自分探しのゾンビにならずに、自分を忘れて花も実もある200年婚するには、「ヒトは本来無一物」が本分であることを認識しましょう。そして誰でも「いま、ここ、この瞬間をマインドフルネスする」しかワザがないのです。マインドフルネスになりきるのが「自分忘れ」の極意です。
ついでに、<マインドフルネス>とは瞑想のことではありません。<マインドフルネス>な状態になるために<マインドフルネス瞑想>という行為もあるということであって、<マインドフルネス>と<マインドフルネス瞑想>は似て非なるものです。
長い200年婚も、スキルを磨いて取り組む<ライフシフト>も、課題は違っても、マインドフルネスな状態を繰り返して、いきいき 暮らすには、自分忘れをするのがお勧めです。
ワザというのは、知恵でも智識でもない、身体をフィルターにした実践でしか使えないのです。
自分を使い切ることに、ヒトの本来があり、マインドフルネスの本来があります。
自己マスタリーを体現する職人さんの棟梁が歩んだ道がそうですね。
大好きなヒトに『太古から続くあなたのもともとのいのちを一緒に使い切る役が当たりました!』・・そう言ってみたいですね。
あなたの願いを実らせるゲンキポリタン、Naoman-Minoruが、
避けられない2極化が待つ日本で、あるいは海外で、200年婚の今と行く先を占います。
たとえば冷蔵庫にある醤油を使い切らずに捨てたら、バターを使い切らずに捨てたら、「もったいない」といいます。これと同じで自分を使い切らず、自分を捨てたら「もったいない」ですね。
しかし世の中には、自分を使わず捨てている人が溢れています。
執着心まみれで自分の塊のような人に、「いま・ここ・この瞬間にやれるだけやってしまう」ことはできなません。
ヒトは本来無一物(ほんらいむいちもつ)・・・”人間の身心の生まれたままの本性は元々ピュアなもので菩提だの明鏡だのといった言葉で解説したり、思慮で推し量ろうとするまでもない”存在。
難しいことではありません。当たり前だけど、いちばん大事なのはお金でも学歴でも、いわゆる道具ではない。愛情。仏教では「慈悲」といいます。ヒトを思いやる気持ちです。しかし執着まみれで慈悲を踏みにじるヒトが増えています。
ヒトにできることは、「いま・ここ・この瞬間にやれるだけやってしまう」ことだけです。
たったそれだけしかないのに、執着が執着を引き寄せる暮らしを続けて、執着の海に溺れ、執着に沈もうとして、自分を忘れたヒトの脚を引っ張って、ただ「ウォーッ!!」と叫ぶ。つまりゾンビ!
そして執着する苦しさから逃げ出そうと別のことに執着する、執着がどんどん増えていくと依存に比例してストレスまみれになります。それを借り物のカッコよさで、覆い隠してただ生きているだけに満足する。やがて子育てに失敗し、家庭も会社も国も滅びる民度になる。民主主義は民度に依存した制度だから、状況はますます悪化します。
悟りに達するただパートナーを応援したい
「よし、ついに悟ったぞ!」と言っても、悟りとは気づきの実践でしかないのです。
あるがままの自分になりきるとは、「本来無一物」になった状態です。
清掃は、「本来無一物」になるスイッチです。
無心で清掃する。ピカピカなのに磨いている。これが清掃というわけです。
気づきのない者に悟りはない。つまり実践は期待できないので、ヒトとしての限界になる。
二極化の下層に落ちるしかないので、選べない人生を死ぬまで続けるか、強盗にでもなるしかない。なので犯罪者は増加するので、上層のヒトは地域から逃げ出す。
SNSで芸能人のスキャンダル探しをする主婦、
ポケットからモノを落としたフリをして捨てている若い娘、
コーヒーショップで他人を押しのけて走り、傘を椅子にひっかけて座ろうとする人から席を奪う女、
「いま・ここ・この瞬間」にやれるだけやろうとしないのは、すでに下層の条件をクリアした女性たち。いま、子供のためになることしたらどうなの、旦那さんのことを考えたらどうなのと思うが、終わっているとしか思えません。
その上でどのようにするかの「戒律」がある。これをやったらおしまいだよ、という自律がある。
200年婚「その役が当たった!」
愛するとは、自分より大切な存在を守ることです。
『太古から続くあなたのもともとのいのちを一緒に使い切る役が当たりました!』と言いたいですよね。
あなたはあなたのままでいいのだから、そのまま成長してくださいね。
その想い、つまり慈悲の実践は、掃除に表れます。
慈悲は励まし、励まし続けられるように、自ら精励することです。
「本来無一物」の精神を学ぶのに最適な「清掃」
禅とどんどん離れる現代の暮らしでは清掃は、週に1回ですが、清掃の本質は心身の鍛錬です。
だからジム通いが不要になる。最近では塾があるからという理由で、お葬式に孫がこない事例も増えているそうですが、こんなことをしていると正しい判断ができなくなり、体が成長するにつれ自分さえよければ良いという人間になります。他者は自分にとって都合の良いヒトか悪いヒトか、味方か敵か分別するようになります。暮らしは学びの場そのものなのです。
アップルの創始者、スティーブ・ジョブズの成功は、禅なくしてなかったことです。
若い時に、彼はヒッピーの良い面を薫習。富や物には関心がなく、禅の作務衣を真似たような服装に表れています。家にはベッドしかなかく、死ぬまで本来無一物の精神を学んだ禅ヒッピーだったといいます。
本来無一物と慈悲
1968年に刊行された「全地球カタログ(The Updated Last Whole Earth Catalog: Access to Tools
スティーブ・ジョブズ氏は、自分が創業したアップル社を退任させられた後、瀕死のアップル社に迎えら「家貧しくして道富む」の諺にあるように、違った見方で、ヒット商品を連発、今日の基礎を作りました。
- 執着しないために捨てる。
- 物があるのが当たり前とは考えない。
- 持たない工夫を楽しむ。
ジョブズ氏は、復帰すると、生産ラインを大幅に縮小。もっともベーシックな商品にアイデアを満載い、コストのかからない、しかし全くこれまでと違う ”iMac”を安く販売して、大ヒットさせます。ここには、「本来無一物」をはじめ、禅の思想が色濃く反映されています。
禅寺では「やったことがないからできない」という理由は通用しません。
過去の事例にも執着しないで、身体をフィルターにした知恵や工夫を総動員して実行します。
失敗したら、さらに工夫が生まれます。有名なThink different.のキャッチフレーズで以後続々とヒット商品を投入します。Think different.とは、固定概念をなくして新たな発想でコンピュータを作り、使ってもらうという自身の思想を反映したものです。つまり気づきを実践すれば、身体を通して「悟り」になる仕掛けです。
それが非常に大事なことなら、やるしかない。たとえ失敗の可能性が高くてもね。
この世に200年愛はあっても、AもBもCも、アもイもウもない。他人の正体不明の価値観、評価を鵜呑みせず、己れも捨ててただ日常に没頭すれば、天にめされる前に、すでに自分はいなくなります。
持たない工夫を楽しむ力は、それが縁起のシンクロニシティのエネルギーになるんだ。
白隠禅師の教え
丹田呼吸法を伝えた白隠禅師は「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」という言葉を残しています。
静中とは坐禅修行、動中とは坐禅以外(=作務)の修行のことです。
では「工夫」とは何を意味する言葉でしょうか。一般には「最善の結果を求めて、考えられる限りの方法を尽くすこと。その方法。のことですが、白隠禅師の意味する工夫とは「禅定」あるいは「精進」に通じる工夫でしょう。禅定とは、心静かに瞑想することで得られる心の安らいだ状態です。
静中の工夫、つまり坐禅修行における工夫を考えると、考えごとをしなさでないことは明らか。
「動中の工夫は静中に勝ること百千億倍す」とは、無心に取り組んでいれば、公案同様に自然に湧いてくる、あるいは天から降りてくるということではないかと思います。
本心から「200年婚」を営んでいたら、慈悲が磨かれ精励も進み、自分になりきり、使い尽くすだろうということです。清掃は、愛情溢れる暮らしのそのルーティンなのです。
マインドフルネスでケ・セラ・セラ
200年婚の真髄はいま、ここ、この瞬間をマインドフルネスになりきって、あれこれ悩まないことです。
ヒトは「本来無一物」です。自分さえないのです。
自分を忘れて、ケ・セラ・セラ。
自分になりきり、自分を使い切るために、執着心を捨てるのです。
執着心を捨てられないからモノが捨てられないので、どんどん自由を失います。
マインドフルネスになりきれる状態は、心の貧しい日々を駆逐します。
自由で豊かなライフシフトの座右の銘は「なるようになる(ケ・セラ・セラ)」です。
自分でコントロールできることと、コントロールできないことに分けて、余計な悩みを抱えず、「いま・ここ・この瞬間にやれるだけやってしまう」のです。ヒトはそれしかできません。
「いま・ここ・この瞬間にやれるだけやってしまう」のを楽しんでいる名人はこどもたちです。
自由で無邪気な子どもであることを許された愛着の絆を結んだ子どもは、マインドフルネスな状態で暮らしています。
その立ちふるまいが「すてきな奥さんですね」「ステキな旦那さんですね」と言わせるのは、自由で無邪気な子どもでいる大切さを知っているからです。
「200年婚の秘訣」です。誰にも似ていない人生はすてきですね。
200年婚とは、いま、ここ、この瞬間に没頭、「いのち」を養いながら、戒律のランウェイを歩み重ねて、心身を高くそびえた気持ちにして、静まり返った空の下にマインドフルネスな状態で住み、自分を使い切る「ケ・セラ・セラ」の精神を自律した身体で実践します。
なんと超過激なようで、自然なワンダフルです。
When I was just a little girl
I asked my mother
What will I be
Will I be pretty
Will I be rich
Here’s what she said to me
私がまだ少女だった頃
母に尋ねたの
私は何になるのって
可愛くなれるかな
お金持ちになれるかなって
母はこう言ったわ
Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future’s not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be
ケ・セラ・セラ
なるようになるわ
未来は誰にも分からないけど
ケ・セラ・セラ
なるようになるわ
When I grew up and fell in love
I asked my sweetheart
What lies ahead
Will we have rainbows
Day after day
Here’s what my sweetheart said
大人になって恋に落ちて
恋人に尋ねたの
この先に何があるのって
虹を毎日見れるかしらって
恋人はこう言ったわ
Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future’s not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be
ケ・セラ・セラ
なるようになる
未来は誰にも分からないけど
ケ・セラ・セラ
なるようになるよ
Now I have Children of my own
They ask their mother
What will I be
Will I be handsome
Will I be rich
I tell them tenderly
今 母になった私に
子どもたちは尋ねる
将来何になるのかって
ハンサムになれるのか
お金持ちになれるのかって
私は優しく答える
Que sera, sera
Whatever will be, will be
The future’s not ours to see
Que sera, sera
What will be, will be
Que Sera, Sera
ケ・セラ・セラ
なるようになるわ
未来は誰にも分からないけど
ケ・セラ・セラ
なるようになるわ
作詞:レイ・エバンズ(Ray Evans)
作曲:ジェイ・リビングストン(Jay Livingston)
清掃という毎日のルーティンがもっとも簡単な方法です。
まとめ
汚れたから清掃するのは清掃ではありません。
清掃は自分を大切にする戒律を凝縮したもの。
汚れていなくても塵、埃を払い、磨きをかけるのが清掃です。
ここは子ども達が走る場所だから、石ころやモノを除去しておく心に似て、パートナーがランウェイ(Runway)を歩くと思って、煩悩を払うように、愛情こめて磨きます。
磨けば磨くほど自分忘れが進みます。
「すてきな奥さん、旦那さんですね」と言わせるのは、出所も曖昧な他者の価値観や評価に惑わされることなく、ふたりが誰にも似ていない自分たちの人生を歩んでいるからです。
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