ビートニク、ビート族、ビ−ト・ジェネレーション・・・・サンフランシスコの裸の天使たち。
広島・長崎に原爆を落下。その破壊力に驚いたのは日本人だけではありません。当のアメリカ人にしても恐怖でした。
第二次世界大戦、朝鮮戦争に疲労し、さらに存在するソ連(ロシア)との冷戦は、アメリカ人にも、原爆は現実の恐怖でした。
特に感受性の強い人には「明日がない」と映ったようでした、
エルヴィス・プレスリ−がロックンロールをひっさげてデビューした翌年、その破壊力によって、閉鎖的な社会の一面にまさしく風穴が開き、瓦礫となった景色の向こうから「ビートニク(ビ−ト・ジェネレーション)」は登場してきました。「吠える」を投げ込んだアレン・ギンズバーク、「路上」のジャック・ケルアック、異端児ウィリアム・バロウズを筆頭にその破壊力はロックンロールに迫るものです。
エルヴィス・プレスリ−がロックンロールを演奏することで、打ちのめされながらも、片方で支持を得てのしあがっていったように、彼等もまた打ちのめされながら、サンフランシスコのカフェを根城に、詩を読み、小説を書き、意見を交わし、ビートニクの生き様はカウンタ−・カルチャ−として社会と対峙しました。
カフェ文化というものがあるなら、それはデザイン空間ではなく、人間が空間に集うことで、空間がデザインされていくなかで形成されたものはないでしょうか。
どんなすてきなデザインをしても、そこに自分の生を生きようとしない人が集まっているだけなら、つまらない空間でしかありません。
他人のうわさ話、垂れ流されるトピックス、同じニュ−スの山、誰かのことではなく、自分のことに力を注ぐ空間であれば魅力的です。
必要最小限を持って、部屋を飛び出して、カフェに出向き、そこで自分のビートを刻む。生きることは至福(ビ−ト)そのものなのです。
ともあれカフェ文化にビートニクの魂を。