このアサーション権は、「人間である権利」そのものともいわれます。
すなわち、神ならぬ人間は神様ではありません。完壁でないのが普通です。
完璧でない人間は、失敗はしてもいいのです。
さらに、その結果に対して責任を取ってもいいのです。
そういうと身を引いてしまう方がいると思いますが、責任に対する判断が違うからです。
失敗の責任を取ることは、結果を自分が引き受けるということですが、可能な範囲と可能でない葉員があります。失敗に対して義務として取る必要はありませんが、自律的に可能な範囲において責任を引き受けるという意味です。
これならどうでしょう?できると思いませんか?
もし責任を義務として引き受けるなら返すことができない失敗はできないことになります。これでは二度としたいと思わないでしょう。失敗の責任は、成功しかないことになります。似たようなことにならないように他の件でも避けるようになります。
【ビジネスの現場からこんな意見が聴こえてきます。】
しかし、ちょっと待ってくれ、失敗してはならないからと言って、可能な範囲で責任を引き受けたらいいなんて、そんなユルいこと言ってると大変なことになるという意見もあるでしょう。
さて、この問題を職場やビジネスの現場で扱う時、どう考えたらいいのでしょうか?
自律的に可能な範囲において責任を引き受けることは、途中で放棄しないで、成功するまでやり続けることを意味します。
もし、失敗はできないと考えていたなら、失敗する人間はダメ人間という評価になります。自分をダメ人間とは思いたくないので、失敗を認めることができなくなります。合理的でない言い訳したり、失敗したことを隠すようになります。ごまかす、隠す、避けるということが連鎖して起こるようになってしまいます。
個人の場合もそうですが、集団の場合では特に目標は重要になります。目標はひとりひとり違う価値観を束ね具体化したものだからです。つまり目標とは全員に共通した価値観と言えますが、その目標が崩壊してしまいます。
もし失敗してはならないという前提でものごとを進めると、責任を取ることが義務になります。
すると、まず集団を構成する人々の行為は自律的でなくなります。自律的でないとは、上司から言われるからやっているという状態になります。
さらに自分がダメというレッテルをはられたくない心理が働くので、成功の可能性が保証されていないことはしたくなrくなります。
義務としての責任がともなうことはしたくなくなるので、目標は形ばかりのものになり、結果主義(事実前提の経営)に陥ります。つまり出来高主義です。
建前としての見せかけの目標はあっても、事実は人が成長する仕組みを集団から骨抜きにします。共通した価値観を持たない目標のない集団とは烏合の衆だからです。この隠された事実によって組織と従事するひとは壊滅的な痛手を被ります。
組織は失敗が問題ではなく、成功しないことが問題なのです。
成功するために組織はあるのです。だから失敗してもいいから絶対に成功しろというのが健全なのです。
成功するまで失敗を繰り返せばいいのです。その防波堤として期限があります。
修正を加え、やり直してみる、うまくいかない、さらに修正を加えやり直す。この頻度をどれだけ高めるか、迅速さが期限によって問われます。
責任を引き受けたいか、引き受けたくないかは、その迅速さと密度の高さで顕著な差をみせます。その違いが自己肯定感になって表れますが、その発端は失敗と責任の解釈の違いにあるのです。
何度やってもうまくいかない場合もあります。その場合はどうなるのか?
やり直してもやり直しても出来ないことによって、それが自分にはうまくできないことが判るようになります。それはできない、しないほうがいいという見極めができるので、断る力がつきます。さんざんやり直した結果の判断ですので、気分や思いつきの回答ではありません。それも責任ある行動なのです。
自他ともに肯定できるようになるので、嫉妬から出来る人に敵対心を持ったり、誹謗中傷するようなこともありません。
結果主義で成功することしかしない人、一度の失敗でやり直すこともしなかった人は、自信がないままに、何事にも引っ込み思案になります。自信のなさを隠すために、自分を守ることにエネルギーをい使うので、健全なコミュニケーションができなくなります。体験さえしなくなるので、成長が止まるだけでなく、時代の変化や進化とも距離を置くことになるので、実際には自身が劣化してしまいます。
「人間である権利」そのものを使わないために起こる悲劇なのです。
その悲劇を回避する意味でも、間違いや失敗をする権利とその責任を果たす権利は積極的に使うようにしたいものです。