STUCK ON YOU
本命はおまえだ
エルヴィスのアルバム『ワールドフェアの出来事(ヤング・ヤング・パレード)』が27,000円で中古レコード店に並んでいた。アーミー姿のジャケットのシングル<本命はおまえだ>が18,000円。いいねえ、いいねえ、やっぱりきちんと評価されてる。嬉しくなる週末だ。
<本命はお前だ>は除隊第一弾、不安と自信をもって世に送りだされた作品であり、もちろん大ヒット。
60年3月3日に正式に除隊、列車「テネシアン号」でメンフィスに到着したのが3月7日。3月20日にRCAナッシュビルBスタジオに駆け込むように録音に参加、徹夜で取り組んだなかのひとつが本曲。なんと1週間後の28日に全米でリリースされた。
いかに急いでいたかが伝わるエピソードだが、それもそのはず前年11月時点で全米のあらゆるチャートからエルヴィス・プレスリーの字は消えていたという。
しかし本曲のニュースが流れると、ファンが待ちかねていたように、予約が相次ぎ予約段階でミリオンセラーを記録。
発売2日前の26日には伝説の『フランク・シナトラ・ショー』にも出演し、復帰を加速した。<本命はお前だ>は軽快なロック・チューンとして、エルヴィスのキャリアの中でもコミカルな味が忘れがたい曲だ。
尚、本曲は『ELVIS IS BACK!』に収録されていないのが、あるべき姿だ。
You can shake an apple oft an apple tree
Shake, shake sugar but you'll never shake me
Uh-huh-huh nosiree, oh no
l'm oonna' stick like glue
Stick because l'm stuck on you
l'm gonna' run my fingers through your long black hail
Squeeze you tighter than a grizzly bear
Uh-huh-huh. yes siree, uh-huh
l'm gonna' stick like glue
Stick because l'm stucK on you
* Hide in the kitchen hide in the ha]l
Ain't gonna' do you no good at all
'Cos once I cotch you and the kissin' starts
A team of wild horses couldn't tear us apart
l'm gonna' take a tiger from this Daddy's side
That's how love is gonna' keep us tied
Uh-huh-huh, uh-huh-huh, oh yeah, uh-huh-huh
l'm gonna' stick like glue
Stick because l'm stuck on you
* Repeat
l'm gonna' take a tiger from this Daddy's sfde
That's how love is gonna' keep us tied
Uh-huh-huh, yes siree, uh-huh
I'm gonna' stick like glue, yeah, yeah
BeOause l'm stuck on 'vou
l'm gonna' stick like glue, yeah, yeah
Because l'm stuck on you
l'm gonna' stick like glue, yeah, yeah
Because l'm stuck on you
それほどのエルヴィスである。普通の人々にとって、エルヴィス最大の謎は、エルヴィスほどの富と名声と獲得した人がなぜその芸術の評価を下げるような作品に手を出したのか?もっと自由に仕事を選択できたはずだという疑問。たとえマネジャーがそれを望んだとしても、拒絶できたはずだ。という思い。また、身体を壊す程にステージに立たなくてもよかったのでは?という思い。
あるいは、ボブ・ディランらに代表される「生への活気のなさ」という類いのもの-----もてる才能を十分に発揮しなかったという意見。-------その活動の大半が自分のキャリアをなぞることに費やされたことは「ピエロ的エルヴィス考」でも記述したが、結論から言うとエルヴィスのおかれた状況からすれば、エルヴィスに選択肢はなかったようにしか思えない。それ以上のことを求めるのは酷なのだ。エルヴィスはその人生の時間に於いて可能な限り戦ったのだ。もし許され、もう少し時間が与えられたなら、そこで違うやり方を具現する可能性はあっただろう。
(略)流浪する「エルヴィス」が何者なのかについて、観客にはバイロンよりひとつだけ多くヒントが与えられている。冒頭で、ヒッチハイクの「エルヴィス」を乗せたトラックの運転手が、彼を降ろす際にこんなことを言うのだ。「救われたよ。あんたと過ごした数日間でまた勇気が出た」
それはほとんど「神」への感謝の言葉である。最初は気がつかないが、物語が展開していくにつれて、その運転手の言葉の重みが徐々に増してくる。この「エルヴィス」は実は、「神」ではないのか?
だが、もし「エルヴィス」が「神」だとすると、ひとつだけ理解できないシーンが出てくる。メンフィスの「グレイスランド」に着き、そこに建つプレスリー邸にバイロンと共に忍び込んだ「エルヴィス」が、邸内に誰もいないのを知って泣き崩れる。「こんなはずじゃないのに……誰ひとりいない..…・」
それは「エルヴィス」が「生きているプレスリー」であることを物語っているのか、単に「工ルヴィス」を演じている流れ者にすぎないことを暗示しているのか、あるいは、「神」もまた泣くということを意味しているのか。そこをどう理解するかによって、この映画の姿は微妙に異なって見えてくるかもしれない。だが、たとえ流浪する「エルヴィス」をどう捉えるにしても、そのシーンによって、これが単に癒される者の幸せを描いた作品ではないということは伝わってくる。この『グレイスランド』という映画は、癒す側の不幸、あえていえば、癒すことでしか癒されない者の不幸を描いた作品でもあったのだ。
(『世界は「使われなった人生」であふれている』沢木耕太郎著:暮らしの手帖社刊)
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以上は、沢木耕太郎さんが書かれた『世界は「使われなった人生」であふれている』の一章「プレスリーがやって来た」からの抜粋である。
「癒すことでしか癒せない」-----この言葉は人間エルヴィスを理解する上で重要なキーワードだ。
癒すことに自分の生命、存在価値を自ら感じ取る。エルヴィスの人生はそれに使われたと感じている。
以前ゴスペルとの関係でも取り上げたテーマであるが、ボクはそのようにしか生きられなかったエルヴィスの哀しみを愛して来たし、少なくともエルヴィスの死後は、毒を持って毒を制するがごとくエルヴィスの哀しみによって自らを癒して来たのだ。
エルヴィス死後、その音楽から離れて神格化されていく。その傾向への批判も一方ではある。それがいたずらにファンの惜別の思いのみによってのこととは思えない。エルヴィスが何をして何者だったのかのかを求めれば求めるほど、つまり人間エルヴィスを思う程、俗に言う「神格化」の傾向は自分の中でも強まる。
映画『グレイスランド』はそのことを語った映画であったと思う。しかし『グレイスランド』という映画はエルヴィス・ファンをターゲットにした映画ではない。エルヴィスを借りたロード・ムービーだ。つまり人は何かに依存し人生を生きているというのがテーマであり、この作品を通してエルヴィスの真実を伝えようとしたのは、人間の普遍を伝えようとしたにすぎない。
ここで使用された<ロング・ブラック・リムジン>は、自分の存在価値を示すために都会に出て行った者の末路を歌ったものだし、<明日への願い>も叶わぬ思いを歌ったものだ。
登場するマリリン・モンローは、癒されることで癒すことができる、癒される者の終わりのない不幸を生きた女優であった。
結局、エルヴィスもモンローも、自分の存在価値を追い求め、他人からすれば究極の幸福に辿り着いた者である。そう見なされながらも、見なされるがゆえに、より存在価値証明の迷路に迷い込み、疲れ果ててしまったのかも知れない。
エルヴィスは壊れていた少年だった。モンローはそれ以上に壊れていた少女だった。
精神が不安定で依存症の傾向にあった母親の嘆きを聞きながら、それを自分の責任と思い込んだ少年。
幼少の頃に、母親は精神病院に入院、親戚を転々とし、孤児院に暮らした少女。
「自分は無用の子」と感じてしまった、いわゆる「トラウマ」との戦い。エルヴィスもモンローも、自分の存在価値を自らが感じる唯一の方法は、他者に受けいられることだ。
嘆いている母親と御機嫌な母親の狭間に暮らす緊張の日々、自分で生計を立てられない無力な幼い子にとって母親が御機嫌なことは自分の居場所を獲得できたことを意味する。反対に不安定な母親を見るのは、居場所がなくなる「恐怖」なのだ。母親のいい子になるのは、自分の居場所を獲得する戦いである。それが毎日続くーーー「波風立てない」「従順」が生活習慣として身についてしまうのは不思議でない。もっと正しくいうなら身につけることが「生活の知恵」「生存するための技術」を修得することなのだ。
エルヴィスの痛みの原因として、プリシラ・ショックが多く語られる。その本質は「癒す対象をなくしたことで、自分が癒されなくなった」ことにある。つまり痛みの本質は「自分の居場所がなくなった」ことにある。その意味に於いて、プリシラはグラディスの代理である。自身もまたグラディスの代理である。人気者となり、わが子が手許から遠ざかることに寂しさと無力感を感じ身体を病んでいった母親をなぞったのだ。つまりエルヴィスはもともと「癒すことでしか癒されない」性質だったのだ。それは母親から受け継いだ生への基本姿勢である。そこから生まれた情念の凄さ、言葉にできない生への熱い願いと挫折感の激突が、人の胸を抉りとるように、ロックンロールしたのだ。バラードもエルヴィスにはロックンロールだった。
幼少のモンローはエルヴィス以上に受け入れてくれる者がなく、受け入れてくれることを求めた。美しく可愛く才能も豊かに成人したモンローは、才人から受け入れられたが、幼少時に心に深く刻まれた「受け入れてくれる者などいない」という思いは、受け入れてくれる者を疑い、これでもかとばかりに試すことを繰り返した。誰をも信じないこと、愛さないことが、自分を守るための「生活の知恵」「生存するための技術」であり、結局モンロー愛した者たちは深く傷つき、断腸の思いで別れることを余儀無くされた。
なるほど多くの人は、エルヴィスほどの富と名声と獲得した人がなぜその芸術の評価を下げるような作品に手を出したのか?もっと自由に仕事を選択できたはずだという疑問を持つ。たとえマネジャーがそれを望んだとしても、拒絶できたはずだ。という思い。また、身体を壊す程にステージに立たなくてもよかったのでは?という思い。
不思議に見えることこそ生活習慣として身につけてしまった「生活態度」であり、頑に信じて疑わない「生存するための技術」なのだ。
マネジャー・パーカー大佐とエルヴィスとの間で意見の食い違いがあったとする。エルヴィスは幼少の時から、自分の面倒をみてくれる者の態度、表情に敏感である。ひとつのため息がどれほどエルヴィスの心を痛めつけるか、それは当人でないと計り知れないのだ。
母グラディスが御機嫌であれば嬉しかったのと同じようにパーカーがご機嫌なら、その瞬間「万事はうまく行ってる」と思ってしまうのだ。
仮にグラディスが機嫌が悪くても、それは隣人のせいかも知れない。役所のせいかも知れない。パーカーが悩んでいても、個人的な問題かも知れない。
しかし突然のように変化するグラディスの表情を見て来た少年には、「次の瞬間が恐い」のだ。思うにこのような状況は、変化を極端に嫌がる性格を形成する。結局変化を嫌い「万事はうまく行ってる」状態を好むようになる。実際の状態など関係ないのだ。
言われるようにエルヴィスの映画が、「クソ映画」だったにしても、『エルヴィス・カントリー』のジャケットのエルヴィス坊やの痛みがそこにあることを知ったなら、それを愛おしみ、ポップコーンの塩味はさらに塩がきいて、楽しめるはずだ。「一人の人間が懸命に生きてることが伝わるだろう」、そこにあるのはアカデミー作品賞をゲットする作品が訴えている多くの主人公の姿そのものなのだ。
「エルヴィス映画」-----それは素晴らしい戦いの記録だ。ボクは自分だけのアカデミー賞をこれらの作品にあげる。エルヴィスに「頑張ったね。」と言ってあげたい。それは自分に向けたエールでもある。
身体を壊す程にステージに立たなくてもよかったのでは?というシンプルな謎。
もしステージ立たなかったら、もっと苦しんだだろうと思う。自分の存在価値を感じる居場所がなかっただろう。ここでいう存在価値とは客観的なものではない。あくまで本人の感じ方なのだ。
自分の意志とか関係のないものに突き動かされる日々。本人の意志ではない本人の思いに支配されながら、頂点を疾走したエルヴィスとモンローが、永遠のポップ・アイコンになったのは決して偶然でない。それは彼等が明確な言葉で語っていなくとも、大衆は彼等が発散するオーラに秘められた「謎」を感じ取っているからだ。その謎こそ国境を超えて「多くの人が持ってしまった謂れのない罪の意識」。それは同胞の思いなのだ。世界は傷ついてしまった人で溢れているのだ。
神格化されていくのは、彼等に自分を投影する大衆のカタルシスなのだ。ショー・ビジネス、プロ・スポーツに生きるものが担っている役割である。大衆は彼等に自分の出来ない夢を託す。
どのように賛辞され、どのように批判されようが、イチローの偉業は野茂を追った点にあると思う。野茂の偉業は日本のプロ野球の殻を破って海を渡ったことにある。モンローは将来を夢見て裸身をさらけだしたことにある。そして、我らがエルヴィスの偉業は-----サンレコードのドアのノブを回したことにある。
その瞬間、少なくとも彼等は、「自分を生きた」-----そしてその時、運命の女神はよそ見をしてなくて、にっこり頬笑んでくれたのだ。
どのように賛辞され、どのように批判しょうが、ほとんどはエルヴィスのようにドアのノブは回せないのだ。間違いなくこの瞬間、エルヴィスは自分を愛し信じた。素晴らしい瞬間と、それを点にしてそこから続く一本の線。サンのレコードには、ピカピカの精霊が躍動しながら宿っている。少なくともエド・サリバンショーで<谷間の静けさ>を歌い終わる瞬間まで、エルヴィスはその人生でもっとも自分を愛した時だった。ボクにはそれがたまらなく嬉しい。なぜならこんなようにこれほどまでに、自分を愛せる瞬間を持てる人は世界に多くもないし、それゆえ勇気を与えるものだからだ。
正規盤しか聴かないのを本分にしているのだが、『TASCON'76』を聴いて、もうここには力尽きて誰をも、癒すことができなくなったエルヴィスが立っていることを存分に知らされた。しかしここでも-----サンのドアを開けたエルヴィスが<ダニー・ボーイ>を口ずんでいるのも知らされたのだ。
「『エルヴィス・イン・コンサート』はエルヴィスの遺書。もうエルヴィスはここにはいないんだよ。と言ってる。辛くても目をそむけてはいけない」-----鈴木喜久雄氏の言葉だ。
思わず胸がつまったピエロだが、そうなんだ、目を背けてはいけない。しっかり見据えれば見えてくる。
ジャンプスーツのエルヴィス、リーゼントのエルヴィス------。
「人は他人と違っていても、違っていなくても、いるだけで存在価値がある。」それを伝えていくことが、エルヴィスを聴いた者の役割なのだ。エルヴィスがあんなに、命をかけて、求めたもの---。それを伝えなくては------。
「人は他人と違っていても、違っていなくても、いるだけで存在価値がある。---だから、自分の開けたいドアを開けていいんだ、本命はおまえだ。しっかり自分を信じて離さずに行け。」と。
18,000円のシングルをご堪能あれ。これはストーカーの歌ではない。自分に賭ける歌だ。自分を愛する歌だ。
木になるリンゴを振り落とせる君も
僕のことだけは振りはらえない
Uh-huh-huh、絶対無理だね
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
その長い黒髪を撫でながら
クマよりもきつく抱きしめてあげる
Uh-huh-huh、本当だよ
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
*キッチンでも廊下でも構わない
どこに隠れたって同じこと
君に口づけを始めたら
天地がひっくり返ったって放さない
どんな手だって使ってみせる
二人が一緒にいられるなら
Uh-huh-huh、そうさ
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
*くり返し
どんな手だって使ってみせる
二人が一緒にいられるなら
Uh-huh-huh、嘘じゃない
糊みたいにくっついてやる
だって僕は君にゾッコン
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
糊みたいにくっついてやる
だって僕は、君にゾッコン
THE KING OF
ROCK'N ROLL----その言葉は重い。