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【 4】やりがい 仕事・自由時間
■仕事
まず仕事です。
問題の多くは仕事との関わり方、とくに仕事の目標の認識の仕方にあります。
意志に反して仕事に注意を投入していると感じると、心理的に自分のエネルギーは浪費しているように感じます。これは地位の高い人がくだらないテレビ番組を鑑賞することを強要されたのと同じです。
仕事に無関心な人は、仕事は個人的な自分の目標達成に役立つものではなく、他者の目標を実現するために求められているにすぎないと感じています。そのために仕事で心と脳と身体が統合された熱中が感じられなくなります。
そこで個人の能力が原因なのか、職場環境が原因なのかという問題が浮上します。
それは次のような問題になって表れます。
・熱中できない
・職場の人間関係
・プレッシャー、ストレスが多すぎる
第一は、「熱中できない」問題です。
個人的な能力の水準より低い課題しか与えられていない場合、熱中する時間は見られなくなります。
たとえば単純な反復作業を主とする低レベルの仕事に携わる人々にとって熱中の不足は問題となります。
第二は、「職場での人間関係」とくに上司との摩擦です。
第三は、「プレッシャーやストレスが多すぎること」
自分でものを考えたり、家族とともに過ごすための時間が少なすぎることも問題になります。
これは高い地位にある人々、杜長などを悩ます要因になります。
これら環境の問題を解決する糸口は、実は思うほど難しいものではありません。
環境の問題というと、規定などに注目しがちであるけれど、究極的には、実際の仕事の条件よりも、その人の仕事に対する姿勢に関わっています。
つまり個人の能力の問題というところに帰結します。しかしそれで終わってしまえば身も蓋もない。
正しくは、その個人の体験を通して、その個人の姿勢を変えるようにする。環境の問題はそれによって解決します。
ですから第一の問題は個人が挑戦する課題を設定することで状況に意味を与えることができますが、無理な場合は周囲が挑戦する課題を作る事で対応できます。
このことは他の不満の原因についてもあてはまります。
では、熱中するために、どのように挑戦課題を用意すればいいのか。▼第一の問題/熱中できない
熱中する条件にはモチベーションの要因が深く関っていますが、自己イメージが障壁になっていることに疑いの余地はありません。
私たちは現状、限界に対して挑戦による突破をイメージしますが、自分の限界を意識することは可能なのでしょうか。
挑戦には飛躍のイメージがあります。一方私たちが「限界」と呼んでいるものは、越えられない枠の中にいる自分を連想しますが、本当は、単なる技術や知識の不足、不備、故障などの方がぴったりします。なぜなら枠を具体的に語ることはほとんどできないからです。
たとえば引っ込み思案という枠を破れといっても、実態は表現や態度の改善に他なりません。
挑戦とは、姿勢であって、もっと本質的なものととらえるほうが妥当です。まだ知らない事がたくさんあり、可能性もたくさんある。そういう未知の可能性への挑戦、そのための学習、教育への率直な反応が必要です。
例をあげれば黒船の到来がそうです。
鎖国日本にあって、黒船の存在によって世界の広さ、異文化の違いを知りました。黒船ショックによって、熱病のように異国のことを知りたいと日本中に知的好奇心が自発的に芽生えた瞬間です。
教育とは、挑戦とは、それほどの違いを知る事がスタートです。自分を過去の枠組みに閉じ込めたままの挑戦などないと思うのです。
個人的な能力の水準より低い課題しか与えられていない場合、熱中する時間は見られなくなるというのは、自分を過去の枠組みに閉じ込めたままだからです。いままでやってきたこと、考えて来たことをそのまま絶対視して、挑戦は起こりません。
挑戦を考えるときに、理想を求めることを怖がってはいけないのです。
▼第二の問題/職場での人間関係
職場での仲間や監督者と調子を合わせてやっていくのは難しいものですが、目的を持ってやる気になればうまく処理できるのが普通です。
仕事のうえでの摩擦は、面子を失う恐れから自分を守ろうとする気持ちによることが多い。自分自身の存在を証明するために、他者が自分をどのように扱うべきかについてこだわって、他者がこれらの目標を満たすことを強く期待します。
しかし自分と同じように他者もまた、こだわりを持っているので思い通りにはいかない。
この袋小路を避ける最良の方法は、上役や同僚の目標達成を助けながら、自分の目標を達成する挑戦を設定することです。
この分かりやすい例が、イチロー選手だと言えます。
彼は非常に沈着冷静、客観的に判断する能力の高い人ですが、その側面がこの点では、典型的に表出しています。
マリナーズというチームに心ならずも不満を持ちながらも、自分の個人目標にこだわり抜く事で、チーム全体のモチベーション、業績の両面においてチームワークに貢献しています。
これは他者に何が起ころうと自分の関心を満足させようとして猪突猛進するのに比べて遠回りであり、時問もかかるやり方ですが、長い目でみればそれが失敗することはほとんどありません。
強打者で実績はチーム内で突出しているけれど、周囲のスキルやモチベーションが低く、そのために「自分のモチベーションが下がる」と不満を強調したり、勝てない原因を周囲のせいにする、あるいは自分の心情を露骨にアプールするというやり方。つまり問題はなにも解決しないやり方とは正反対の態度なのです。
やはり、ここでも個人の仕事に対する姿勢が解決になっています。▼第三の問題/プレッシャーやストレスが多すぎること
第三の問題にしても、ストレスや圧迫感は仕事に関する最も主観的な問題ですから、ストレスは本人がそれをストレスとして経験する時だけに存在しています。
ストレスとは誰にとってもストレスではなく、同じ程度のストレス、圧力でも、ある人を意気消沈させものであっても、他の人には歓迎すべき挑戦材料にも変わります。
しかもストレスを解消するには無数の方法があります。
ある場合は、目標達成の計画策定や、仕事仲間や監督者とのより良いコミュニケーションを考えることであり、他の場合は仕事以外のことがら、つまり家庭生活や余暇の改善、または自分の内的訓練を行うこともできます。
これらの解決法のそれぞれが有効ですが、仕事のストレスに立ち向かう真の解答は、ストレスを「経験全体の質を改善するための一般的戦略」の一つと考えることです。
心理的エネルギーを動員し、それを自分が作りあげた目標に集中させ続ける努力が含まれています。
この良い事例が、2009年、侍ジャパンを率いた原監督でなかったでしょうか。
原監督が選手を集めて最初に言った言葉、「今後なにがあってもネガティブな表現はしないことを約束してほしい」は、実は自分との誓約でなかったかと思ってしまいます。
やはり他の問題と同じく、ここでも個人の仕事に対する姿勢が解決になります。
仕事の目標の認識の仕方を体験を通じて学んで行くことが、一般に深く根強く浸透している定説、仕事とは義務、束縛、自由の侵害である、ステレオタイプな価値観に基づく思い込みに支配から解放される手段です。
特に、熱中の不足が生じている人たち、個人的な能力の水準より低い課題しか与えられていないことによって、どうしても意欲がないと見えてしまう人たち、仕事すればするほど、自分が損失が生じていると思い込んでいる人たち、そのために自由時間さえも刹那的に消費している人たち。
この層に、能力の水準より高い課題を与え、フィードバックすることで成果の認識をさせてあげることが生きる意欲を高めるうえでも重要なのです。
挑戦水準と能力水準の両方が一定基準を満たさないとやりがいは生まれない、その一定基準が高くあがるほど、人は幸福を自分の手元に引き寄せて、自分の居場所を強く実感します。取り戻すべきは、人生の主役は自分だという感覚です。
それは「働くことは自分の時間を搾取されている」という思い込みから解放されることから始まります。
仕事のやりがいは、脳と感情と身体(=心)を一体にした没頭にあります。そしてナニをしたかより、何のためにしたのか、その意味が没頭をさらに輝きを与えます。
その理解を深めるために、次に自由時間についてお話します。
■自由時間
ここでは自由時間を楽しみの時間と考えます。
WBCと同じように、仕事はルールに目標が組み込まれているのが一般です。
しかも、フィードバック、挑戦があり、それらのすべてを仕事のプロセスに投入し、集中し、我を忘れるように仕向けられています。緊張度は目標の高さとプロセスの極め込まさに比例して強くなります。
一方、自由時間は仕事のように構造化されていないのがほとんどで、楽しめるようにするには、仕事よりもはるかに多くの努力を要します。
能力を必要とする趣味、目標と限界を設定する習慣、個人的な興味、とくに内的なトレーニングは、余暇をあるべき姿にして、自分を再構築するのに役立ちます。
しかし、人々は、仕事時間に楽しむ以上に余暇を十分に楽しむことができないのが普通です。
私たちは自分が作曲する代わりに、死んだ後にも百万長者であり続けるミュージシャンが吹き込んだヒットしたCDを聴きます。
美術作品を制作する代わりに、競売で最高値をつけた絵を鑑賞に行きます。
自分の信念を実現する危険を冒さずに、冒険を演技する俳優を見ることに毎日時間を費やします。
一時的であっても、このような代理者を通した参加でも、一時的には浪費された時間に対して抱く空白感を覆い隠すことができます。
しかし、それは、実際の挑戦に向けられる注意力からすれば、極端に儚い代用物でしかありません。だから儚さを認識できたなら、実際の挑戦の方が楽しいのではないかと考えることもできます。
ところが多くの人は、儚さよりも空白感に注目してしまい受動的な娯楽を選んでしまいます。これは孤独感から発展する恋愛感情に通じます。
能力を発揮する必要のある心と脳と身体を統合した体験は人を成長させますが、受動的な娯楽は何も生みません。
だから取っ替え引き換え、代用物を浪費する悪循環を続けます。
勉強は心理的ストレスが強いから自分にはできそうにない気がする。そこで容易な代用物を使います。遊園地、コンサート、スタジアムに行く事は容易です。しかし仕事など特別なインスピレーションを獲得する目的を持っている場合などは別として、自分の内面が成長することはほとんどありません。
そのため、本来なら目標設定スキルを使って、意識、思考、感情、価値観など複雑に絡まった因果関係を整理して再構築したところから引き出した目的や目標に集中するために、そして楽しい成長をもたらすために用いることができるはずのエネルギーが、偽の現実にしかすぎない刺激に浪費してしまいます。
自分の地位を誇示したい欲求、大衆的なレジャー、大衆的な文化、高級とみなされる文化さえも精神の寄生虫となるのです。
害が認識されないこういったものは、ライフスキルや専門スキルを含めて実質的な力を自身にもたらすことなく、逆に心理的エネルギーを吸い取ってしまい、以前よりも自分を消耗させ落胆させます。
仕事と自由時間は、個人が責任をもってポジティブに関わらない限り失望するものになる性質のものです。
技術革新は時間を節約することで、仕事や家庭の労働を短縮するものでした。ところが実際には、その恩恵を目的を持たない自由時間に使う事によって、消費者本位制度の美名のもとに、目標を見失い、意欲を低下させ、モラールを低下させるドミノ倒しに巻き込まれています。
特にマスメディアの攻勢による受け身の消費やサービスは、他人のために金を捻出する構造を含んでいて、私たちを幸福に、強固にするように作られていないものです。
その大半は自由時間を使って人を疲労させ、幸福を遠ざけているのが事実です。
実態を冷静に観れば、「仕事が自分から搾取する」という思い込みは、むしろ自由時間に向けるべきだと言えます。
しかし、他のすべての場合と同様、仕事と余暇は私たちの欲求に適合できます。
仕事を楽しむことを学び、主体性をもって自由時間を浪費しない人々は、自分の生活全体をより張り合いのあるものにできるのです。
それを繰り返す毎日を実行できれば、より心と脳と身体が統合された毎日を過ごせるようになります。
幸福を引き寄せるヒントはこども時代にあります。
すべての子どもは自意識に妨害され始めるまで、自我に振り回されることもなく完璧なまでに、いまこの瞬間に没入しています。すべての人はフローを体験しているのです。すでに疲労でしかない休息をさらに求めるのも無意識にフローを求めているのかも知れません。
この事実を認識した上で、孤独感を適切に処理すれば。つまり余暇を楽しみ、仕事を楽しめば、本当の「やりがい」が外から力でなく内面から起こります。
ですから本当にいい家族とは、成長するプロセスの楽しみを発見し合い、ライフスキルを育むこと、つまり様々な問題や課題に対して、感情、意識、思考、行動、価値観、目的や目標の因果関係を整理して再構築できる力を持つようになることです。いい家族は、互いの影響力で「いまこの瞬間」への没入を多くすることを可能にしています。
自由時間のやりがいも何をしたかではなく、何のためにしたのか、そして没頭にあります。