか。
それらを自分が認識すること。 それを優先して知ることが自分の暮らしのすべてのはじまりです。
他者の 期待に応えるのではなく、自分を応援する。これが目標設定スキルの基礎になります。
目標設定ができないひとは、いかなる理由があるにしろ、自分の欲求に関心が乏しいのです。
自分の欲求を確実にとらえるために、感情的にならないようにします。
感情的になるなというのと、自分の感情を大切にするというのは相反することではありません。
自分の感情を大切にするために、感情的にならないようにすすめています。
感情的になるひとの特質があります。 日頃から自分の感情表現を抑圧しているひとです。
感情は流れる水のようなものです。
停滞することなく、清流の流れのように表現されていると感情もサラッとしているものです。
それを抑圧すると不満がくすぶるように停滞してドロッとしてきます。
感情的な行動とは、このドロッとした不満を場違いにいきなり相手にぶつけるようなものなのです。
すると、 また別の問題を引き起こしてしまいます。
ひととひとの間にある境界の侵犯をやってしまいます。これに対して相手は不快感を持ちます。
重要なことであればあるほど、なんらかの感情がつきまとうものです。にもかかわrず感情表現を抑えるとはと自己表現を抑えることに他ならなりません。
自己表現を的確にしていれば、感情の停滞もありません、
自分の感情は、自分で判っていると思いがちですが、実はそうではなく、自分でも判らないもので、それは表現されなかった自己表現が混在しているからです。
自分が意識できる自分とは氷山の一角でしかない。
このために怒りが込み上げたり、不安になっても、本当はなにが原因で、そうなっているのか自分でも判らなくなります。
感情的な行動の危険は、この混在した感情の暴発です。
だから自分の意見や要望が相手に伝わらなくなります。
相手が判るのは怒っていたということだけで、用件と照らし合わせてみれば、それが怒るようなことかと、滑稽に思えたりすることになります。
結局、その人格や見識に疑問視されるだけという無惨な結果になるだけです。 |
コミュニケーションとは、違う価値観や意見のやりとりですので、もともと思うように伝わらないものです。自分が言いたいことを話すだけ、判って当たり前の一方的な態度、判ってほしい願望だけでは、成り立たないもので、相手に届けることを意識していないコミュニケーションはすでにコミュニケーションではないのです。
自分の気持ちを知る、感情を自分が知る、それを相手に伝える。積極的に自分を知るように積極的に相手のことも知るようにする。これがコミュニケーションの基礎なのです。
基礎をしっかりするには、自分の気持ちを隠さないことです。
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心をヌードにして、ダンスのように舞う
つらい気持ちを隠さない
WHO(世界保健機構)では、つらい気持ちや孤独感からアルコールやドラッグなどに手を出して自分と自分の周囲を破壊していることに警鐘を鳴らしてしますが、その背景にはつらい気持ちほど隠そうとする傾向があります。
自分の感情を伝える場合には相手が喜ぶようなことを伝えようとするひとがいますが、それも含めて、つらい気持ちほど率直に伝えてもいいのです。
(身につけるべき技術です!)
ところが感情的になってはそれができません。皮肉なことに感情を知ってほしい切実さを持っているひとほど感情的な行動をとります。
感情的になっているとき、自分では感情を伝えているつもりです。
それが相手に伝わる手段だと思い込んでいますが、それは技術的に単に未熟なだけでしかなく伝わることはありません。
感情的な行動で伝えられることとは、なにかしら怒っている、なにかしら悲しんでいる。感情的な行動で伝えられるのは、その程度です。
みなさんも経験があるように、なぜ怒っているのだろうかと気にするものの、境界を侵犯された不快感があるため、怒っている相手のことを思うより、自分の不快感を拭うことに集中します。
感情的になったときに気にかけてくれるのは、子を想う気持ちの強い親ぐらいであって、そこには親子の依存関係があります。
成人した他人同士の間で、同じようなことをするとは、相手に親のようにふるまうことを求めるわけですから、依存的な関係を強要していることに他なりません。健康な精神をもった成人には堪え難い要求としか映りません。
感情はその人の内から生まれたものなので、感情を伝えるとは、そのひと自身を知ってもらいたい、理解してもらいたい切実さがあるものです。
ところが先に触れたように感情的な行動は感情だけが相手に届き、そのひとそのものは届きません。失望感だけが残り、ドロドロした感情はよりドロドロするだけで、自己否定、他者否定の構えを強化してしまうだけです。
本当にお酒が好きなひとは自分に適度に飲みますが、依存症のひとは酒に溺れます。
それと同じことが起こると思ってください。
アルコール依存症のひとの暮らしがアルコールによって落ち着きがなくなるのに似て、頻繁に感情的になると甘えと依存、虚勢など感情に混乱が連鎖して発生してきます。
自分の気持ちを知る、感情を自分が知る、それを相手に伝える。
同じように相手の気持ちを知る、相手の感情を理解する、受けとめる。
辛い気持ちは互いに隠さない、積極的に知ろうという態度がコミュニケーションには欠くことができません。
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内なるこどもを砂場で遊ばせるように。
自分を出す練習をする
どんどんディベートしょう。
意見が違うと、もぷそれ以上話し合わないひとが増えていますが、これではコミュニケーションの断絶です。
その一方で意見の合うひととは仲良くすることになりますが、やはりこれもコミュニケーションの断絶を深めているのです。
当たり障りのない携帯メールでのやりとりは、コミュニケーションとはほど遠いものなのです。
意見や価値観の違いを発見して、どうして違うのかを探ることで、自己認識を深め、自分と周囲の人を認める。
このトレーニングにより、 他者をコントロール(操る)することを防止します。
日本の学校のように先生が一方的に話し、それを記憶する学習方法は、自分の感じたこと、考えたこと、それらをまとめて意見として伝える。一連の作業を’繰り返し練習する機会を失います。
相手が親兄弟、子どもでも、恋人でも夫婦でも、 上司や部下でも同じように、意見交換することを習慣化しましよう。体験を通して、いかなる選択も自分自身が行っていることを自覚しましょう。
自分を知り、相手を知る体験の機会は日常に用意されています。成長が目覚ましい国であるインドでは学校でも積極的にディベートが行われています。
自分の感情、考え、意見などを伝えることを日頃からしていないと、周囲の都合で行動していることが増えて、自分の行動は自分の選択である意識が育たないものpです。自分のアイデンティティをしっかり掌握することもできません。
ディベートで気をつけたいのは、同じことでも、否定的な意見は言わず、必ず建設的な意見を述べるようにします。
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数値と状態、両方を目標に持ち
日々、優先順位を遵守して行動する
目標達成の原理原則
目標は数値化したものを持つこと。そして状態も目標として明確にします。
数値目標だけを達成したらいいではなく、状態の目標を持つことは取り組み方、働き方、学び方を課題にすることになります。
数値目標は達成したら終わりの場合がありますが、状態の目標があることで、「品質」を問題視することになり、次への飛躍が残ります。一過性のがんばりで終わらないのです。
目標達成のコツは計画にあります。
まず 期限がはっきりしていて、期限内にやり遂げるために、達成に必要なことを効率よく順番にこなしていくスケジョール。日本には昔から一里塚という言葉がありますが、同じ意味の映画がマイルストーンです。こちらは1マイルに1つの石を目印にします。
全行程をこまかく区切った小さな目標をこなしていきます。これによって具体的な計画が立案でき、修正も容易になります。
計画の実行は毎日に落とし込みますが、その際、もっとも重要なのは「優先順位」の設定と実行です。
なにごとも行動が起こって実現可能になりますが、1日を周囲の動きに臨機応変にあわせていては、本来するべきことにあてる時間が失われます。それを防ぐには目標達成に必要なことをたくさんできる時間配分が必要です。必要なこと以外はしない」を原則に優先順位を決めます、
思うような結果がでない場合にはまず、
優先順位を見直して、適切な順位にして実行するようにします。
思い切って、目標を設定する→計画を策定する→優先順位を決めて毎日実行→どうすればできるか、試行錯誤を積極的に→努力と成果のアンバランスを気にしない→あきらめない→このセンスを身につける→結果は必ずついてくる→センスが磨かれ自分が変わる=この方向性を示し導いているのがゴールデンルール
とマイプロジェクト