エルヴィスがいた。1954~1977

エルヴィス・プレスリー コレクション



エルヴィス・プレスリーは神と王様にされた。どちらでもなかった。
彼はもっとアメリカ的な何かであり、僕が思うには、もっと英雄的な何かだった。
エルヴィス・プレスリーは夢と幻想の新しい広大な風景に挑んだ探検家だった。
彼は自分の夢の最高のものが実現しないと言われることを拒み、他の誰の概念にも定義されることを拒んだ男だった。
これは民主主義の目的地であり、あらゆる将来のアメリカの英雄が出発する旅の目的地だ。エルヴィスがその旅の大半を彼ひとりでやり遂げたことは、僕らの中で最も勇敢な人のために取ってある栄誉と愛情と共に彼を記憶しておくのに充分な理由だ。ディブ・マーシュ(音楽評論家)

死ぬまでに聴きたいエルヴィス・プレスリー

サンレコード

エルヴィス・プレスリー Elvis Presley

エルヴィスがいた。1954~1977

エルヴィスからはじまった

エルヴィス・サン・セッションズ

エルヴィス・プレスリー自身は、その人柄から、そう呼ばれることを好まなかったと伝えられているが、その名の通り、ロックンロールを音楽として世界に広めるだけでなく、人種の壁を打ち壊した人物として知られている。世界の大衆音楽のみならず世界の文化を変え、人類の思想にまで多大な影響を及ぼしたカリスマである。

1954年、アメリカの地方でデビューしたエルヴィスは、その個性と才能を認められ、1956年テレビに初出演をする。

激しい人種差別が平然と行われていたアメリカ社会に衝撃が走った。白人でありながら黒人のようなパファーマンス、ファッションセンス。

・・・真似ているのならジョークで終わった。ところがそうはいかなかった。

エルヴィス21才、彼はオリジナルだった。エルヴィス・プレスリーの音楽と存在は大人たちを震撼させた。つまりロックンロールが世界的に市民権を持う上でロックンロールとエルヴィスは切り離して考えることはできないが、ロックンロールがなくてもエルヴィス・プレスリーの存在そのものが社会的に深い意味を持っていた。

エルヴィス・プレスリーの多彩なギネス記録が、それを証明している。

エルヴィス・プレスリーとは何者だったのか

ザ・キング・オブ・ロックンロールのギネス記録

The Century of Artists

The Century of Artistsの異名を持つ「キング・オブ・ロックンロール」エルヴィス・プレスリーのギネスづくめの経歴をご紹介します。でもエルヴィス・プレスリーがキング・オブ・ロックンロールと呼ばれる由縁はギネスホルダーだからではありません。デビュー以来またたく間にヒット曲を連発したこともありますが、唯一無二の存在であり、アメリカを体現していただかです。

  • レコード売上記録世界一
  • 最も成功したソロ・アーティスト
  • 最も長時間ナンバー1にエントリーさせたアーティスト
  • 全米ナンバー1アルバム
  • 最多ヒットシングル記録(151回)(全英100曲)
  • ナンバー1最長保持曲/11週「冷たくしないで」
  • 最も訪問される墓/エルヴィス・プレスリー(グレイスランド)
  • 最もファンクラブの多いアーティスト

レコード売上記録30億枚以上は世界一。

CD/レコードの総売上は正確な数を把握できていないが、1977年に「6億枚以上」、死後数ヶ月間だけで「2億枚」、1985年に「10億枚以上」という推定数字が発表されている。現在は30億枚と言われ、世界NO.1といわれている。

最も成功したソロ・アーティスト/エルヴィス・プレスリー

全米ナンバー1シングル19曲(全英18曲)
グループでは全米ナンバー1シングル数はビートルズの20曲(全英17曲)に対し19曲(全英18曲)だが、ナンバーワン滞在時間ではソロ、グループ合わせてビートルズの59週を大きく上回る80週で最長。

最も長時間ナンバー1にエントリーさせたアーティスト/エルヴィス・プレスリー80週

全米ナンバー1シングル数はビートルズの20曲(全英17曲)に対し19曲(全英18曲)だが、ナンバーワン滞在時間ではビートルズの59週を大きく上回る80週で最長。

最多ヒットシングル記録(151回)(全英100曲)

全米ナンバー1アルバム9作(全英6作)全米トップ10では25作、トップ20は38作、トップ100は74作

最多ヒットシングル記録(151回)(全英100曲)

ナンバー1最長保持曲/11週「冷たくしないで」

エルヴィス・プレスリーの「冷たくしないで」11週がトップ。

一日に売れたレコード枚数の最高(死の翌日)、2000万枚以上がギネスによって認定されている。
エルヴィスが他界した翌日の1977年8月17日に売れた枚数は2000万枚以上に達した。
1人のアーティストの1日の販売記録としては最多。

死後の印材
米経済誌フォーブスは、2005年10月27日に、2004年10月から1年間の故エルヴィス・プレスリーの印税等の収入は4500万ドル(約51億9000万円)であったと発表した。

最も訪問される墓/エルヴィス・プレスリー(グレイスランド)

エルヴィス・プレスリーのお墓まいりの訪問した人々の列

エルヴィス・プレスリーが住んでいた邸宅「グレイスランド」の庭にある墓には、毎年世界から70万人を超える人が訪れる。1995年は753965人が訪れ最高記録となっている。

最も訪問される墓/エルヴィス・プレスリー(グレイスランド)

最もファンクラブの多いアーティスト/エルヴィス・プレスリー

エルヴィス・プレスリーの邸宅に訪問した人々からのギフト

現在活動中のものだけで世界に480のファンクラブがあり、音楽業界では最多。サウンドトラックとして収録された「GIブルース」「アカプルコの海」などで外国語(ドイツ語・メキシコ語)の録音が一部あるが、米国以外のコンサートはカナダだけという事実からすれば驚異的だ。

エルヴィスは故人長者番付で2005年まで5年連続でトップを維持し、今なお伝説的な存在であり、カリスマの偉業をいまも証明している。

尚、2006年10月25日発表の故人長者番付では、カート・コバーンに抜かれ2位になったもののおそらく今年はトップに返り咲くだろう。

エルヴィス・プレスリーはロックンロールの思想の礎を築いた正真正銘のカリスマであり、スーパースターであって、いまもその地位は揺らがない。
エルヴィス・プレスリーの多彩なギネス記録が生まれる背景には、エルヴィス・プレスリーの生と死が息づいていて、時に愉しく時に悲しい。
エルヴィス・プレスリーの人生は、肯定的な中に、いくつものギリギリの偶然が宿命的に重なっている。

晩年はその偶然によって仕組まれた構造が一気に崩れ落ちる悲劇でもあったが、ほとんどの人は、いかにしてその構造が作られ、それがひとりの人間に対してどのような意味を持ったのかについて理解していない。もし正しく理解すればするほど人間には避けがたいことがあると知ることによって、自分の人生を肯定的なまなざしでとらえることができるだとう。
そして絶対的な肯定の中にも悲劇は存在することを知る。つまり絶対的な否定の中にも幸福は存在するということでもある。


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エルヴィス・プレスリーの生い立ち

エルヴィス・プレスリーが生まれた家

エルヴィス・プレスリーは父はヴァーノン・エルヴィス・プレスリー、母グラディス・ラヴ・スミス・プレスリーを両親に、1935年1月8日午前4時35分、ミシシッピ州イースト・テュペロの小さな家で生まれた。(ショットガン・ハウと呼ばれる家はいまも保存されている)

双子の兄ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが死産だった。

すべてはそこから始まる運命的な誕生だった。
エルヴィスはイースト・テュペロで幼年期を過ごす。
生活苦から父親が詐欺罪で留置所に入ることがあり、エルヴィスの気持を傷つけた。
母グラディスは死産への罪悪感、生活への不安、孤独感からひとり子となったエルヴィスを溺愛した。すでにエルヴィスはそんな両親を将来自分の力によって楽にさせたいと考えていたという。エルヴィスは1946年1月8日、11歳の誕生日にイースト・テュペロの雑貨店(現存)で母親から買ってもらったギターで熱心に遊んだ。

1947年12歳のエルヴィスは黒人居住区の白人住宅に転居する。黒人の暮らしと音楽が身近にあった。生活保護を受けなければならない貧しさのなかで、愛されながらも、幼少の頃から自分を抑圧する習性が身についてしまったと考えられる。
このアンバランスがエルヴィスの人格形成に大きな影響を与えた。1948年11月6日、13才の時に一家は新天地を求めてテネシー州メンフィスに引っ越しをする、

1949年に一家はメンフィス市内のロウダーデール・コート公営住宅に転居する。

ブルースで有名な盛り場ビール・ストリート、エリス・オーディトリウム、サン・スタジオといったメンフィス・ミュージックや文化的な影響を受けた施設から1マイル程度の距離であった。

エルヴィスはロウダーデール・コートの地下洗濯部屋でギターの練習をした。
エルヴィスはそこに住むミュージシャン達と演奏を行った。
1953年6月3日にエルヴィスはヒュームズ・ハイスクール卒業、その7月1日からW・Bパーカー機械製作所で働き、7月18日に自費でレコードを作る。その2ヶ月後び転職。

翌1954年4月、19歳になってクラウン・エレクトリック社のトラック運転手となる。7月5日サンスタジオにて「ザッツ・オールライト」を録音。7月8日メンフィスのラジオ局で話題になる。高校を卒業後、最初のパーソナルレコード制作から1年だった。真偽は定かでないと思うが、スコットランド人作家アラン・モリソンによると、エルヴィス・プレスリーの血筋はユダヤ人の血を継承したスコットランド系であったと主張している。

アラン・モリソンはその著書でエルヴィスの先祖であるアンドリュー・プレスリーが1713年にロンメイでエルスペス・レッグと結婚していて、その息子アンドリューが1745年にイギリスの植民地に移住した記録があるとしている。

「カントリー、ブルース、R&B、ロックンロール」と人種隔離

ブルースは黒人によって、黒人音楽と白人社会の音楽であったカントリーミュージックが融合されたものだ。
ブルースがブルースである最大の所以はブルー(憂鬱)なハ-トで歌われる点にある。
リズム&ブルースはブルースにリズムが加わったもので、ロックンロールは白人のリズム&ブルースである。

1950年代のアメリカでは音楽さえも人種隔離的な扱いを受けていて、ラジオ局も白人専用、黒人専用に分れていた。
当時のロックンロールのナンバーには、黒人の曲を白人がカバーし、そのカバー盤が白人専用ラジオ局を通して放送されたものも多くあった。
レコードのセールス記録によってヒットチャートに掲載されるのはいまも当時も同じだが、同じ楽曲でも黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースのチャートに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンにチャートに分類されることが一般的だった。

エルヴィスのデビュー盤「ザッツ・オールライト」「ブルームーン・オブ・ケンタッキー」はいずれも原曲はカントリー・アンド・ウェスタンであり、カントリー・アンド・ウェスタン部門にチャートされるものだが、フィーリングは黒人的であった。
さて、黒人的フィーリングといっても、原曲はカントリー・アンド・ウェスタンであり、エルヴィスは黒人の歌い方をしているわけでもない、しかしもっと明白に白人的ではない。
ではどこが黒人的なのか?
ひとつには白人にはない力のある声、しかもエルヴィスの声は甘さを含んでソフトで、ゴージャスでメリハリのある声が特長的だ。

そしてもうひとつ、ハート・・・ブルーなハートである。これら唯一無二とも言えるエルヴィスの特長によって、黒人のように歌える白人歌手としてエルヴィスはサンレコードの白人オーナー、サム・フィリップスに発掘された。間違ってはいけない点がある。
黒人のように歌える歌手と、黒人のように歌える白人歌手とは同じ意味ではない。
サム・フィリップスはサンレコードで黒人のレコードを世に出しながら、もし黒人のように歌える白人歌手がいたらきっと売れる、儲かると考えていた。

リズムやメロディだけを使い、心はまんま白人・・・パット・ブーンが歌った「トゥッティ・フルッティについて黒人ミュージシャン、リトル・リチャードが怒りを隠さなかったのは、人間としての尊厳を無視したからに他ならない。
サム・フィリップスにはそんなレコードを出すつもりはなかった。

エルヴィスが多くの大物ミュージシャンから尊敬されているのには、ブルース、リズム&ブルース、ゴスペル、カントリーなど古くから伝わってきたアメリカン音楽への造詣が深く、その愛情に感銘するからである。

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キング・オブ・ロックンロール。エルヴィス・プレスリー

サム・フィリップスとサン・レコード

ブルームーン・オブ・ケンタッキー

サム・フィリップスは、エルヴィスのある才能に驚いていた。
その才能とはラジオで聴いた曲をすぐに覚えてしまうことと、その数の多さである。
その特異な才能はレコードを買うことができなかったエルヴィスの音楽への愛と集中力によって自然に培われたものだったのだろう。
1953年の夏にエルヴィスはサン・スタジオで4ドルを支払い自分のレコードアセテート盤を制作した。
エルヴィスはその理由を母親への誕生日プレゼントとしてアセテート盤を作りたかったと語った。
しかし、母グラディス・プレスリーの誕生日は4月、録音は7月に行われており、これは事実ではなく、エルヴィスの照れ隠しと観ることができる。収録曲は当時のポピュラーなバラードMy Happinessと「That’s When Your Heartaches Begin」であった。

サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じた。この三人の出会いがなければエルヴィス・プレスリーの才能と世界の音楽、文化、思想はどうなっていたか分らない。

マリオン・ケイスカーがフックを感じたことから、バラードのうまい成年とメモしていた。このメモがサム・フィリップスにエルヴィスの存在を伝えることを可能にした。1954年6月にサム・フィリップスはエルヴィスを呼びよせる。
セッションのためにサムは地元のミュージシャン、スコティ・ムーア、ビル・ブラックを集めてセッションを行う。
思うような結果を出せない日が過ぎていく。

1954年7月5日のセッション休憩中にエルヴィスは「That’s All Right, Mama」をおふざけ半分で演奏、それを聴いたサムはエルヴィスがインスピレーションを得たと感じて録音ボタンを押した。サムはついに発明したと感動した。
リハーサル中のしかも即興演奏だったので、ドラムスが不在だったがベースをかき鳴らしてカバーした。
続いて、その余韻のさめない内に「Blue Moon Of Kentucky 」が歌われた。

ドアが開き、サムが飛び出してくる。「おい!凄いぞ!いままでのサウンドと全く違う!それはポップ・ソングだ!」ニューミュージック誕生の瞬間だった。(この様子は「コンプリート・サンセッションズ」で聴くことができる。)

セッションが終わったときスコティ・ムーアは、人種問題の火種になることを懸念して「やれやれ、これで俺たちは町にいられなくなる」と呟いたという。二日後の7月7日、サムは「That’s All Righ</strongBlue Moon Of Kentucky」のシングル・アセテート盤を持ってラジオ局を回った。両面とも他に類を見ない斬新なものだった。その夜9時30分頃、WHBQラジオで放送された。
その日エルヴィスは自分の歌がラジオから流れることの、恥ずかしさから映画館に逃げ込んでいた。
結局5000本のリクエスト電話が殺到した。ラジオを聴いた人たちは最初黒人歌手だと勘違いしていた。それが白人であると分るにつれ、衝撃はさらに拡大した。
”That’s All Right, Mama”の”De de de de de,de de de de de”というフレーズはメンフィスの若者に真似され、ローカル・ヒットとなったのだ。いまもメンフィスのサンレコードの看板には「ロックンロールの発祥の場所」と書かれている。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていたが、エルヴィスとその仲間が、ライブツアーすることで、エルヴィスの評判をテネシー州一帯に広げることとなった。
サンレコードとの契約下でエルヴィスは5枚のシングルをリリースした。

サム・フィリップスの手によってサンからリリースされたものは。リズム・アンド・ブルースまたはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲をカバーしたものであってが、いずれも若々しさのなかに独特の情念が匂うエネルギッシュなパフォーマンスであった。</p>
レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1.55″、最長のもので2.38″であったが、これが世のいうドーナツ盤の普及、サブカルチャー創造の原動力になった。

サム・フィリップスは後年、エルヴィスにしてやれたことで一番価値のあることは、Mystery Trainを世に出したことだと語っている。
「Mystery Train」は、エルヴィスの屋敷「グレイスランド」を舞台にしたジム・ジャームッシュ監督映画のタイトルに使われている。
サム・フィリップスはサンレコード経営のために金の卵をメジャーレーベルRCAに売り渡す選択をする。後日談として「後悔はしていない」

1955年8月18日にエルヴィスの両親はトム・パーカー大佐とのマネジャー契約を交わすために契約書に署名する。

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RCAビクター

RCAレコードとエルヴィス

ハートブレイク・ホテル

エルヴィスは1955年11月21日にRCAレコードと契約した。
1956年1月27日に通算6枚目となる RCAでの第1作シングル「Heartbreak Hotel / I Was the One」がリリースされた。
続いて1956年1月28日。エルヴィスは「CBS-TVトミー・ドーシー・ステージ・ショウ」でTV初出演。ここでHound Dog」を歌い、白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、アメリカ中が騒然となる。PTA、宗教団体からテレビ局への猛抗議とエルヴィスへの激しい非難が起こった。しかし、一方では若者たちは、これこそが自分達の音楽だと感じて、エルヴィスにエールを送った。瞬く間に若者たちはエルヴィス・ファンになっていった。
「Heartbreak Hotel」は1956年2月22日、エルヴィスの歌が初めてチャートに初登場、4月21日にはチャート1位に達した。 以後8週間連続ナンバーワン。
「Heartbreak Hotel」を皮切りに、全米ヒットチャート・ナンバー1の座は、1956年1957年の2年間、その1年分に該当する51週がエルヴィスの歌によって占領されたのだ。
音楽史上空前絶後の偉業が達成されたのである。

1.Hound Dog(A/1956.8.18~全米10週連続No.1)

2.Loving You(B/1957.7カントリーチャートNo.1)

3.All Shook Up(A/1957.4.13~全米7週連続No.1)

4.Heartbreak Hotel(A/1956.4.21~全米8週連続No.1)

5.Jailhouse Rock(A/57.10.11~全米6週連続No.1)

6.Love Me(A/57.1.5~全米2週連続2位)

7.Too Much(A/57.2.9~全米3週連続No.1)

8.Don’t Be Cruel(B/56.8.10~全米11週連続トップ、1000万枚セールス)

9.That’s When Your Heartaches Begin(B/57.4.27~全米58位)

10.Teddy Bear, (Let Me Be Your)(A/57.7.8~全米7週連続No.1)

11.Love Me Tender(A/56.11.3~全米5週連続No.1)

12.Treat Me Nice(B/57.10.28~全米18位)

13.Anyway You Want Me (That’s How I Will Be)(B/56.10.28~全米18位)

14.I Want You, I Need You, I Love You(A/1956.7.28全米No.1)

上記の楽曲はエルヴィス・ゴールデンレコード第1集に収録されたもの(Billboard誌に準拠)

ほとんどの曲がトップを降りても半年間チャートインする状態であった。
以後、エルヴィスが1977年に死去するまでの21年間に、146曲が100位以内に、112曲が40位以内に、72曲が20位以内に、40曲が10位以内にチャートインした。
エルヴィスは映画契約を優先する活動を強いられるようになる。

1962年4月21日から2週連続でNo.1を獲得した「Good Luck Charm」を最後に、ヒットチャートNo.1から遠ざかることになる。
それでもシングル、アルバムでミリオンセラーは連発していた。

しかし、すべての映画契約が完了したのを契機にステージに復活、1969年11月1日、「サスピシャス・マインド」がNo.1を獲得する。(Billboard誌に準拠)

ラスベガスのステージに出演する一方、新境地「In The Getto」エルヴィスらしさに満ちたBurning LoveがNo.1を獲得する。(CashBox, Record Worldに準拠)

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エルヴィスとドーナツ盤

エルヴィス・プレスリーで普及したドーナツ盤

 

(エルヴィス・プレスリー RCAレコードのプレスリリース)

デビューシングル「Heartbreak Hotel / I Was the One」の大ヒットに続き、リリースした最初のアルバム「エルヴィス・プレスリー登場」は、ファンのニーズに応えて全曲シングルカットしてドーナツ盤としてリリースされた。

サンレコード時代の5枚のシングルもRCAから再販された。
どのレコードも売れに売れ、RCAではプレスが追いつかず、R他社の工場を借りて生産する羽目になった。

エルヴィスが登場して、シングル盤がレコード業界の中心的存在になったのは、ティーンエージャーがお金を持っていなかったからだ。エルヴィス・プレスリー登場以後、シングル盤は若者をターゲットにして、音楽業界の中心的存在になる。

ただ、マーケティングの事情や曲数の都合から、サウンドトラックからはメイン曲を2曲シングルカットされ、それらは大ヒットしチャートインした。

その2曲を含んでアルバムを製作。曲数によって映画に関係のない曲をボーナスソングとして挿入した。

正真正銘のベスト盤の価値を持ったゴールデンレコードが5枚リリースされたが、それらは原則シングル盤のみでリリースされたものから生まれたものである。

これによって「ポップス」というマーケットは拡大することになる。トム・パーカー大佐のした功罪はいろいろあるが、そのひとつの好ましい事例は、レコードの売り方がある。同じものを2つ買うのはファンにとって気の毒であるという理由から、シングル盤でリリースする曲はアルバムには収録しない主義が原則遵守された。

それは歌はハートだとするエルヴィスの信念であり、原点であり、聴くものと歌うものとの間にあるエルヴィスならではの約束である。

レコーディング場所は、1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用した事があった。

1956年物議をかもした「Hound Dog」の録音は、ニューヨークにあるRCAスタジオで行われたが、スタッフが根をあげるほどのテイクを録り、執念を見せた。60年代にはテネシー州ナッシュヴィルのRCAスタジオBがもっとも使用された。

スマッシュヒットとなった名曲「悲しき悪魔」のように1テイクで決めた超人技を筆頭にここでは数多くの名作を創造した。

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エルヴィス・プレスリーの録音風景

レコーディン中のエルヴィス・プレスリー。靴を脱いで全身全霊で集中する。

エルヴィスのスタイル

エルヴィス・プレスリーとは何者だったのか

エルヴィスの時代と比較して現在の録音技術の進化は著しいが、録音スタイルも変化している。
現在ではいくつかのテイクからよいところをつなぎ合わせて、一つの曲として発表するスタイルや曲の別録りが大半である。
エルヴィスもこのスタイルを選択することが出来たが、エルヴィスはこのスタイルを最後まで嫌った。エルヴィスが最後までこだわったレコーディング・スタイルは「一発録り」といわれる1テイクタイプだった。つまりライブと同じスタイルである。

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サンレコード・スタジオ

エルヴィスと映画

ヤング・ヤング・パレード

エルヴィスは高校時代に映画館でアルバイトをしていたが、エルヴィス の憧れはジェイムス・ディーン、トニー・カーティスであり、エルヴィスはトニー・カーティスを真似て髪を黒く染めていた。

もともとエルヴィスは歌手より映画俳優になりたかったようだ。当時の社会事情からして、父親であるヴァーノンが歌手では一生飯が食えないので、エルヴィスに歌手を勧めなかったといわれている。フランク・シナトラ、ビング・クロスビーも映画には積極的だった。エルヴィスも状況は分っていて、父ヴァーノンの考えには同調していたようだ。有名になってヒットチャートに次々にヒット曲を送り込むにつれ、映画会社は放っておかなかった。

数社から出演の依頼があったが、なかでも大物辣腕プロデューサー、ハル・B・ウォリスは長期契約で臨んだ。ハリウッドを代表する名優たちとの共演も計画されたが、マネジャー、パーカー大佐はエルヴィスが主役でない映画を拒絶した。

ハル・B・ウォリスは俳優でも、これまでの歌手でもない観たことのないタイプのスター、エルヴィスをどう扱えばいいのか決断できず、20世紀FOXに貸し出す決断をする。

20世紀FOでの初出演映画は「Rino Brothers」(後で「Love Me Tender」に改題)になった。当時ロックンロールは市民権を得るだけのキャリアを持たず、すぐに人気は衰えると予測していた。

エルヴィスは俳優になりたかったので、本格的な俳優へのステップを臨んでいたことから映画のなかで歌うことには関心をもっていなかった。しかし、パーカー大佐もプロデューサーも観客を集めるにはエルヴィスの歌は必要だった。

タイトルも挿入歌から引用され「Love Me Tender」に変更された、

モノクロ、シネマスコープの低予算ウェスタンだったが、映画は大ヒットし、同年公開映画の年間収益第2位にランキングされた。

1位はエリザベス・テーラーと共演したジェームス・ディーンの遺作、超大作「ジャイアンツ」だった。

エルヴィス初出演の「Love Me Tender」の興行的成功はメガトン級であったことが頷ける、このスタイルはエルヴィス主演映画の基礎となり、「屈折した怒れる若者」+「歌」の組み合わせで陸軍入隊前までに合計4本製作された。

そしてサウンドトラックからシングルカットしたものはチャートインし、アルバムはミリオンセラーになった。1960年に陸軍除隊後、パーカー大佐は映画会社数社と長期契約を結んだため、活動の拠点がハリウッドに移った。

エルヴィス・プレスリー主演映画「恋のK・Oパンチ」

1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、「G.I. Blues」「Blue Hawaii」「Viva LasVegas」等印象深い作品を残した。
エルヴィスは映画界においても、マネーメーカーとして上位にランキングされ続けたが、その映画は低予算で制作され、エルヴィス人気で高い収益をあげる仕組みだった。

エルヴィス・プレスリー主演映画「ブルーハワイ」

同時にサウンドトラック・アルバムが制作され、シングルカットされた曲はチャートにランキングされるという一石二鳥の金儲け主義が巧妙に仕組まれ成功した。まさにエルヴィスは金のなる木であり、良い意味でも悪い意味でも「アメリカ」の象徴的な存在であったことが発見できる。その一方でエルヴィスが夢みた映画俳優として取り組んだ作品といえるものは数少ない。

すでに映画への意欲も失い、エルヴィスの気持は音楽界への復帰(NBC TV Special ELVIS)に向かっていた頃、残った契約の消化を急いでいた時にエルヴィスが望んだ歌なしの映画「Charro(殺し屋の烙印)」が制作された。(1969年公開)

エルヴィスは俳優として役作りから、あごひげまではやして取り組んだが、エルヴィスの主演映画への世間の関心度も低く、脚本も不出来であったことから映画自体は振るわなかった。

エルヴィス映画

 

エルヴィス・プレスリー出演映画

  1. やさしく愛してLove Me Tender(1956年)
  2. さまよう青春(Loving You(1957年)
  3. 監獄ロック(Jailhouse Rock)(1957年)
  4. 闇に響く声(King Creole)(1958年)
  5. G・I・ブルース(GI Blues)(1960年)
  6. 燃える平原児(Flaming Star)(1960年)
  7. 嵐の季節(Wild in the Country)(1961年)
  8. ブルー・ハワイ(Blue Hawaii)(1961年)
  9. 夢の渚(Follow That Dream)(1962年)
  10. 恋のKOパンチ(Kid Galahad)(1962年)
  11. ガール!ガール!ガール(Girls! Girls! Girls!)」(1962年)
  12.  ヤング・ヤング・パレード(It Happened at the World’s Fair)」(1963年)
  13. アカプルコの海(Fun in Acapulco)(1963年)
  14. キッスン・カズン(Kissin’ Cousins)(1963年)
  15. ラスベガス万才(Viva Las Vegas)(1964年)
  16. 青春カーニバル (Roustabout)(1964年)
  17. フロリダ万才(Girl Happy)(1965年)
  18. いかすぜ!この恋(Tickle Me)(1965年)
  19. ハレム万才(Harum Scarum)(1965年)
  20. フランキーandジョニー(Frankie and Johnny)(1966年)
  21. ハワイアン・パラダイス(Paradise, Hawaiian Style)」(1966年)
  22. カリフォルニア万才(Spinout)(1966年)
  23. ゴー!ゴー!ゴー!(Easy Come, Easy Go)(1967年)
  24. ダブル・トラブル(Double Trouble)(1967年)
  25. ブルー・マイアミ(Clambake)」(1967年)
  26. ステイ・アウェイ・ジョー(Stay Away, Joe)(1968年)
  27. スピードウェイ(Speedway)(1968年)
  28. バギー万才(Live a Little, Love a Little)(1968年)
  29. 殺し屋の烙印(Charro!)(1969年)
  30. トラブル・ウィズ・ガール(The Trouble with Girls)(1969年)
  31. チェンジ・オブ・ハビット(Change of Habit)(1969年)
  32. エルビス・オン・ステージ(Elvis: That’s the Way It Is)(1970年)
  33. エルビス・オン・ツアー(Elvis on Tour)(1972年)
  34. This Is ELVIS(This Is ELVIS)(1977年)

エルヴィス・プレスリーとは何者だったのか

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