僅かな時間でもって見事な起承転結を表現した「歌舞伎町の女王」。その名作の鮮やかな情景があまりにも印象深いせいもあってか、林檎姫は一見レディスコミックやJ文学のひとつの傾向と同類項に映り、社会の外側に越境したように見えるが、林檎姫は決して外側に越境していないし、アウトサイダーでもない。
姫が越境しょうとしているのは自分自身の外から内であって、それは生の証しへのインナートリップではないか?
姫は自分を愛するために執拗に愛にこだわる。愛する人に自分を投影してしまっているわけだから、執拗であるのが正しい。
「何処にだってあたしと一緒」「あなたはあたしじゃなくっちゃ」という自分を投影した思いは切迫したもので、それが成就すれば「ふたり精神病」の世界だ。
しかしいかなる恋愛もすでに正気ではないのだから、ならばとことん狂ってしまうのが正しい作法であるとも言える。
たとえ狂気と言われてもそうありたいと願うのも事実。
だがそれがあり得ないことを承知しているがゆえに人は辛いのだ。人に命がある限り喪失は必ずやってくる。
喪失に耐えるのはどのような人にとっても大変な作業だが、投影した喪失は自己の喪失に他ならない。 |
すでに、あるいはあらたに自分を喪失してしまった人間には再生の作業は残酷な程辛い作業になる。再生の作業が成功すれば、同時に必ずいつかくる喪失に待機しなければならない。姫が越境しようとしている世界とは自分を置いてきたしまった世界ではないのか?
その世界に入り込んで自分を奪還するために自分の身替わりが必要なのだ。喪失を超える再生の世界。永遠に喪失のない世界なのだ。
そのためには「あなたはあたしじゃなくっちゃ」でなくてはならない。
それが実現した時にあたしはあたしになれる。
椎名林檎のみだらさの神髄はここにある。しかしそのみだらさは「あんな傲慢な類の愛を押し付けたり」「色々葛藤はあるんだけれど、あたしの云いたいことを全て吐き出しちゃえばエゴになる」ことを承知しているから言い出せずに「正しい街」を飛び出してしまう。
結局は何も手にすることなく、脳の中にある愛という名の「麻薬物質」が行き場をなくし、とめどなく全身に垂れ流しになるのを耐え忍ぶ罰を自分に課している。
葛藤しながら信じるのではなく、「シャンプー」を安心して買いに行けない限り、「ぐるぐると同じようことが繰りかえされるだろう。 |