ミーン・ウーマン・ブルース/Mean Woman Blues:1957

エルヴィスがいた。

『ウェストサイド物語』に原型となったと言われる<監獄ロック>、68年カムバック・スペシャルでの<トラブル>(唸らせる!!!=唸っていますから)、母グラディスの映像を背景に歌う<ラヴィング・ユー>プリシラの映像を背景に<アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラブ・ユー>など(それにしてもプリシラはビューティな人だ)どの曲も重要な曲で、見せ場はいくつもあるが、圧巻、怒濤のロックンロールの連打を締めくくる<ミーン・ウーマン・ブルース

ミュージカル『エルヴィス・ストーリー」の光景です。

ミーン・ウーマン・ブルース/Mean Woman Blues:1957

 

ミーン・ウーマン・ブルース>は映画出演第二作となった『さまよう青春』に使用されたエルヴィスらしさに溢れたロックンロール・ナンバー。1957年1月に録音。1958年にはジェリー・リー・ルイス、63年にはロイ・オービソンがカヴァーして大ヒット。日本では<愛しているって言ったっけ>(打ち明けるのが遅かったかい)とのカップリングでシングルカットされている。

エルヴィス・プレスリーのロックンロール3大特長のひとつである、ミディアムアップのロックンロールだが、”うーっ””イエー”の掛け声、手拍子で、ライブ感が味わえる映像から、製作陣の当時の良心が伝わってくる。R&Bチャート。カントリーチャートで1位を記録しているので、耳を切り替えて堪能したい。

俺の彼女はとっても意地悪
俺の彼女はとっても意地悪
俺に負けず劣らず意地悪な娘

彼女が通りかかっただけで
黒猫さえも震えあがる
俺の彼女はとっても意地悪
俺に負けず劣らず意地悪な娘

激しくキスされ唇にあざ
痛むがハートにジンとくる
俺の彼女はとっても意地悪
俺に負けず劣らず意地悪な娘

すごく変わった娘だぜ
怒ってないと幸せじゃない
俺の彼女はとっても意地悪
俺に負けず劣らず意地悪な娘

笑顔も見せずに愛を交わす彼女
だけどスゴイぜ、俺はメロメロ
俺の彼女はとっても意地悪
俺に負けず劣らず意地悪な娘
俺に負けず劣らず意地悪な娘
俺に負けず劣らず意地悪な娘

l got a woman mean as she can be
l got a woman mean as she can be
Sometimes I think she’s almost mean as me

A black cat up got a fright
Cause she crossed his path last night
l got a woman mean as she can be
Sometimes I think she’s almost mean as me

Kiss so hard she bruise my lips
Hurts so good my heart just flips
l got a woman mean as she can be
Sometimes I think she’s almost mean as me

Strangest gal l’ve ever had
Never happy unless she’s mad
l got a woman mean as she can be
Sometimes I think she’s almost mean as me

ミュージカル『エルヴィス・ストーリー」のこと

予想はするものの、実際、海のモノとも山のものともつかないミュージカル『エルヴィス・ストーリー』の幕があく。始まって数分、微妙な違和感。ローリング・ストーンズのリアルなロック魂が残っている五感に”本物でないエルヴィス”がどう食い込んでくるのか、未知への期待と失望への不安。

やがてサンレコードのエルヴィスが目の前で再現されていくにつれ、身体にはっきりとした衝動が突き上げる。身体で聴く音楽はその言葉のまま、やがてナレーションが「メガトン級のヒット」を告げる頃には、ついに身体の中に抑えがたい衝動がガンガン突き上げる。

エルヴィス・プレスリーを演じるマルタン・フォンテーヌが教えてくれたのは、いかにエルヴィスが凄かったのかということである。半世紀前に何が起こったのか。実際のエルヴィスはマルタンより身体的にもひとまわり大きいはずだ。そしてもっと不健康で、エロチックで、だらしなく、毒とオーラがある。

それを想像した時に、エルヴィスが向こうからやってくると同時に56年の光景が見えた。
ロックンロールの連打、腕が動き、脚が動き、ゆがむ顔と笑う顔、動いたかと思うと突然静止する身体、「これでもくらえ!」と言わんばかりのその瞬間、目の前でフル回転で五体五感でうなりをあげる。

発狂する神の音楽、エルヴィス降臨

エルヴィス・プレスリーという神の声に思わず自分は「気が狂う」と思ったのだ。
抑えるのに理性が必要となるじっとしていられない音楽。
それは幾度も写真で見る悲鳴をあげている少女たちの光景そのものの姿だ。
ボクはマルタンによって彼女たちの置かれた立場をはっきりと自覚できた。(すごい体験だ)

そこにはキース・リチャーズが手放したくなかったエルヴィスがいた。
「俺たちが離すまいと思っていた矢先の50年代終わりに、突然エルヴィスが軍隊に召集されたり、チャック・ベリーが監獄にブチ込まれたり、バディ・ホリーが死んでジェリー・リー・ルイスが不祥事を起こした。その後で、フェビアンとか、ボビー・ヴイーみたいなティーン向けのアイドルが出て来た時には、ロックの配給制になった気がしたぜ」と語る以前の自由に向かってばく進する危険極まりない凶暴なエルヴィスが動いているのだ。
エルヴィス最高!マルタンありがとう!

マルタンの誠実で熱意に支えられた表現力。隣に座っていた女性は席を立つ時に、だれがやってもエルヴィスのようには歌えないと語った。彼女はエルヴィスに触れる程にエルヴィスに会いたくなっているのだ。その隣の地方から来たという女性は5回見にくる予定だという

マルタンの表現力の素晴らしさに脱帽する。
もともと声質も顔も似ていないマルタンが奇妙な自己愛でなく、エルヴィスへの畏敬の念によってギリギリに近付いてみせた。ギリギリもエルヴィスのやり方だ、エルヴィスはよくギリギリまで求めたが、それを超えることを望まなかったアーティストだ。自身の声も、スコティ、ジェームスのギターも、ピアノも、ドラムスも、サックスも、コーラスも、エルヴィスと共にギリギリまで行って帰ってくる、分かち合うサウンドだった。そのバランス感覚はとても本能的で優雅でさえあった。
マルタンはエルヴィス以上になろうとして壊すようなことをしない細やかな配慮でもって、エルヴィスの世界へ誘ってくれた。

さすがに70年代のエルヴィスを演じることは、難しい。エルヴィスは巨大すぎるのだ。
マルタンは自分のペースで、エルヴィスがいかに遠くまで、誰も届かないところまで来たかを表現者として適確に伝えることに成功している。

「ミュージシャンをやめてトラックの運転手に戻った方がいいぜ」と言われたエルヴィス。卑猥だと中傷され、逮捕状まで用意されたエルヴィス。コンサート場の貸し出し拒否、レコードを燃やされたエルヴィス。エルヴィスのコンサートに行ったら退学させるといわれた若者たち。すごく変わった奴だぜ、だけどスゴイぜ、俺はメロメロ。エルヴィスはそんな社会に向かって怒りと悲しみを歌に託し、喜びを身体で表現した。

エルヴィスが教えてくれたもっとも大事な永遠は「君は君でいいんだよ」ってことだった。エルヴィスは全身全霊でヒトと違うことを奨励した。
日本はヒトと違うことを求めながらもまだその呪縛から解き放たれていない。そしてアメリカは逆戻りしていく気配すらある。

すべてはエルヴィスから始まった。
「君は君でいいんだよ」
そのメッセージをマルタン・フォンテーヌはとても素敵に伝えてくれた。
マルタンの手は温かだった。

エルヴィスが社会を動かした―ロック・人種・公民権
マイケル・T. バートランド 著

アメリカの差別構造と偏見を破壊したのは、皮肉にも、もっとも人種差別の激しい南部出身の白人青年エルヴィス・プレスリーによるロックンロールだった。エルヴィスの音楽活動と、それを支持した若者を通じて、その社会構造を解き明かす力作
アメリカに興味のある人、すべてのロックンロール、サブカルチャー、ティーンエイジ、50年代~60年代の社会に関心のある方には、絶対おすすめです。

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