マイ・ハッピネス/My Happiness:1953

エルヴィスは生き方 エルヴィスがいた。

エルヴィス・プレスリーの物語は、黒人差別の根強いテネシー州、1953年7月18日午後、土曜日に始まります。本名、エルヴィス・アーロン・プレスリー、18歳のエルヴィスが地元のレコード会社『サン・スタジオ』を訪問、自費で録音することからエルヴィス・プレスリーの物語、ロックンロールの歴史の幕が開きます。

家庭が貧しく、白人だけど黒人が多く住む地域で育った内向的で抑圧的だったエルヴィス・アーロン・プレスリーは、音楽が好きで教会で歌うことが好きでした。歌の中では解放されたのです。ラジオから流れる歌を覚えることは得意でした。ヒトは誰でも好きなことは得意になれるのです。エルヴィスの特長はどんな曲でもラジオから聴こえるパフォーマンスとは違った解釈で自分らしく歌えることでした。
みんなが探し回ったエルヴィスが自費で録音したアセテート盤の行方を探ります。

嫌われたってヒトは誰でも好きなことは得意になれるという特長は、すべての生きる人々への大きな励ましになりました。
エルヴィスからのメッセージを感じ取れたヒトは、もっとも早く反応しました。エルヴィスが3ドル98セントを支払って録音した「マイ・ハッピネス」はエルヴィス自身の幸せになりました。
オールタイム、ロックンロール!キング・オブ・ロックンロール!
今回は、プロになる前に録音した「マイ・ハッピネス」です。

マイ・ハッピネス/My Happiness ~The Great Performances

マイハッピネス

テネシー州メンフィス。

夢を実現するために起業した28才のサム・フィリップス。
音楽のことを知らないけれど、サムを助けたくて共に働くことを決意した6才年上のマリオン・キースカー(マリオン・ケスカー)女史。

1950年1月、ふたりが手作りで作り上げたメンフィス・レコーディング・サーヴィス(サン・レコード)は、サムの「自分には他者の長所を見抜き伸ばす力がある」あるいは「黒人たちが自分の音楽を気楽に演奏できる場所を作りたい」といった言葉によって地元でも知名度があがっていた。

1953年7月18日午後、土曜日。

L.C.ヒュームズ高校を卒業して、地元M・B・パーカー機械製作店で働いていた18才のエルヴィス・アーロン・プレスリーはプレンシジョン・ツール・カンパニーに転職する準備していた。
一方では、新聞記事で見つけたサム・フィリップスの音楽に対するポリシーに惹かれていた。

安物のギターを大事に抱えた、身なりがいいとはいえない金髪の青年は、いまにも逃げ出しそうな風体で、メンフィス・レコーディング・サーヴィスの扉を開いた。

その扉は内向的なエルヴィス・アーロン・プレスリーにとって、抑圧になれていた自分を解放する唯一の扉でもあった。

ユニオン大通り706番地/メンフィス・レコーディング・サーヴィス

サムは留守でマリオンだけだった。
エルヴィスは料金を緊張した表情で尋ねる。
アセテート盤両面に録音した場合の料金 税込み 3ドル98セント。
アセテート盤両面に録音+バックアップ・テープをつけた場合の料金 税込み 4ドル98セント
エルヴィス・アーロン・プレスリーは、税込み 3ドル98セント、アセテート盤両面のみの録音を選択する。

エルヴィス:「誰か歌手を探していませんか?」

マリオンは尋ね返す。

マリオン :「あなたはどんな歌手なの?」
エルヴィス:「どんな曲でも歌います」
マリオン :「どんなふうな声なの」
エルヴィス:「ボクは誰にも似ていません」
マリオン :「何を歌うの?ヒルビリー?」
エルヴィス:「ええ。ヒルビリー」
マリオン :「ヒルビリーではどんな感じなの?」
エルヴィス:「ボクは誰にも似ていません」

エルヴィス・アーロン・プレスリー「ボクは誰にも似ていません」

どもり気味に照れながら緊張しながら話すエルヴィスだが、「ボクは誰にも似ていません」という一点については、一歩も妥協しない強さがこもっていたようだ。
「抑圧と自分を信じる心」相反する谷間を駆け抜けながら、世界を変えた男。
これこそがエルヴィス・アーロン・プレスリーの姿だ。

終わりと始まり

エルヴィスは最初に「マイ・ハッピネス/MyHappinessWikipedia」2曲目に「心のうずくとき/That’sWhen Your Heartaches Begin」を録音する。
ともにインク・スポッツの歌っていたバラードだった。(後に「心のうずくとき」はRCAレコードで再録、シングルリリースされ、『エルヴィス・ゴールデンレコード』に収録される。)

エルヴィスは「バケツを叩いているようなひどい歌だ」とコメントし、
マリオンは「有能なバラード歌手」とメモを残す。

録音は終わった。

後日、マリオン・キースカー(ケスカー)女史はサム・フィリップスにテープを聴かせる。
サムは特別な感銘を受けず、エルヴィスも、マリオンも、サムにも、何ごともなかったかのように、何気ない日常がくり返された。

世界を変えた事件となる、エルヴィス・プレスリーの物語は、静かに、ゆっくりと、始まった。

録音の動機

「マイ・ハッピネス」は永い間、エルヴィスのコメントのままに「おかあさんへのバースデー・プレゼント」が定説だった。
後日、エルヴィスはこの日のことを回想し、「あの日どうしてそんな気になったのかはっきり覚えていないが、自分の声がどう聴こえるるか知りたかった」とコメント。

しかしエルヴィス他界後、エルヴィス研究が進み、「挑戦」であったとする見解が定説に変わった。それと共に、公式には誰も聴いていない「マイ・ハッピネス」がクローズアップされるようになった。

こうしてエルヴィスが自費で録音したアセテート盤の行方をみんなが探し回わりことになります。
様々な憶測が流れた。書籍『エルヴィス登場』では、録音にサム・フィリップスが立ち会ったことになっている。

エルヴィスはバックアップテープを頼んでいない。
マリオン・キースカー(ケスカー)女史のいうテープは本当に実在したのか?
さらには本当にレコーディングされたのかなどの疑惑が起る。

消えたテープ

マリオン・キースカー(ケスカー)女史は、取材のなかで、それはどんな音楽だったのかという質問に「一般にソウルと呼ばれているものだったわ」と回答する。それこそがマリオン・キースカー(ケスカー)女史の興味の対象だった。「黒人のフィーリングで歌える白人がいたなら必ず儲かる」がサムの口癖だったからだ。サムの成功こそマリオンの願っていたものだ。

しかし一介のおどおどした白人の田舎青年の歌をバックアップテープに録音するに値する価値あるものと事前に判断できないのが普通であるなら、中途から急いで録音作業にかかるのも普通である。
つまり、もしテープが実在するなら、エルヴィスの歌を聴いてなんらかの衝撃つまり「この子にはサムシングがある」と思いテープに残したことになる。で、あるなら仮にテープが発見されても、一部しか録音されていないものしか存在しないことになる。というのが定説であった。

自費で作ったアセテート盤の発見



1988年、長い間所在が不明だったアセテート盤を元クラスメイトでパイロットだったエドワード・リードが所有していることを名乗り出る、「エルヴィスは最初、彼のお母さんにプレゼントするために録音したらしいが、キミにあげるよってくれたんだ。」とコメント。

マリオン・キースカー(ケスカー)女史が検証し「あの時のものに間違いない」と断言。

世界中のファンに衝撃と感動を与えついに歴史的なレコードは世界に公表された。
そのメディアとなったのが、『マイ・ハッピネス~グレイト・パフォマンス~』だった。

伝説の音源。そしてELVIS WEEK

エルヴィス・プレスリーの人柄がそのまま聴こえてくるサウンドだ。
緊張とうまく歌いたい願望が一緒になってぎこちない滑り出しで始まる。

夜の影が僕をブルーな気持ちにする
うんざりするような一日が終わる頃
君に会いたくてたまらない
ボクのしあわせ

毎日、ボクは思い出す
その甘いくちづけ
いつも君が恋しいよ
ボクのしあわせ

まるで百万年が過ぎたかのように
ふたりが夢を分かち合ったあの頃から
だけどまた君を抱きしめることができたなら
悲しい思い出も消えるはず

空が晴れても曇っても
地球のどこにいようとも
君さえ一緒にいられたら
ボクのしあわせ

まるで百万年が過ぎたかのように
ふたりが夢を分かち合ったあの頃から
だけどまた君を抱きしめることができたなら
悲しい思い出も消えるはず

空が晴れても曇っても
地球のどこにいようとも
君さえ一緒にいられたら
ボクのしあわせ

自分にはこの君とは「ほんものの自分」の気がしてならないのです。
もちろん勝手な妄想です。
エルヴィス・アーロン・プレスリーは1948年にヒットした曲を歌っただけです。

高校を卒業して1年ほどの間に3回も職場を変えています。
どこか父ヴァーノンをなぞっているような気がします。

母グラディスの躾の影響で元来自分に対して抑圧的だったエルヴィスが社会生活を営む上で、より抑圧的になっていたのではないかと察するのです。

”うんざりするような一日が終わる頃、君に会いたくてたまらない”という歌詞にひっかけるわけではありませんが、その通りだったのではないかと思うのです。
そしてこの歌詞の君とは本当のエルヴィス自身なのです。
そこに「好きなことを最高の自分でやったらいいんだ」という暗黙のメッセージを社会の送り出すエネルギーがあったのではないでしょうか。
こんなことをしていていいのだろうか?という生活への疑問と不安。

そこからエルヴィスはサムシングを求めて動いたのです。
そしてマリオン・キースカー(ケスカー)女史はサムシングを感じました。
「それは人々が”ソウル”と呼んでいるものだったわ」

いわゆる生命保険会社のいう命ではなく、真に”もともとのいのち”を生きようとする魂があったのではないでしょうか?若いから青春と呼ぶのではなく、年齢に関係しない青春の歌声。

このマリオン・キースカー(ケスカー)女史は、黒人に対する偏見を嫌い、経営者と喧嘩別れし、金もなく起業したサムを助けようとした女性です。
サムの恋人でもありません。人間の尊さに対して敏感だったのではないでしょうか?

ザッツ、オールライト!君のままで、大丈夫だよ!

(エルヴィス・プレスリーの命日に行われるキャンドル・サービス)

ソウルを感じる力のあるものだけが感じ取れる。
エルヴィス・アーロン・プレスリーが世に送り出したロックンロールとは、一対一のエネルギーの交信なのです。それこそが世界中のフォロワーが真似したってできないことなのです。
キング・オブ・ロックンロールの冠をエルヴィス本人が嫌ったとしても、「誰にも似ていない」つまり「誰も真似のできない」エルヴィス・プレスリーだったのです。

それは、自分の好きなことを自分なりにやれば自然に最高のワザを発揮できる「誰も真似のできない」ことになるというエルヴィスが世の中に発信したメッセージなのです。1954年のことでした。
「ザッツ!オールライト!(大丈夫だよ)」

ザッツ・オールライト / That's All Right Mama:1954
エルヴィス・サン・セッションズ(紙ジャケット仕様) 『ザッツ・オールライト(That's All Right)』は、特別な楽曲だ。 オリジナルはブルース歌手アーサー・クルーダップが書き、最初に演奏した。 1954年7月5日、メンフィスのサン...

マイ・ハッピネス:1953

マリオン :「あなたはどんな歌手なの?」
エルヴィス:「どんな曲でも歌います」
マリオン :「どんなふうな声なの」
エルヴィス:「ボクは誰にも似ていません」
マリオン :「何を歌うの?ヒルビリー?」
エルヴィス:「ええ。ヒルビリー」
マリオン :「ヒルビリーではどんな感じなの?」
エルヴィス:「ボクは誰にも似ていません」

エルヴィス・プレスリーの人生のすべてはこの会話に集約されている。
エルヴィスには、のちに登場するシンガーソングライターに関心がなかった。

エルヴィス・アーロン・プレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州テュペロの小さな家で生まれた。 父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー(1916〜79)、母グラディス・ラブ・プレスリー(1912〜58)の3人家族であった。
エルヴィスには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している。

「ボクは誰にも似ていません」・・・エルヴィスには兄ジェシーへの想いがあったのかも知れない。

ロックンロールは生き方のアートだ。

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