WOODEN HEART
さらばふるさと
ドイツ民謡<別れ>をアレンジした <さらばふるさと>はエルヴィス・プレスリーが天才であることを再認識させられる魅力に溢れている。
エルヴィスは何気なく歌っているように見えて、凄まじいまでに隅々まで注意を払いながら、”軽く”歌っている。
イントロがはじまって、一瞬の静寂。キングのために用意された一瞬はチームとしての一瞬でもある、
緩やかだが息つく隙もないほどに歌うエルヴィス。マンドリン、ドラムがエルヴィスと一体となって刻まれるにつれ、”チーム魂”を感じずにはいられない。
その姿は終生一貫したエルヴィスの姿勢でもあった。さらにエルヴィスの歌が個性的でオリジナリティに満ちたものであるにもかかわらず、極めてストレートであることが、他のミュージシャンが残した<WOODEN
HEART>によっても、その他の楽曲によっても知らされる。音楽への真摯な姿が眩いほどのストレートさだ。
この美しい曲が耳障りな小細工なしに、いつもながらに”王道を行く”形で歌われることは、曲にとっても聞き手にとっても幸福なことだ。まさしくキングの仕事ぶりだ。
本当にこの人は自分を印象づけるために自分を主張するようなことをせずに、曲の持つ素敵を最優先して歌っている。奇妙なことだがそれによってかえって強烈な個性が発散される。
「ありがとう、私を生かしてくれて。」ーーーーまるで曲からエルヴィスへお礼をしているようである。
本曲と同じく映画主題歌である『燃える平原児』に至っては大拍手ものだ。
まったく奇をてらわずに非の打ちようのない純正ハリウッド映画音楽に仕上げている。
ハリウッド万才!往年の名作、同名主題歌『胸に輝く星』『ハイヌーン(真昼の決闘)』などのウェスタンの香りと時代をたっぷり感じさせて貴重かつ痛快のご愛嬌だ。
「ぼくは何でも歌えます」と語ったエルヴィスの本領は曲の心をしっかりつかまえる能力を指している。
「エルヴィスの声なら何でもできる」とフィル・スペクターは語ったが、曲の本来の魅力を理解できる感性や心があってこそである。
強靱な精神によって鍛え抜かれた身体を自在に操り運動する姿に似て、そのしなやか精神が自在に声を支配し楽曲を活かす。それは楽曲の作者ですら表現できなかった想いまで表現しているのではないだろうか。
『ELVIS〜30#1 HITS』を順番に聴いていると、<さらばふるさと>はその他の楽曲と比較して決して強いインパクトがあるわけでもないので、ついうっかり聴き逃す方も少なくないと思う。
なにしろ小学校でも歌われる曲でもある。
イギリスでは3週トップになったものの、アメリカ(シングルリリースなし)では107位が最高位という違いが起こるほどだ。
『ELVIS〜30#1 HITS』には本来ならイギリス1位、アメリカ30位になった<ロカ・フラ・ベイビー>が収録されるべきだろう。
『ブルー・ハワイ』から<好きにならずにいられない>が収録されているので同作品から2曲になること、ヨーロッパも含んだ世界的リリース、なにより入隊という人生の転換期を経験した意味でもドイツ語で歌われた<さらばふるさと>がその重要性さで欠かせなかったのだろう。
しかしこの曲のエルヴィスの魅力に触れた方は気も狂わんばかりにエルヴィスにのめりこむ可能性の強いパフォーマンスであることも間違いない。
端から端まで、泣けるほどに素晴らしい。最後のジャンジャンの後のチームの幸福な笑い声が聴こえてきそうなところまで目に浮かぶ素敵は、是非とも録音風景を見てみたい気にさせられる。
<ハートブレイク・ホテル>を聴いて<さらばふるさと>を同時に聴けば、「エルヴィスって何者だ!」と思わずにいられないだろう。
「何でも歌う」で片付けられるか、そうでないかは、自分の感性をテストされているようである。
さてエルヴィス・バージョンの<さらばふるさと>は
分からないの、愛していると
僕のハ一トを傷つけないで
それって難しいことじゃない
僕の心は木でできていないから
君にさよなら言われたら
きっと僕は泣くだろう
死んでしまうかもしれないよ
僕の心は木で出来ていないから
*この愛に裏はない
始めから君だけを愛してた
意地悪しないで優しくして
僕をちゃんとあつかって
だって僕は木なんかじゃないし
心だって木でできていないから
**僕は都会に行かなければいけないのかな?
それでも君はここに残るのかい?
僕は都会に行かなければいけないのかな?
それでも君はここに残るのかい?
**くり返し
*くり返し
僕に優しくして僕をちゃんとあつかって
心だって木でできていないから
Can't you see I Iove you
Please don't break my heart in two
That,s not hard to dc
'Cause I don't have a wooden heart
And if you say goodbye
Then I know that I would cry
Maybe I would die
'Cause I don't have a wooden heart
* There's no strings upon this love of mine
It was always you from the start
Treat me nice, treat me good
Treat me like you reclly should
'Cause I'm not made of wood
And I don't have a wooden heart
** Muss i' denn, muss i' denn, zum Stddtle hinaus
Stadtle hinaus und du, mein Schatz, bleibst hier,
Muss i' denn, muss i' denn, zum Stddtle hinaus
Stddtle hinaus und du, mein Schatz bleibst hier,
** Repeat
* Repeat
<さらばふるさと>の原曲は南ドイツ、シュヴァーベン地方の民謡である。
原曲「別れ」の歌詞は以下の通り。
Muss i denn, muss i denn zum Staedtele 'naus,
Staedtele 'naus, und du, mein Schatz, bleibst hier?
Wenn i komm', wenn i komm', wenn i wiedrum komm',
wiedrum komm', kehr' i ein, mein Schaz, bei dir.
Kann i gleich nit allweil bei dir sein, han i doch mein' Freud'
an dir;
wenn i komm', wenn i komm', wenn i wiedrum komm',
wiedrum komm' kehr' i ein, mein Schatz, bei dir!
訳詞:山本学治
1 遠い町へ今日旅立つ 旅立つ、おまえを残し
戻ってきたら真っ先に 真っ先におまえに逢おう
いつもそばにいられたら どんなに楽しかろう
戻ってきたら真っ先に 真っ先におまえに逢おう
2 わたしの門出をおまえは おまえはなぜにそう嘆く
きれいな娘見たとて 見たとて浮気はしない
心は変わらぬに どうして嘆く
きれいな娘見たとて 見たとて浮気はしない
3 葡萄みのる頃かならず かならず戻ってこよう
おまえが待っててくれたら くれたら一緒になろう
やがて年期があけて 二人の時がくる
おまえが待っててくれたら くれたら一緒になろう
小学校バージョンは以下のもの。
詞:夏目利江
1 さらばさらば 我がふるさと
ふるさと遠く 旅ゆく
さらばさらば 我がふるさと
ふるさと遠く 旅ゆく
いざ共にぞ忍べ しばしの別れ
さらばさらば 我がふるさと
ふるさと 今別れゆく
2 いつの日にか このふるさと
ふるさと訪ね 相見る
いつの日にか このふるさと
ふるさと訪ね 相見る
いざ思いを秘めよ 形見の胸に
山よ川よ ああ父母(ちちはは)
父母(ちちはは) またいつの日に
それにしても「涙くんさようなら」(浜口庫之助:作詞・曲、坂本九:歌)って曲、この曲に似てませんか?
日本オリジナル・シングル<さらばふるさと/ポケットが虹でいっぱい>はエルビス除隊後の第一作『G.I.ブルース』の挿入歌。エルヴィスを誤解させる要因のひとつとなった「映画」についても認識は様々だ。
この問題にはマネジャーであるトム・パーカーの功罪が浮上する。
しかし「ウエストサイド物語」や「スター誕生」に出演したとしてエルヴィスはどうなっただろうか?
「ウエストサイド物語」「スター誕生」の主演者がその後どうなったかを見るまでもなく、ありきたりなミュージシャン、映画俳優になったであろう。
シングル盤でリリースしたものはアルバムに収録しない主義(ベスト盤、サントラを除く)、エルヴィスをミッキーマウス(国民的アイドル)なみに扱った映画にしか主演させない主義。
「カリスマ」の追求においてトム・パーカーの巧さはあなどれない。
『地上より永遠に』でアカデミー助演男優賞を獲得したフランク・シナトラや『恐怖の報酬』に主演したイブ・モンタンにする気はさらさらなかった点を評価してもいいだろう。
斬っても血が出ないチャンバラワールド、東映時代劇で育ったという人は多い、荒唐無稽な日活アクション映画が「オレの青春だった」と語る人も多い。
東映時代劇のひとつひとつ、日活アクション映画のひとつひとつは黒沢明監督作品『用心棒』や『天国と地獄』に劣るのかも知れない。しかし「固まり」「塊」として人々の貴重な思い出になっているのは、選択肢が少なかった時代に「国民的娯楽」にまで凝縮されたそれらが生活の糧にすらなりえたからだ。
エルヴィス映画のめざしたものはそれであり、トム・パーカーの野望であった。その一方で、当時もいまも「エルヴィス映画」がエルヴィスの力量に適したものかというとそうではないことは万人の知ることである。その意味でエルヴィス映画の方向性を決定づけた『ブルー・ハワイ』はヒットしてはいけない映画だったのだ。
で、あるならエルヴィスはどうすればよかったのか?
年に数回のコンサートを行うレコード歌手に専念すべきでなかっただろうか?そうであったなら70年代の苛酷な活動にもつながらなかっただろう。
但し世界の多くのファンはエルヴィスの動く姿にお目にかかることはニュース以外にはなかっただろう。70年代ですらマニアックなファンはともかく一般の人が目にできたのは集中して登場したステージもの2作品とハワイコンサートだけなのだ。
いずれにしてもそのような「もしも」は”ファンのお楽しみ”以外に何の意味もない。
エルヴィスのすべての活動がいまのエルヴィスにつながっていることだけは間違いのない事実なのだ。
エルヴィス万才!いまのエルヴィスに不満ですか?エルヴィスに不満はない。が、しかし『ELVIS〜30#1 HITS』のヒットによって溜飲は下げたものの、日本の状況には依然として大いに不満であるからして、アドレナリンの流出不足に心配するこもなく、目にクマをつけてエルヴィス・パンダ族の一員としてファンのお楽しみに浸ることができる。
エルヴィスが木だったら世界中に植えただろうが、エルヴィスは木でない。
ビールとソーセージをテーブルに乗せよう。
少しボリュームをあげて<さらばふるさと>を聴けば、とっても幸福な気分になれる。