I
GOT A FEELIN' IN MY BODY
フィーリン・イン・マイ・ボディ
日石三菱のTVCMにエルヴィスらしき人物が出てくる。その物腰からすれば全く似ても似つかぬ御仁だが、看板に”THE
KING "と書いてある。
ブルース・ウィリスが出演しているCMは映画『スリー・キングス』を模擬した粗い画像のもので、最近流行のスタイルでなかなかカッコよく作ってある。しかしこのTHE
KINGは『スリー・キングス』のキングでもあるまい。キングは巷に溢れていても、”THE KING”と言えば、アメリカにはひとりしかいない。ましてジャンプスーツらしいものを着込んでいるのだ。
このCMはアメリカ人を愚弄しているのかと思ってしまう。当たり前である。その功績を称えてエルヴィスを”THE
KING”と呼ぶことにしたのは、アメリカ人である。
誇張されていることは別にして、エルヴィスが太っていたことは、全くデッチあげではない。事実他界する直前のコンサートがその姿を映し出している。しかしそれは病のためである。痛みに耐えながら、膨大なコストを支払うために、会社で言うならトップ自らが、現場で頑張っていたわけである。その抱えたミュージシャン、スタッフ、従業員の数はステージを見ただけでも半端な数ではない。それに裏方が加わるわけである。エルヴィスが他界した時の状況はギネス・ブックにも逸話として触れられている。病を押して痛みを散らしながら、ステージに上がっていたエルヴィスの真実を無視した上に、”THE
KING”の物腰がCMのあれでは、エルヴィスのみならず、アメリカ人、世界中のファンをバカにしていると思うのは無理のない話だろう。エルヴィスと並んでアメリカのシンボルであり、子供達の憧れのテーマパークである、ディズニー・ランドのスポンサーになっている企業らしくないことだ。日本を代表する企業が人を傷つけるCMを臆面もなく展開するのは寂しい限りである。
(ここまでの記事は日石三菱社「お客さま相談室」へメールにて連絡済み)
(同社より丁寧な回答を頂戴しましたので、は文末に記載しました)→コチラ
身体のことを言うなら、ある正月、ビートルズの『HELP!』が公開された年である。エルヴィスの映画『青春カーニバル』もロードショーされていた。
『HELP!』のキャッチコピーは「カラダをはって聞くメロディー!」と書かれてあったのが印象的だった。勿論<涙の乗車券><HELP!>など大傑作はこの映画のサントラだったし、ビートルズも好きだったので、鑑賞した。その当時にして、センスのいい映画だと思った。エルヴィスの古典的な使い古したパターンの映画と違うと感じたが、日本の映画会社が作った「カラダを張って聞くメロディー!」というコピーには違和感が残った。
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エルヴィスの『青春カーニバル』は、西部劇の現代版だ。馬の代わりにホンダのバイク(Honda
ドリームCP77) にまたがったエルヴィスが、義侠心で困っている巡業して歩くサーカス一座を助ける話だ。旅から旅への一匹狼はエルヴィスの実際には程遠いの役柄だったが、しかしハングリーな生い立ちからすれば全然嘘っぽくない役柄も定番だった。
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後に見ることになる70年代の、あるいは当時見たことのない50年代のコンサートのような激しい動きはなく、淡々とストーリーは進む。しかしそこにはビートルズの無機質な映画にはない「肉体」があったように思う。
『ガール!ガール!ガール!』『恋のK・Oパンチ』から始まって、『アカプルコの海』『ラスベガス万才』の熱狂を通過してのエルヴィスだった。そのどれもがアメリカを内包していた。そのどれもが明るさを発していた。エルヴィスの身体からである。<心のとどかぬラヴレター>のカッコよさは肉体から発信された「生」だった。正確には肉体からしか発信されない「生」だった。全身が弾んでいた。<広い世界のチャンピオン>を歌う指から脚から伝わる「潔さ」、<アイ・ガッタ・ラッキー>の「希望」、<すてきなメキシコ>の「幸福感」、<好きだよ、ベイビー>の「開放感」これらはみんなエルヴィスの全身を通してしか伝導されなかったものだ。
あらゆる音楽が嫌いだった自分をレコード店に通わせたのは、エルヴィスの身体の力だった。その身体には、オリジナリティが潜んでいた。アメリカの青春ドラマから流れてくるメロディはエルヴィスの音楽とは異質だった。サーチャーズとかが主題歌を歌っていた『カレン』という番組もそのひとつだ。なぜか自分の聞いている音楽と違って軽く白く清潔感に溢れていた。
その当時どうして自分のプレーヤーから出てくる音と違うのかよく分からなかった。同じアメリカ人が歌っていて、青春ドラマなのに、それらとは全く違い、なぜ自分のはこうも粘っこいのだと不思議だった。不思議だけどそれが好きだった。
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リッキー・ネルソンはウェスタン・ブームの時にリヴァイバル作品『リオ・ブラボー』で初めて見た。ディーン・マーティンとの歌うコンビは主演のジョン・ウェインと共にガンファイトを見せていた。やはりジョン・ウェインの『史上最大の作戦』にはチョイ役でポール・アンカら人気歌手が出演していた。アメリカ人が「デューク(公爵)」と呼んだ男、愛する女に”アイ・ラブ・ユー”と言わなかった男、ジョン・ウェインも、身体で話していた。『駅馬車』は大昔の映画だけど、自分が年を重ねるごとに、やっとその素晴らしさが分かって行った。砂漠にポツンと咲いた花のような、ささやかな思いやりを全身で表現していた。ジョン・ウェインは、演技らしい演技もせずに、どの映画も青シャツか赤シャツが定番だったが、10ドルするかしないようなシャツをこの上なく身体を表現する道具にしていたのだ。
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ビートルズ、ローリング・ストーンズらリヴァプール・サウンドは押しても動きそうにないアメリカの「デューク」の脇を固めた人気歌手をはじめヒットチャートにたむろしていたシンガーらをみんな吹き飛ばす勢いで登場した。それでもアメリカ人が「キング」と呼んだ男、エルヴィス・プレスリーだけは誰が決めたか知らないが「ライバル」として輝いていた。
しかし実際にはライバルという気はしなかった。あまりにも違いすぎたからだ。エルヴィスはいつも、みんなと違いすぎたのだ。それはサンレコードなどで聞くことのできるカール・パーキンスやジェリー・リー・ルイスとは同じカテゴリーに分類されたりはするけれど、ジェリー・リー・ルイスはあまりにリトル・リチャード的であり、カール・パーキンスは白い。それはそれで魅力的であるが、エルヴィスのオリジナル性とは遠いのだ。
ライバル視されたのは「人気」の点、あるいは後になっては「セールス記録」なのだ。両者が正面衝突した唯一の曲「のっぽのサリー」は聴き比べた。ビートルズのシャウトしまくりのサウンドは印象的で大好きだったが、エルヴィスのものとは異質すぎた。この2つをどう比較すると言っても、比較にならなかった。ロックンロールをうるさくやれば、優れたロックンロールというなら、質というものを度外視して「大盛り御飯はごちそう」というのと同じだ。それでは寂しい。
この異質をうまく言い当ててくれたのが、紙ジャケット盤『エルヴィス・イン・ニューヨーク』のライナーノーツだ。 |