自分の行動を自分で選択して実行するのは万人に認められた権利です。
これには自分の希望や要求を伝える権利も含まれています。
目上の人や権威のある人に対して、自分の欲求や希望を言うときは、控え目にするのがよいと思い込んでいる人がいます。
この考え方は、自分が目下の場合、自分の欲求や意見や欲求を容認するのは相手であり、自分ではないという判断に基づいています。自分の意見や欲求が通ったり叶えられるのは相手次第という解釈です。
この考え方に立つと、生きる構えのメカニズムが働き、逆の立場になったとき、自分が目上の位置にいるときは、相手の欲求を操作できるということになります。自分がそうであったように欲求を抑圧したり、弱点を探して指摘することで価値を値引きします。
あるいはその立場にあっても自分の意見は欲求は相手次第という考えになります。前者はアグレッシブ(攻撃的)になり、後者はノン・アサーティブ(非主張的)になりますので、共にWIN-WINな円滑なコミュニケーションはできなくなります。
こども時代からの体験によって培われた価値観の影響が大きいのですが、自分の希望を控える従順なこどもがいます。
欲しいものをねだらない子、必要な小遣いを求めない子、行きたいところを要求しない子、自分の意見、気持ちを言わない子がいます。親には従順でなければならないと思い込んだ体験を重ねた子たちです。
それを続けるほど「いい子」扱いされて、自分でもそれをポリシーにしてしまった子は、周囲には素直でも、自分には素直でなくなります。欲求をあきらめる習慣を身につけてしまい、さらに欲求そのものを持たないようすることでバランスをとる習慣を身につけ、自分の欲求さえ分からなくなります。成長すると自分の目標が持てなくなり、なにをしたいのか、なにをしていいのか分からなくなります。
結局、他者の言われるままに行動することがもっともしっくりするように感じて、そのようにします。
しかし人権には、自分の行動を自分で選択して実行する権利が認められています。自分が自分らしく生きて他者が他者らしく生きるには、自分の行動は自分で選択して実行していいのだというアサーション権を行使することが大切です。
自身が行使しなければ、あなたの前では他者も使うことが難しくなります。
意見を出さないので、相手も意見を出せないようでは相手は楽しくもなければ成長もありません。
仮に反対意見であっても意見であって批判ではありません。
違いはどこまでも違いでしかなく、間違いではありません。違いがあるから他者との区別もつくのであって、その中から、やがて共感、共有、共鳴に発展します。違いがなければ、あるいは違いを認めない関係性で、ただ合わせる振りをしているだけで自律することもなく、共感、共有、共鳴は生まれません。
自律ができるからこそ共感、共有、共鳴は可能になります。
人と人の間にある境界を認めない親分子分の関係性には見せかけの共有・共感でしかなく、本当にはありようがないのです。
私たちは誰でも、自分の要求を持ってもよく、自分の行動を自分で選択して実行する権利を持ってよく、他者に対しても同じことが言えるのです。
これを実行することで、自他肯定の構えが育ち、ひとはみんな対等なのだという意識が自分のものになります。
対等であることを前提としたコミュニケーションが可能なるので互いに受け入れることができます。対等感がないと、自分は劣っているという意識のもとに、相手を見下したり価値の値引きを探して、常に意味もなく競争的になります。
健全な精神の持ち主ならコミュニケーションをしたいと思わなくなりますので、裸の王様になってしまいます。
そうならないためにも自分の行動は自分で選択して実行していいのだと意識して行動します。