「堕落論」までは遥かに遠く、しかし目標に向かってまっしぐらとは行かない。あっちにふらふら、こっちにふらふら。漂っているような気がしないわけでもないが、そこまでフラフラしていない。
いつも会っている人たちと同じように思いながら、どこか違うような気がしないわけでもない。これを普通と言えば普通のような気がするが、普通でいいから普通でいたいと思うのは、普通でないからなのか。
どうして自分の気持ちを言葉にできないのか。相手に悪いような気がするし、言えば否定されそうで怖い。きっと分かってくれているはず、分かるはずと省略するほど、普通が遠のく気がする時がある。
人と話して、本を読み、分かっていることは多いはずで、したほうがいいことがたくさんあることも知っている、しないほうがいいことも知っている。それが思うようにならないもどかしさが不安になって自分を痛めつける。
人恋しくて、その一方で面倒で人を遠ざけている矛盾は、知っていることをしていない苛立ちのせいなのか。
考えるよりも先に言葉が走るように気楽に話す人がいる。気持ちがあれば、あんな風には話せないと思いながらも、人の輪ができる光景を目の当たりにして地団駄を踏む。自分が惨めでどうでもいいような存在に思える時。
娯楽や消費に、このくらいと自分を慰める気持ちで、忘れるために身銭を切る。
あるいは、恋愛に溺れる自分が怖い。
自分が自分でなくなることを繰り返し、麻痺することで世間と距離を置いて生きている。
そこには相手はいないし、自分もいない。結局、ゴミを拾った自分が立っているだけが悲しい。悲しいから期待する。今度こそはと期待する。そして傷つく。こんなにも相手のことを考えているのに、きっと選んだ相手が悪いのだ。そう思って決着を迎えるたびに、同じことが繰り返され、そのたびに相手はレベルダウンしていくように思う。見返してやりたい気持ちが泥沼に足をとられる。どうして私がこんな目に会うのか、それが分からない。
相手の話のほとんどすべてにイエスと返すのは、どうして?
なぜ、私はノーと言えないのか?
出来ない自分を人に見せるのが怖いのは、自分が劣っていると悟られるのを隠すための必要。生きるための必要経費。
しかし、本当のところ、人間は万能の神ではない。できることがあり、できないことがある。そしてできることより、できないことが多い。人間は持ち時間に限りがあるからそのように作られている。
それを恥じることはないけれど、恥じてしまう。だからノーより先にイエスが出て行く。どうしてそうなるのか、分からない。
だから、他人のノーが受け入れられない。私はこんなにイエスと言うのに、なぜあの人はノーと言えるのか、許せない。不公平だと感じて傷ついてしまう。
ノーと言われるたびに、自分を隠さないといけいないと感じる。傷ついた自分を見せるのはナニよりも屈辱。だから何事もなかったように懸命に隠す。
ノーと言われたら消えてしまうことだ。あんたのような分からない者の相手はしていられないと見下してしまう。本当は見下したくはないし、見下ろしてほしくもない。人は対等だというではないか。対等であるために、私は見下し、見上げるしかない。
どうして私に対等はないのか。それが分からない。
だから自分ができることでもイエスと言わない。それも自分を守る手段だ。
自分に興味のあること、関心のあることだけをしたらいい。他人がそうであるように自分もそれでいい。しかし他人は自分を批判する。自分は他人と同じのはずなのに、自分だけがなぜ責められるのか、自分にはそれが分からない。
だから私は助けを求めない。自分が助けないように、助けを求めない。そんな恥ずかしいことはできない。問題はあると思えばあるだけだ。自分の選択で決まるのだから、問題はないことにしてしまえばいい。だから助けを求める必要もない。
私は自分から誰の領域にも入らない、だから他人が自分の領域に入ることもごめんだ。
遠慮することなく、立ち入る人がいるのには閉口する。どうして私の障害になるのか。理解出来ない。
■どうして、こんなにもつらいのか?
どうして、こんなにもつらいのでしょうか?
コミュニケーション不全の放置が心の病にまで発展する傾向が高まっています。
人は生まれたとき、無力です。保護者なしには生きて行けません。
泣けば駆けつけてくれる。泣けば食事を運んでくれる。泣けば不快感を除去してくれる。
人が真っ先に覚えるのは万能感です。
やがて、保護者はこどもの自立に向けて動きます。自分で出来ることは自分にさせようとします。まだ出来ないことはケアします。自立と依存のバランスが日に日に変化しながらこどもと保護者の関係も変わり続けます。
共同作業で協調を覚えながらコミュニケーションの基礎を体験していきます。自分の限界を知ることで、自立と依存のバランスを学び、自分と他者の境界を知り、協調の必要性を学んでいきます。
ところが保護者の過干渉、過保護があると、自立と依存のバランスを狂わせます。自分ですることを保護者がしていると、こどもは万能感を手放せなくなり、協調の必要が曖昧になります。自分でも自立したい欲求と不安の処理がうまくできなくなり、率直、素直に甘えることが苦手になり、感情の表現に混乱が生じてきます。
感情は表現していいものですが、表現の習慣がなく抑圧していると、どう表現していいのか学ぶ機会を失います。学びに失敗は欠かせませんが、失敗の経験も少ないため、感情の表現、伝達が苦手になり、表現しなくて済むように自分の内側で過剰な感情のコントロールが起こります。
つまり、失敗しないので「いい子」と見られますが、本人は我慢をしているだけなので、「いい子」と見られるのは、自分のことを分かってくれていない無念でしかないのです。しかし、こどもは非力ですから、生きるために「いい子」を演じることを選択します。
率直、素直、誠実の欠落が生じてきますが、人間は感情の動物と言うくらいですから、感情を表現しないでいると鬱積してきます。
やがて暴発なしに感情の表現ができなくなり、感情的な行動によって感情を表現することになります。
万能感の強い成人になると、コミュニケーション不全が起こります。
人間は万能の神ではありませんが、万能感が強く残っていると、限界と境界があやふやなままです。
具体的には、イエス、ノーが言えなくなります。あるいは受け入れられなくなります。
・自分に出来ないことでもイエスと返事する
・自分に出来ることでもノーと返事をする
・ノーを受け入れられない
・助けを求められない
イエス、ノーの混乱の背景には率直、素直、誠実、対等の不足がありますが、その発端にあるのが、万能感の問題と、関連する限界、境界の混乱、さらに自立と依存のバランスの悪さなのです。
コミュニケーション不全の放置は、うつ病など病気に発展する危険があります。また感情的で短絡的な行動は、自分と周囲の人を傷つけます。放置せずに修復していく作業は、自分を幸せにする作業と変わりありません。
つまり、健全なコミュニケーションができる人と違う点があるとしたら、修復する分、時間がかかることです。
では、具体的になにをすれば、克服出来るのでしょうか?
それは「自立」です。
時間がかかるのは、自立を邪魔する要因を自分が内包しているために、自立が思うように進まないからです。
しかし、案ずることはありません。
自立を意識して、自立を目的にするなら、障害の除去は難しくありません。
禁煙、禁酒などと同じ作業です。禁煙、禁酒の難易度は個人差がありますが、やり方の間違いも影響しています。
正しく対処すれば難しいことではないので安心してください。