【 4】やりがい 幸福・フロー・楽しみと快楽
■幸福
たとえばあなたにとって、次の内のどれが幸せな時間ですか?
・成功、完成までに時間がかかるけれど、達成感のあることに打ち込んでいる。
・温泉やディズニーランドに行って遊ぶ。
・アルコール・ギャンブル・異性関係・仕事など自分を忘れられることに熱中する。
大きく分けると時間の使い方はわずか3つで片付いてしまうのではないでしょうか?
・楽しみ
・快楽
・依存
幸せは待っていてもやって来ません。
だからと言って能動的に動いたからと言って幸福になるものではありません。
衣食足りて、その先にどのような充足を求めるかで、人生の輝きは変わるといえます。
「幸せ」って、豪華な衣服や貴金属に囲まれた暮らし、美しいリゾートで過ごす日々、あるいは周囲の人々に賞賛されて暮らすみたいなイメージがあると思いますが、このような感覚を追い求め過ぎるために、自分を混乱させているのが、先進国それに続く繁栄を享受する国に共通した問題といえます。
つまり幸福をどう定義するか、どんな物差し使って測るのかで変わってきます。
また不幸をどう定義づけるのか。
アルコールをはじめ、依存に使うものも溢れています。
仕事のように奨励されているものでさえ、ワーカーホリック(仕事中毒)のような例もあります。あるいは愛情さえも我を忘れるために使われます。
自己効力感の発達に背を向けた依存による忘我の境地は、自分の力を使わず、自分の脳と感情と身体(=心)を殺す方法ですが、幸福と不幸の境界は認識できているでしょうか。
自己効力感を身につけるのは、自己肯定感を高めることを目的にしていますが、それだけではありません。
目標に到達する能力に対する自分の感覚である「自己効力感」と、自分自身の価値に対する感覚を表現している「自己肯定感」の間にある「いまこの瞬間に集中する」感覚であるフローがもたらす状態は、禅で言う「只管打坐(しかんたざ)」ひたすら、いまこの瞬間に打ち込んでいる状態のことです。
■フロー(Flow
)
フロー(英語:Flow )とは、忘我の境地のこと、いましていることに完全に浸って精力的に集中、我を忘れてのめり込んでいる状態です。
しかし、それは依存によるニセ忘我の境地とは、全く反対の状態です。依存では自我は消去できません。むしろ自我だけが働いている。
フローによる忘我の境地では完全に自我が除去されていて行動だけがあります。
重なった意識と行動の連続は、生命力が漲ったプロセスになって、さらに自身の意識と行動が時間と完全にひとつに溶け合って一点に向かっている空間を形成します。
「フロー(Flow )」は、シカゴ大学で20年以上研究してきたハンガリー出身のアメリカ心理学者ミハイ・チクセントミハイ(1934〜)によって提唱されました。
スポーツの世界ではゾーン(ZONE)と呼んでいて、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが研究していた「ピーク・エクスペリエンス」に通じてます。
「ピーク・エクスペリエンス」は日本語に訳すと「至高体験」「絶頂体験」とも訳されます。たとえばスポーツの世界でのプレーに集中することでファインプレーがうまれるとその空間全体が熱中します。その全体の高揚感を受けて絶頂感のなかで自分も対戦相手も観客も意識から外れてしまう状態です。
わたしは仕事中に頭のなかからスタートした一本のトンネルが、いま立っている場所を貫いていて、それを追う視線の先にある出口に眩い輝く黄金の光を見ました。それは、それまで解けなかった謎がすべて解けた瞬間で、歓喜の快感は味わったことのない至高体験でした。それは誰にでも体験可能なことであると知ったとき、快感は増しました。
同じような体験は数多く聞く事ができます。
イルカと泳いだひとやサーファーになかには、味わったことのない自然との一体感に自我を消去して至高体験をした人が数多くいます。
野球選手には、自分が思うように打てたときに、ボールが止まってみえた、グランドに誰もいないように思えたと話す人がいます。それは限界を突破した状態で「○○開眼」と表現されたりする悟りの境地にも通じています。
フローは、仕事、学術的な研究からロッククライミング、セックスのエクスタシーまで、あらゆる分野で起こります、
それは内的な高まりからしか得られません。
しかも才能の限界内で起こる事で、それは繰り返し繰り返し葛藤した体験に支えられいて、無意識であっても内面に蓄積された情報や体験の範囲でしか起こりません。
「火のないところに煙は立たぬ」なのです。
人間が意識できる意識は氷山の一角といいます。無意識が大半ですが、無意識ゆえに自分の意識を秩序正しく整理できないことを意味しています。
いくら考えても解けなかった問題がある日突然、思いがけずに思わない場所で解けたというような経験はありませんか。
それは、繰り返し繰り返し葛藤した体験があってこその成果なのです。繰り返し繰り返しの反復によって無意識の内に脳は活動しているのです。
つまり解っていても(できるけれど)、解る可能性(できる可能性)はあるけれど、整理されないので思うようにいかないということがたくさんあります。
あるいはいま一歩不足があるためにうまくいかない、しかしナニが不足しているのか、整理出来ないのでそれが分からないということがあります。
反復は無意識に秩序を与えるのです。
この力を活かそうと、考えても考えても分からないときには眠ってしまうというのも手段だとアドバイスする人がいます。眠っている間も脳は考えるからです。
しかし料理するにはそれに見合う材料が必要なのと同じで、眠っている間も脳が考えるほど繰り返して考えておくことが前提条件です。
「フロー(Flow )」はリラックスした状態で起こります。反復を何度も繰り返したことは無意識に行動できるので、あれこれ考えたり心配したりすることもありません。
ですから、いまはうまく行ってる、この状態を維持したいと考える事自体が、意識と行動が乖離(かいり)を意味しますので、フローは起こりません。
逆に、不安に追いつめられて、意識を集中しても、やはりフローは起こりません。
たとえば、毎日8時間レジーを叩く人と、初めて叩く人では緊張感が違います。反復によってリラックスした状態を可能にしています。
何度も何度も繰り返して考えたけれど、分からなかったことが、毎日乗る通勤電車の中で、考えてもいない瞬間に急に解けたというのも、繰り返しとリラックスのバランスから生じた恵みです。
感情さえも考えや意識と統合して、注意力のすべてを目標にぴったり照準を合わせた感覚。目標がどれほど動こうが注意力は外れることはありません。
脳と感情と身体(=心)が一体になった、この状態こそ自分を完璧にコントロールできた状態です。
つまり自分探しで見つける自分、あるがままの自分とはこの状態と言えます。
では、どのようにしてフローの状態に持って行くのか、あるいはどのようにしてリラックスを獲得するのか。
このフローの状態、禅の究極である「いまこの瞬間に集中した忘我の状態」に、自分を持っていく力こそライフスキルの最高レベルの発現です。
■仕事と休息の関係
内からほとばしるようなやりがいと、達成したいと思う意欲。我を忘れていまこの瞬間に打ち込んでいる状態で占めた日々。
どのようにすればフローに満ちた状態は作ることができるでしょうか。
「楽しかった。終わってホッとして疲れが出た」
2009年、WBCの侍ジャパンの選手たちが口々に語った言葉をどう思いますか?
あなたは遊びに行ったとき「楽しかった。終わって疲れが出た」とは、言ったり聞いたりすると思いますが、「ホッとした」とはなかなか言わないと思います。
WBCの記者会見で聞く事ができた言葉に、一般に見られる矛盾した内面に対するヒントがあります。
仕事をしている時に最も積極的な経験をしていると話す人はたくさんいます。その体験を「やりがいがある」という人がたくさんいます。
このようなコメントからは、モチベーションの高さや「働くことを望んでいる」ことを感じ取れます。その一方で気持ちよく働いている時でさえ、「働いていない時の方が楽しい」と言います。
しかし、やっとの思いで得た余暇を楽しんでいる時でさえ、たいして楽しくないと答える人が多いのも事実です。「時間をつぶす」「ブラブラしている」と答える事も少なくない。にもかかわらず、さらに多くの余暇を求めます。
人は、仕事と余暇のどちらにより強いやりがい、生き甲斐、充実感を感じるのでしょうか?
給料は払うから会社に出てこなくていい。と命じた会社がありました。
最初は喜んでいましたが、やがて退屈に音をあげて、出社させてくださいと頼み込んできたと言います。
挑戦水準と能力水準の両方が一定基準を満たさないとやりがい、生き甲斐は感じられないことははっきりしています。
労働に関する多くのデータの集計の必然で発見できる明確な結論が一つあります。
仕事に関して、一般に人々は自分が味わった生の感覚を認識していないという事実です。
一般に人々は自分の体験を度外視して一般に深く根強く浸透している定説、仕事とは義務、束縛、自由の侵害であるというステレオタイプな価値観に基づく思い込みに支配され続けています。
そのために仕事は避けるべきものと認識して、生きる手段のために仕方なしにやっている意識が強いのです。
しかし、一日の重要な時間が苦役(?)に占領されていることは惨めなので、やりがいを発見しょう。そういう人の方が人間的にもレベルが上だと思うことも少なくありません。それでも、ステレオタイプの価値観に支配されていて、余暇を求め続けることはやめようとしません。
この前提によって、仕事の体験に感動ややりがいを感じているにもかかわらず、その意味と価値を値引きしてしまう傾向があります。
自分を値引きしたことで生じた空白を補うかのように、消費、快楽、嗜癖に無為な時間をあてがいます。
ここで奇妙なことが発見できます。
意識的にもポジティブであったはずの、それなりにやりがいもあった仕事の体験が、最終的には大変ネガティブな体験に置き換えられている奇妙です。
誰かが強いたものでなく自分の選択であったにもかかわらずです。
自分を客観的に観る能力があれば、「仕事は義務、束縛、自由の侵害である」との思い込みに支配されている事実も発見できます。
それでも「余暇」の視点から反論する人がいます。
思っていた以上に(緊張が)楽しいかったと語ったWBCのプレーヤーたちでさえも、おそらくそうであろうと想像するが、人は年中、高い水準の挑戦に立ち向かえるわけではない。確かに強い緊張は心身を蝕み心は折れてしまい身体は病に負けるだろうと考えることもできます。
休息を楽しんでいない状態であったにしても、疲労回復が必要であり、時には、毎日数時間はゴロゴロとテレビを見ながら過ごすことも欠かせないとも思える。
おもしろい事例があります。
イチロー選手は球場入りする前の自由時間に日本国内で放送されたドラマ「白い巨塔」を何度も繰り返して鑑賞しているそうです。これはゴロゴロとテレビを観て過ごしているように見えるけれど果たしてそうだろうか。多くの方は、この時間も野球という仕事に専念している状態を想定するだろうし、この逸話を語ったイチローもそれを言いたかったに違いがありません。
彼が心と脳と身体を一体化するために、自分の挑戦を最優先するために、余計な刺激を可能な限り排除していると考えるのが妥当です。
挑戦とは、チャンレンジです。アメリカ人が大好きな言葉、フロンティア・スピリットと同じことです。自分の可能性を開いていくことです。
この自分の挑戦を最優先したいがためのリラックスタイムなのです。瞑想タイムという方が適切かも知れません。つまり人生を最大に楽しみたいから毎日何度も観たテレビドラマを鑑賞しているのです。
この態度だけを見ていると、一般には真逆で、驚きに映りますが、「休息を楽しんでいない状態であったにしても、疲労回復が必要である」という意見に対する「正解」を発見ができます。
つまり一般に多く見受けられる事実は、「休息を楽しんでいない状態であっても、疲労をさらに蓄積している」というものなのです。
そこで仕事と自由時間あるいは余暇という問題とは別にもうひとつの問題が浮上します。
「楽しみ」をどう定義づけるかと言う問題です。
「楽しみ」の混乱を整理するために、ここでは「楽しみ」と「快楽」に分類します。
■楽しみと快楽
「楽しみ」とはなにかを知る上で欠かせないのが、積極的に仕事に取り組み、高い挑戦をする人々が、自由時間を使って創作活動に挑戦しているという事実です。
仕事中に他のことをしたいとは考えず、仕事の後も身体を休めることなく、自由時間を積極的な余暇活動に充てるという暮らし方をしている人が多数います。
その一方で多くの人々にみられる余暇を求め続けながらも、実際には自由時間に無関心である理由が身体的または精神的に疲労しているからではないという事実。
つまり、楽しみという言葉は同じですが、楽しみの定義、意味、解釈が違うのです。
この混乱から、「休息を楽しんでいない状態であったにしても、疲労をさらに蓄積している」という、「仕事するくらいなら何もしないほうがマシだ」という奇妙なことが無意識の内に平然と行われているのです。
この態度には明らかに「働くことで自分の時間が搾取されている」という思い込みがあります。
では、楽しみとはなにか、楽しみは自分の能力を越える体験による感動であると言えます。快楽とは自分の能力とは関係のない体験による感動であると言えます。
たとえば野球体験には、自分がプレーヤーの役割をする野球体験と自分が観客も役割をする野球体験があります。
楽しみとは、自分の能力を越える体験ですので、プレーヤーとして参加することです、
快楽は、自分の能力とは関係のない体験ですので、観客でいいのです。
楽しみは一夜漬けでは得られる性質のものではなく、快楽はディズニーランドのゲートを通り抜ければ別世界のように、瞬時に得ることができるものと言えます。
この区分けができていないために、自由時間の使い方を間違えてしまう人が続出します。
人は一般に職場を離れて家庭に帰ることを切望しますが、やっとの思いで得た自由時間で何をすべきかについては何の考えももたないことがあまりにも多いのです。
そこで楽しみの実際は、想像と違って自由時間のときよりも、仕事をしているときの方が断然多いという現実に直面します。
地位(ポスト)はそれに比例します。責任を持たない立場、能力の水準より低い課題を与えられた人、さらにフィードバックがないほど、つまり粗末に扱われる程、自由時間も快楽傾向が強まります。
その点について「仕事」と「自由時間」の両面から、それを分析する必要があります。