オールスター映画『オーシャンズ11』には
エルヴィス映画『バギー万才』から<おしゃべりはやめて>が使用されている。
サントラに使用されているのは『68年カムバックスペシャル』バージョンのものだ。
あいにく、まだ映画は見ていないが、サントラ盤は他の音楽と見事にマッチして、
いま聴いても時代の古さを感じさせない。
この曲は当時好きでなかったが、生き生きした感じはさすがだ。
映画にエルヴィスの歌が使用される頻度が増えている。
著作権の問題で使用料が安くなってきているのが大きな要因だろうが、
どのような使用でそのような効果を出すのか、これからますます楽しみだ。
映画『グレイスランド』では、エルヴィスの曲が3曲。冒頭に<陽気に行こうぜ>、
その後クライマックスまでなく、<明日への願い>がクロージングに使用される。
この曲の扱い方で、すごいと思うのは、
クライマックスで<ロング・ブラック・リムジン>が流れると一気に画面の印象が変わる点だ。
音の空気が全くそれまでと違うのだ。
何度見直しても一気に変わるのだ。
その原因はなにより「声の強さ」と「圧倒的な表現力」にあるのではないか?
There's a long line of mourners
Driving down our little street
Their fancy cars are such a sight to see, oh yeah
They're all yovr rich friends who knew you in the city
And now they've finally brought you
Brovght you home to me
When you left you know you told me
That someday you'd be returning
In a fancY car all the town to see
Well, now everyone is watching you
You've finally had your dream
And you're riding
In a long black limovsine
You know, the paper told how
You lost your life
The party, the party and the fatal crash that night
Well, the race upon the highway
Oh, the curve you didn't see Well, you are riding
In that long black limousine
Through the tearful eyes I watch As you ride by
A chauffeur, a chauffeur at the wheel dressed up so fine
Well, l'11 never, l'll never love another
Oh, my heart, oh, my dreams are with you
In that long biack limousine
They are with you in that Long black limousine
They are with you in that Long black limousine
先週、<ジョニー・B・グッド>を取り上げたが、
チャック・ベリーの良さは声を抑えた歌唱に、その心情が託されているかのようで、
彼の作品の魅惑的な部分である。
反対にリトル・リチャードはご存じのシャウトしっぱなしのハデハデ。
エルヴィスはリトル・リチャードのほどにはハデハデではないが、
いわゆる色気、華があり、強く太い声を中心に高く駆け昇ったり、
もぐってしまうほどに低空飛行したりを自由自在にやってのける点にあり、
それはほとんどの人が真似できないものであることも周知の事実だ。
なかでも「声の強さ」こそエルヴィスの生命力を象徴といえるほどに、
ソウルがこもっている。それが『グレイスランド』のクライマックスを見事に決めている。
ピエロは『グレイスランド』をエルヴィス映画と受け止めている。
その理由は印象的な映画音楽、サントラとして使用される
素晴らしい心に残る歌曲は数あるものの、
これほど歌曲がストーリーを語るとなれば、
その意味ではミュージカルの領域である。
逆にエルヴィスがテーマでない映画にこれほどインパクトがあれば、
音楽が映画を壊してしまう。
『キャスト・アウェイ』では壊さないようにしか使われていない。
しかし『グレイスランド』や『グレイスランドまで3000マイル』では
エルヴィスの歌がストーリーを語っている。
しかも内容的にシリアスな人間ドラマである『グレイスランド』の場合は、
エルヴィスの声の強さが生きることの
厳しさと厳しいからこそ喜びもあることを語っていて、
それは見事である。
『グレイスランドまで3000マイル』での
<サッチ・ア・ナイト><ワン・ナイト>は危険がセクシーといわんばかりにエロチックですらある。
これも歌がストーリーを表現していて、凄い。
いずれも「エルヴィスの生命力」が画面いっぱいに漲っている点は
注目を超えて驚愕であると言っても過言ではない。
それはそれぞれの監督の才能でもあるのだろうが、
元々生命力が弱いものを強くみせることなでできない。
正直言って<明日への願い>は
自分の中で複雑な曲(エルヴィス)である。
第一に曲が登場した時の違和感がいまも残っている。
この当時はおよそエルヴィスらいからぬ曲であったはずだ。
時代背景、エルヴィスの状況などがしっくりしなかった。
第ニにその印象を強めるかのような68年カムバックスペシャルで歌っているシーンである。
将来は分からないが、少なくとも今日までは、
あのシーンは嫌いなのだ。自分自身のボキャブラリーのなさに起因しているのだが、
白いスーツにはじまって、
あまりにも作られたそれらしい感じが「等身大」でないように感じてイヤなのだ。
しかし『グレイスランド』での<明日への願い>は素晴らしく感動的で、
エルヴィスの声が胸をガンガン叩くのだ。
これはあくまで個人的な感じ方だが、
エルヴィスは『68年スペシャル』と『グレイスランド』の過程で
自然と<明日への願い>が自然体で似合うようになったのだと思う。
それはエルヴィスの生命力は一層強くなったということなのだろうか?
人間的成長か。
ともすれば末期のエルヴィスは活力のなさのみが云々されがちだが、
そうだろうか?
グレイスランドのエルヴィスが「誰もいない」と言って泣き崩れるように、
実生活でも苦しみはあったであろうが、
その一方で「やり直しはできるんだ」と
突進することをすすめる活力を最後まで見せていなかっただろうか?
ラスト・ステージでどうみても、
体調が悪そうなエルヴィスを見た時に愕然とした、
あれだけのスターであり、見られることへのこだわりを持ち続けていたエルヴィスが、
辛かったろうにと思うと胸が痛む。
しかしエルヴィスはサバサバとした何をも恐れていないような表情を終始見せていて、
さらに父親バーノンの紹介、恋人まで紹介したのにも驚いた。
その姿と『グレイスランド』で
「オレに分かるのは自分を許すことだ」と語る場面がオーバーラップする。
『グレイスランド』での重要な場面(墓地でのやりとり)
「不思議な出会いだ。
おれを乗せてくれたトラック運転手は
お前と同じ悲劇で苦しんでいた。 -------
人は苦しみから逃げたがる。
自分を責めるんじゃない。----------------
オレに分かるのは自分を許すことだ、愛する女や神も許せ-----。」
トラックの運転手ってエルヴィス・アーロン・プレスリーで、
お前って世界の人々のことでないのか、
ふたつの点を結ぶ、
ここでのハービー・カイティルがスター、
エルヴィス・プレスリーであるように思えるのだ。
墓地の場面からセレモニーの場面へ、
エルヴィスの将来を暗示するかのような楽曲になってしまった
名曲、名唱<ロング・ブラック・リムジン>が象徴的に使用される。
この映画がまるごと礼服に着替えをするかのような印象だ。
愛をたっぷり含んだ使われ方は、
この曲、エルヴィスにとって、あたたかいハグを感じることだろう。
悲しみにくれる人々の長い列が
細い通りを車で通り週ぎる
その酒落た車の行列は、目をみはるような光景さ
みな、君が都会で知り合った友人なんだね
そして、彼らはやっと君を僕のもとに返してくれた
君は言ってたね、ここから離れる時に
いつか町中が目を丸くするような
いかした車で帰ってくるんだ、と
そして今、みんなが君を見てるよ
やっと夢が叶ったね
君は乗っているんだ黒く、長いリムジン(霊柩車)に
新聞にのっていたよ、君のこと
どうやって命を落としたのかってことが
あの夜のパーティ、その後の事故
ハイウェイを飛ばしていた君は
カーブを見落とした
そして今、君は乗っている
黒く、長いリムジンに
僕は涙の溢れる目をこらしながら
君が車で運ばれていくのを見ている
運転席には立派な身なりの運転手
もう誰も、もう誰も愛さない
僕の心も夢も、君と共に
あの黒く、長いリムジンの中にある
何もかも君と共に
あの黒く、長いリムジンの中にある
何もかも君と共に
あの黒く、長いリムジンの中にある
クライマックスで
「おれはこんなにみんなから愛されていたんだ、
このままでいいんだ、彼等の心の中に生き続ける」
と呟くシーンはエルヴィスの旅路を逆に辿るに十分すぎる台詞である。
エルヴィスは最後まで「生命力」を届け、
そしてラスト・ステージで、つまり最後に本当の意味での「お礼」を言ったのだろう。
「ボクの生命力を高めてくれたのはみんななんだよ」と。
「いろんなことがあったけど、僕は僕を許してあげたいんだ、
みんなも自分を責めずにいておくれ、
もし責めたくなったら、僕を思い出して。
僕の歌を聴いて立ち上がるんだ。-----
僕は僕はほら、僕をこんなに許しているんだから-----。」
と言っていたような気がするのだ。
エド・サリバンに、フランク・シナトラに、
アメリカ合衆国に、癒されたことでエルヴィスは、
人生の大きな転機を迎える。つまり入隊〜復帰の期間である。
癒されたエルヴィスは癒すことに喜びを感じる。
そのはじまりがプリシラであったように思う。
それはやがて全世界のファンへまなざしを移しながらエスカレートしていく。
癒すことで癒される人生。そして最後に自分を癒すことで癒される時を迎えたのだ。
それがラスト・ステージのエルヴィスである。
実は責める必要等何もなかったのだが、
理不尽にもエルヴィスにはそう思えたのだ。
なんであれ、それがエルヴィスの人生であり、
そこから生まれた数々の歌声なのだ。
「もう自分を許してあげていいんだよ、エルヴィス」と
言ってあげたいラスト・ステージである。
『グレイスランド』のラストシーンでハービー・カイティルの演じるエルヴィスが
<明日への願い>をバックに
”ネーム イズ ELVIS”と言って手を差し伸べる姿こそ、
エルヴィス永遠の真実であり、
ここでの<明日への願い>は等身大のエルヴィスである。
貨車に乗ったエルヴィスはいまも名前を語り、手を差しのべている。
「オレに分かるのは自分を許すことだ、愛する女や神も許せ-----。」と。