エルヴィスは、ぼくのルーツだ。
ボブ・ディラン
50年代後期には、ロックンロール、カントリー&ウェスタン、リズム&ブルースしかなかった。
そしてあるとき、何もかもが甘ったるいものに変わってしまったフランキー・アヴァロンやフェビアンといったものに----
それで誰も昔の音楽を聞かなくなった。
みんなが聞かなくなったときのことを覚えている。
つぎに、その代わりとして一時期、フォーク・ミュージックがもてはやされたが、フォーク・ミュージックはあくまでも代替物でしかなかった----
いまはそれがまた、イギリスの音楽のせいで変わった----昔みんながやっていた音楽とおなじ音楽をやれば金になる。
イギリスの音楽がそれを証明した。
ボブ・ディラン
歌をつくりはじめたころ----他には、そういうタイプの歌をつくっている人はいなかった。
ウディ・ガスリーはよく似たことをしたが、ぼくの歌と同じタイプの歌をっくっていたわけではない。
ぼくはウディ・ガスリーにっいてたくさん勉強して、すべての歌を覚えて歌うことができた。
だが、時代は変わり、状況は変わっていた。ぼくのスタイルは歌詞の表現や展開などの面でウディから多くを得ているが、ぼくの音楽的背景はウディではなく、子どものころからロックンロールやリズム&ブルースに大きな影響を受けてきた。
大切なのは、テクニックではなく精神的な姿勢のほうだ。フォーク・ムーヴメントにはそれが欠けていた。
ボブ・ディラン
イエスと歩むのは楽ではないが、
それが唯一の旅だ。
ボブ・ディラン
昔は、自分自身と自分の歌は同一のものだと考えていた。
しかし、いまはそう考えていない。
自分がいて、歌がある。
そして歌は、すべての人のものだと思いたい。
ボブ・ディラン(ウッドストック、1968年)
ミネアポリスで新しい種類の人たちに出会った。ぼくはパーティの新顔になろうとしていた、新しいことを考えてる人間になろうとしていた----自分のやっていることを勝手に解釈して、体制の秩序との関わりのいっさいを打破しようとしているのだと美化して考えていた。
しかし、どちらにしても、その秩序のほうがぼくをうけいれなかった・…:学生寮に関連するさまざまなことが、体制の世界全体を要約していた。
ボブ・ディラン(ニューヨーク、1963年)
最初に暮らした大きな街はミネアポリスだっの話だが。
ミネアポリスが大きな街だと言えればのことだが。
荒野からやってきたぼくは、ビートシーンというか、ボヘミアンのグループというか、ビーバップ・ファンというか、そういうグループに自然に溶けこんだ。どれもが関連しあっていた---ジャック・ケルアック、ギンズバーグ、コーソ、ファーリンゲッティ----ぼくはそういう流れのいちばんうしろにくっついた。それは魔法のように思えた。
ボブ・ディラン(ニューヨーク、1978年)
バディ・ホリーが動いてるところなんて想像できなかったんだからおかしいね。
おれにとって、彼はいつもボウタイをしてアルバム・カバーに収まってる人物だったんだ。
あの映画(『バディ・ホリー物語』)は好きだったよ。
彼をもっとリアルに思えるようになったから。
ボブ・ディラン
敬服するに値する人というのは、世界のリーダーとか、そういう人たちのことかな?
誰だろう?
本当は敬服する人たちは多くいる。
たとえば、LAのガソリンスタンドで働いている男だ-----年をとった人だ。
その人には心から敬服する。
僕の車のキャブレータ−を修理してくれたんだ。
ボブ・ディラン
あのころいた人たち、エルヴィス・プレスリー、カール・パーキンス、ジーン・ヴィンセント、バディ・ホリー、ジェリー・リー・ルイスが好きだった。
ボブ・ディラン
エルヴィス・プレスリーの< All Shook Up /恋にしびれて>を
聴けば、どんな時でも幸せな気分になれる。
ポール・マッカートニー
僕らはまだ道の途中までしか来ていない。
中間点にも達していないんだ。
これから先のことなんか僕にも分からない。
誰も知らない領域を
自分で切り開くのは楽しいことだ。
ボノ(U2)
言葉なんか重要じゃない。
どう生きるかが問題なんだ。
ボノ(U2)
ドラッグをやるのは頭痛もしないのに、
アスピリンを飲むようなものさ。
ポール・マッカートニー
歌を聴くことは、人の思考を聞くことだ。
その内容がどんなものであろうと。
そして歌の作者たちは、いまもその思考をつづけている(すくなくとも、レコードの最後の一枚が塵に帰するそのときまでは。
画家は、川が反射する光をみつめつづけている。歌は鳴りつづけている。
それは人を立ちどまらせる。
そしてドアが開くまでのほんのすこしの時間、
いまという時間にダンスを踊ることを許す。
ポール・ウィリアムズ
自分はもう必要とされていないんだって本気で思ってた。
金の問題じゃないんだ。
これは自分の価値の問題なんだ。ビートルズにいなければ自分には価
値もないって。
僕は急にそんな気がしてきたんだ。
ポール・マッカートニー
その頃言ったんだよ、「そろそろみんなに話すべきじゃない?」ってさ。「ダメダメ、解散なんて誰にもいっちゃいけない」
でも僕は言うべきだと思った。
ポール・マッカートニー
他のみんなは僕が声明文を出したみたいに思った。
まるでそれが僕に有利に働くみたいに。
(だけど僕はLSDのことでも悪影響を被ったし、解散に関し
ては事実を言ったまでだ、彼らと違ってね。)
「ジョンはちょっと膝を立ててたね。
彼は自分で言いたかったんだと思う。
言うにしろ言わないにしろ、彼が決めたかったんだ。
ポール・マッカートニー
パティ・スミスについて覚えているのはとても印象的だったことだ。
音楽の質というより、それが生き生きとしていたことだね。
最高のロックン・ロールとは、滅多にないことだが、次に起こることが予測できないものなんだ。
目と耳が捉える直前に何かとてつもなくパワフルな物が生まれるんだ。
ひと晩たって昨日聴いたものは何だったんだ、と興奮するのさ。
全く新しくて今までにないものだ、って。同じ歌に異なった歌詞がつけられ、異なったカヴァー曲が挿入され、歌の合間に素晴らしく直観的なラップとロック的なしぐさがなされる。
観察してみるとそれらは全てバティの内面から湧き出ているんだ。
ただ詩人とか詩人のシンガーといった概念とは違った、何か別のロック体験なんだ。
強烈な創造性が白熱した体験を生み出していた。
例えば(僕が見た)ザ・フーやドアーズ、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの最良の時と同じなんだ。
彼女はこのアートの形態が、彼女の考えや感情、霊感を目の前の聴衆に伝えることができるという状況に、心から興奮していた。
僕は彼女を追いかけたくなって、少なくとも12回はコンサートに行った…。
僕にはできないが、この若い女性がやっていることは、当時としては他のどんなロック・バフォーマーもやっていないものだった。
ポール・ウィリアムス
50年代後期には、ロックンロール、カントリー&ウェスタン、リズム&ブルースしかなかった。
そしてあるとき、何もかもが甘ったるいものに変わってしまったフランキー・アヴァロンやフェビアンといったものに----それで誰も昔の音楽を聞かなくなった。
みんなが聞かなくなったときのことを覚えている。
つぎに、その代わりとして一時期、フォーク・ミュージックがもてはやされたが、フォーク・ミュージックはあくまでも代替物でしかなかった----いまはそれがまた、イギリスの音楽のせいで変わった----昔みんながやっていた音楽とおなじ音楽をやれば金になる。
イギリスの音楽がそれを証明した。
ボブ・ディラン
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