アメリカは世界有数の消費社会で、派手に戦争もするけれど、一方でアメリカの良心のように、対抗する文化(カウンター・カルチャー)が途切れることなく根強く流れている。
カウンターカルチャーとしてのロックンロールは、1935.1.8.に誕生したエルヴィス・プレスリーの両親がそうであったように、心優しい 人たちが自分たちの土地から追い出され、路上で放浪させられて、飢えに迫られていく。故郷を捨て自分達の進む道をカリフォルニアに見出そうとする。30年代の悲しみと不安を描いたスタインベックの小説「怒りの葡萄」の時代に遡る。
「怒りの葡萄」から「路上」、そしてエルヴィス登場
1935.1.8.4:35.A.Mに誕生したエルヴィス・プレスリーの両親がそうであったように、心優しい 人たちが自分たちの土地から追い出され、路上で放浪させられて、飢えに迫られていく。故郷を捨て自分達の進む道をカリフォルニアに見出そうとする。30年代の悲しみと不安を描いたスタインベックの小説「怒りの葡萄」。
あるいは、50年代のジャック・ケルアックの「路上」に代表されるビート・ジェネレーションのボヘミアン的な暮らし、
中産階級の不毛からの脱走として独特のカウンター・カルチャーがサンフランシスコのベイエリアを拠点にカリフォルニア州から発信されてきた。
このどうにも切なくやるせない思いはウェストコースト・ジャズのメッカとしていまも引き継がれており、街中ではいつでもジャズが流れている。ジャズはロックの登場が待ちきれなかった者たちの身体レベルで響くサウンドだった。
モントレーのジャズ・フェス は世界最大級の規模でいまも毎年開催されている。
(注:「ビート」は口先だけの言葉ではなく、人々を振動させる行動を伴った言葉だ。)
60年代に”サマー・オブ・ラブ”として歴史を刻んだのも、ビート・ジェネレーションの継承だ。
70年代には舞台を移し、ニューヨーク・パンクによってイデオロギーがイギリスに飛び火。
ビート・ジェネレーションは、1950年代前半にうごめいていた。
いまから半世紀も前のことだけど、ビート・ジェネレーションが表舞台に登場するには、ロックンロールの登場を待たなければならなかった。
ロックンロールの誕生は、何をもって誕生とするかは人によって解釈が違う。
しかし、白人によるパフォーマンスをその起源とするのが、もっとも妥当であろう。なかでもロックンロールを大衆文化に送り込み確固たるものにしたという点では、エルヴィス・プレスリーの登場に尽きる。
BlueSuede Shoesという曲は、ロック魂そのもの。
エルヴィスと同じメンフィスのサンレコード所属のシンガー、カール・パーキンスのBlue Suede Shoesという曲は、エルヴィス・プレスリーによってロック魂そのものになった。
♪ well you can do anything but lay off my blue suede shoes♪
ロックの黎明期のこと。ふたりのパフォーマンスを聞き比べると同じ曲なのに解釈の違いが歴然だ。
エルヴィスは「あんたが何をしたって構わない。 だけど俺のBlue Suede Shoesは踏まないでくれ」と歌った。
この曲がロックンロールとは何かをすべて表現している。
誰もが見たことも聴いたこともないその過激さゆえに悪魔か殺人鬼のように世間から袋叩きにされたアメリカ南部メンフィスの貧しい青年エルヴィス・プレスリー。
当時のライバルで優等生のイメ-ジのパットブーンが白で固めたコスチュームに対峙して歌った「ブルー・スエード・シューズ」。
カール・パーキンス のオリジナルだが、当時のエルヴィスの状況を映し出した曲として、エルヴィス・プレスリーのシンボリックな曲として扱われている。
カール・パーキンスのオリジナルとは違いエルヴィス・プレスリーは最初からたたみかけるように一気に突っ走る。ワイルドだ。
ロック魂がストレートに伝わってくる名曲だ。
ロック魂とは、つぶれそうになりながらも、あるいは潰されそうになりながらも、泣きたい、降参したい、それでも自分の道を貫き通そうとする。追い込まれてもがむしゃらにやる、カッコ悪さではないだろうか?
カッコ悪いというのも、第三者に言わせればの話で、実はそう言う本人にやり通す自信がないだけのこと。
つまりコンプレックスの裏返しでしかない。ロック魂とはこの裏返ってハスに構えた状態ではなく,もっとストレートでがむしゃらで変化を恐れないことだ。
停滞とアナーキーのはざまに
「エルヴィスがいなかったら、我々はパティ・ペイジと訣別することはできなかっただろう」という有名な言葉がアメリカにある。
ジョン・レノンは「エルヴィスがいなかったらビートルズはなかった」と言い、ポール・マッカートニーは「われわれは遂にエルヴィスを超えることができなかった」と言った。
それは先駆者としてのエルヴィスを賞賛する言葉だけど、身震いするほど凄いのは、人種差別問題が激化した時代に黒人のフィーリングで歌い、エキセントリックに下半身を動かす独特のアクションで「テレビ時代の始まりのテレビ」に登場したことだ。
この状況を想像するだけで、全身にゾーとしたものが走る。
白人と黒人が同じバスに乗ったのはエルヴィスが全米に大ブームを起こした6年後の出来事なのだ。
1896年、アメリカ最高裁が下した「分離すれども平等」という考え方は人種差別待遇は憲法に違反しないと判決を下した。
この判決によって白人と黒人が同じバスに乗ったり、学校へ行ったり、レストランで食事したりすることができなかった。
1954年に歌手としてエルヴィスが黒人の歌をレコーディングしているが、この年には「ブラウン裁判」が行われる。
カンザス州に住む黒人ブラウンは自分の娘を近所の小学校に入れたいと願ったが、白人学校という理由で拒否されたことで、教育委員会を相手どって起こした裁判のことだ。
実際には黒人組織NAACPが白人社会に叩き付けた闘争といえるこの裁判は、最高裁に持ち込まれる。
全米が固唾を飲んで注目した判決の行方は、事実上まやかしだった「分離すれども平等」の判決を覆すという歴史的な結果となった。
しかし、この判決に不満をもつ白人感情は激しい闘争にエスカレート。KKKの黒人リンチ事件が相次いで発生するようになり、陽気なアメリカ人の暗い影の部分が浮き彫りになる。
1963年8月28日、黒人の公民権運動のために「私には夢がある」と訴え全米の黒人の心をひとつに束ねたマーティン・ルーサー・キング牧師率いる20万人のデモ行進がワシントンで行われる。
やがてその抗議は全米で黒人暴動という形で広がった。
米ソ冷戦、ベトナム、国内外に問題を抱えたまま、3ヶ月後にフロンティアスピリットを訴えたジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件が発生。
さらに2年後の65年にハーレムでマルコムX暗殺、その4年後、北アイルランドで公民権運動が起こる。
ロックンロールによって爆破された壁の向こうに。
1956年に起こったエルヴィスのヒットチャート独占による衝撃は自由なアメリカ社会においても当時は尋常ではなかった。
「白人女子を汚らしい黒人文化で汚すのか」「卑猥で下劣だ」という抗議が相次ぐなか、エルヴィスのクリスマス・ソングを放送したとしてディスク・ジョッキーがラジオ局から一方的に解雇され裁判沙汰になっている。
1950年代のアメリカは建国以来のピューリタン的なマインドが薄れていくにつれ、価値観に変化が起こりはじめ、社会不安が強まる傾向にあった。
既成の倫理のほころびを最も強く感じていたのは若い世代そしてマイノリティだった。
「怒れる若者たち」は存在したものの、現代の若者文化の原形が完成したのは1956年のロックンロールの発火によるものだ。
エルヴィスが持ち込んだ「危ない音」によって爆破された危ない時代の崩れた壁の向こうに、人々が見たこともない世界が存在していた。
こうして始まったロックンロール旋風は、若者を大人たちの既成の価値観から、女性を権力の拘束から解放し、黒人音楽のリズムに潜んでいる「乾いた性」を白人社会の抑圧された湿った性に突き付け解放する方向へ押し進める力となる。
米英のレコード売上倍増に始まり、ファッション、音楽、セックス、車(バイク)がワンセットになった若者文化の誕生した。
それはまさしく戦後の停滞とアナーキーのはざまに咲いた「ポップカルチャー」誕生の瞬間だった。
もともとは経済用語として誕生したティーンエージャーという概念が、一般化する。
ティーンエージャーはギルバート・ティーンエイジ・サービスという市場調査会社が15歳~19歳の市場が経済にあたえる影響力の大きさを1945年に提言した際に使用した造語だった。
要するにエルヴィス以前に「ポップカルチャー」というものは存在しなかったのだ。
そしてそのインパクトが世界を駆け巡り、収穫逓増の原理が働くのに多くの時間を必要としなかった。
「エルヴィス以前には、なにもなかった」「エルヴィスがアメリ文化を変えた」という伝説が生まれたのはそのためだ。
エルヴィス・プレスリーと複数のロッカーたち
1958年、日本で日劇カーニバルを震源地にロカビリー旋風が巻き起こる。
しかし本国アメリカでは、 デビューから2年、人気絶頂にあったエルヴィスは、ファンの反対運動の甲斐もなく軍に召集され入隊、ドイツへ派遣されてしまう。
さらに エルヴィスの留守中、バディ・ホリー、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセントなどが事故死、ジェリー・リー・ルイス、チャック・ベリーのスキャンダル、リトル・リチャードの引退。
一線を飾っていたロックン・ローラーが相次いで消え、変わってストレートなロックに変わって軽いポップスがヒット・チャートを塗りつぶすようになる。
ポール・アンカ、ニール・セダカ、コニー・フランシス、デル・シャノン。レイ・チャール、イギリスではクリフ・リチャードが変わって主役となり、メロディーラインの美しい、いわゆる60年代POPS全盛期に入る。
日本で最も愛されてきたPOPSはこの時代のものだ。本国では、すでにロックンロールは壊滅状態にあった。
1960年、エルヴィスが復帰。ブランクをモノともせず、人気の衰えもないままエルヴィスはより大きなシンガーへの転身がはじまる。
しかし、 のちにジョン・レノンは「僕はハート・ブレイク・ホテルによってロックに目覚めた。そのエルヴィスは軍隊に殺された」と言っている。
1930年代からアメリカ文化を追いかけていたイギリスでは、アメリカのロックシンガーは大歓迎され、エルヴィスもアメリカ以上に絶大な支持を受けていた。
特に「怒れる若者たち」テッズ族(テディ・ボーイ)には熱狂的に支持された。
人種差別主義のテッズ族は1956年にはイギリス国内最大の暴動事件を起こしている。
革ジャン&ハーレーに乗った反抗する若者をテーマにした1954年製作のマーロン・ブランド主演の映画「乱暴者」がイギリスにおいては68年まで公開禁止されたことが、当時の若者の行動への危惧と狼狽を語っている。
68年は「イージーライダー」が公開された年だ。
若者文化が労働者階級にまで浸透していなかった1963年に登場したザ・ビートルズはアバンギャルドにも支持された。
ピエール・カルダンを着用したアートスクール出身の彼等の音楽、ファッションによるインパクトは黒人のプレイするR&B、ホモセクシャルを裏から表にする役割を果たした。
同時にドラッグ、マリファナの使用を「あたりまえ」のように広めた。ビートルズやローリング・ストーンズの登場と成功はイギリスの民主化が進展したこと意味した。
テッズ族が時代遅れになり、変わって労働者階級から発生したロッカーと中産階級(ミドル)を中心としたモッズが台頭する。
モッズの典型的なスタイルはカラフルでスエードブーツ、リーバイス、マドラスやストライプタイプチェックのジャケット、スクーターで、洗練され、消費主義に徹していた。音楽的にはR&B、ニューソウル、スカ、M.J.Qなどのトラッドジャズを好んでいた。
一方、黒で固めた野卑なロッカーは革ジャン、鉄鋲、リーバイスにバイク、ロックンロールを愛好。64年に両者の抗争が起こるが、これは階級闘争に根ざしたものだ。
女王陛下の国、階級社会のイギリス
さてイギリスを語る場合にはずせないのが「階級社会」というキーワード。
これは現代の日本人には理解できないのではないか?知識、理屈として知っても実感できない。
19世紀に産業革命を興した資本主義の先進国という点から観ても、進んでいるはずの国なのに?と不可解だ。
言ってるだけと違うのかと思うのも無理がない。イギリスの階級は上流(アッパー)、中産(ミドル)、労働者(ワーキング)さらに失業者などのアンダー層に大別できる。現代社会においてこのような区別が本当に存在しているのかというのは、実のところ不明なのだ。
しかし薄れる方向に向かっているもののクラスによって発音まで違うという厳然たる事実もある。
不透明感が拭えない一つの理由は厳然たる世襲制の貴族が存続しているからだろう。
また政治的にも労働者の権利を守るための労働党が存在しているのも大きな理由だ。
このような党があるのは、いまではイギリスと、イギリスの兄弟のようなオーストラリア、ニュージーランドだけだ。
オーストラリア、ニュージーランドの英語の発音はイギリスのワーキングクラスと同じだ。
日本人は大抵暮らし向きで判断するが、イギリスではそうではない。
収入は関係なく、職業による区別がなされている。
イギリスにおける労働者階級の出世の道というのは極めて狭い。
頼りになるのは仲間=「族」ということになる。
仲間の敵は同じ階級ではない、違う階級だ。
要するに根底から違う価値観のぶつかりであり 、違う価値観には排他的にならざるを得ない。
「土曜の夜と日曜の朝」「長距離ランナーの孤独」などに代表される「怒れる若者たち」というフレーズはイギリスのものだ。
1979年から約12年、マーガレット・サッチャー女史が今世紀最長の連続で首相を務め、ぐらつく福祉国家を鉄の意志で救う。
イギリスが世界の経済に貢献するのはケインズ以来とも言われているが「サッチャリズム」で永い経済の混迷から脱出をする過程で、国有企業の民営化によるコストダウン、失業率はうなぎのぼりとなる。
一方、国営住宅の払い下げなど労働者階級を救う政策を展開する。結果的に労働者階級の意識が、それまでの「どうせどうにもならない」から「やればチャンスはあるんだ」というふうに意欲的な傾向に変化するが、10人にひとりが失業する事態を経験した労働者階級に属するロック野郎はサッチャーが嫌い(?)なせいか、音楽的にコンセプトの変化は起こっていない。
イギリスではロックは労働者階級の音楽である。ポール・マッカートニーやエルトン・ジョンのようにその功績により、世襲できない一代貴族になる例もあるが、その大半は労働者階級出身だ。
レディオ・ヘッド、スーパーグラスあるいはピンク・フロイドなど中産階級(ミドルクラス)のロックバンドは少ない。
大学卒が全体の2割程度しかいないイギリスであるがゆえに、レディオ・ヘッドがオックスフォード卒という理由だけでの工業都市マンチェスター出身のオアシスなどから口撃されるのはそのためだ。
労働運動や自由貿易主義を展開していったマンチェスターのサッカー好きな人々はクリケットや乗馬を愛好するアッパーやミドル階級が嫌いなのだ。
イギリスが独特の過激なカルチャーを発信しているのは、このためだと言える。
アメリカの資本主義に蠢く人種差別とベトナム戦争、イギリスの階級区別や北アイルランド問題。ロックンロールの歴史は表向きの喧噪の裏で、時代、時代のもがきとともに育ってきた。
表現するものにとっても、表現されたものに触れるものにとっても同じだ。
毎年「エルヴィス国際会議」がミシシッピ大学で行われている。エルヴィス PRESLEYとはアメリカにとって何だったのか?世界に何を与えたのか?その再研究がなされているが、ロックの思想を倫理感として生活する人たちが増える現在、もっとロックそのものの研究が広義に正しく掘り下げて行われる必要がある。
ロックは不良の音楽といわれ続けてきた。
しかしエルヴィスなどのロックンロールは音はそれ以前の音に対して反抗的であっても、詩はそれ以前と変わらないものだった。
しかしローリング・ストーンズの「サティスファクション」などにより、明らかに詩そのものに変化が起こってきた。最初に国家と正面切って対立したのは、キース・リチャーズだった。
そしてアメリカでは、…………
ビートルズやローリング・ストーンズ、彼等イギリス勢の不敵な表情の隙間から発信するパワーに共感を覚えたアメリカ人には、物質主義に対するカウンター・カルチャーの旗手として受け入れられ、全米各地で熱狂的な支持を受ける。
65年にビートルズが外貨獲得の功績により女王陛下から勲章を受けたことで、ロンドンは若者王国として世界中に認知されることになる。しかし、モッズは体制派となったビートルズを軽蔑、
さらにはアナーキーなローリング・ストーンズすらも無視するようになる。
軟派モッズからサイケが発信され、アメリカに上陸する。
サイケは音楽的にはLSDの快感を表現したものとなり、その作品はドアーズ、ジェファーソン・エアプレインに代表される。66年、アメリカ経済は下降しベトナム戦争への介入は泥沼化していく。
同年イギリスも15年間続いた経済成長は終わり、経済危機に陥る。ティーンエージャー市場は壊滅状態となり、失業者が溢れる永い冬の時代に突入する。
この年、エルヴィスは意欲的にゴスペルのアルバムを製作、神々しいまでに昇華されたパフォーマンスは彼のキャリアの中でも光り輝き、アルバムはグラミー賞を獲得する。
ザ・ビートルズも変貌する。
それまでとは趣向を変えた彼等の最高傑作アルバム「REVOLVER」が発表される。
「REVOLVER」が誕生する背景は偶然の積み重ねだと思う。
社会の変化、アジアツアーで得た東洋思想、ボブ・ディランやブライアン・ウィルソン(ビーチ・ボーイズ)の影響、女王陛下の勲章、複数の影響が交差し、彼等の才能が開花する。
エルヴィスがそうであったように、階級社会の底辺で蠢いていたイギリスの若者たちも、ロックンロールで爆破された壁の向こう側に光を見つけた。
そしてモノから精神へロックの重心は移動した。
花ひらくカウンターカルチャー
アメリカには世界有数の消費社会だが消費文化に対する対抗する文化(カウンター・カルチャー)が途切れることなく根強く流れている。
いい人々が自分達の土地から追い出され、路上で放浪させられて、飢えに迫られていく。
故郷を捨て自分達の進む道をカリフォルニアに見出そうとする。
57年に公表されたジャック・ケルアックの「路上」は51年に書き上げられていた。しかし公表されたのはロックンロール全盛の57年になってからだ。
その1年前、1956年、日本では石原慎太郎の「太陽の季節」が出版され、芥川賞を受賞。創設間もない日活映画によって映画化された。
その時、風俗アドバイザーとして製作に関わった石原裕次郎が脇役で出演。そのインパクトを買われ「狂った果実」で主演。またたく間に、日活を代表するスターとなった。
この当時、邦画五社(東宝、松竹、東映、大映、新東宝)は、協定を結んでいた。俳優とは専属契約を交わし、無断で他者作品に出演できないようにしていた。
同時に自社作品を公開する劇場とも契約を交わし、他社作品を公開しないように契約していた。
これらから、契約劇場には、作品を提供し続けなければならず、量産体制をとっていた。
これがプログラム・ピクチャーと呼ばれるシステムだった。毎週自社のスターを主演に使い2本の作品を提供し続けた。1958年には年間500本以上の作品が製作され、入場者数も11億人を超えていた。
量産による駄作も多かったが、抑えられた費用と撮影期間で、名作も数多く製作された。
それはプロフェッショナルの意地が輝いた作品といえるだろう。そこからカルト映画もたくさん誕生した。
しかしテレビが過程に浸透するとともに映画は衰退をたどった。
J-POPS登場
ロックンロール、ブリティッシュサウンド、フォークなど、その時々にアメリカン・ミュージックが輸入され、また日本ナイズされてきた。
J-POPSの最初のヒーローは加山雄三だっただろう。
英語が堪能で最初のアルバムは全曲英語で創って歌われいた。やがて日本語の歌詞がつけられ、大ヒットした。日本語で歌われた国産ポップスのはじまりだった。東京オリンピックの頃だ。
その後荒木一郎など多彩な才能がヒットチャートを飾ったが、そのほとんどは、それまでの音楽業界以外からのアプローチだった。
それらは日本の音楽会の基礎となった。
しかし本当の意味での日本製ロンクンロールは藤圭子ではないだろうか。
やがてアメリカ留学をした竹内まりや など希有な才能が登場した。
以後、 ブランキー・ジェット・シティ、椎名林檎、多彩なジャパニーズ・ポップスが登場しているが、 常に日本語との戦いであるといえる。それゆえの楽しみでもある。
フラワー・チルドレンの社会
60年代後半にはベトナム戦争介入の泥沼化を背景に、サーファー、サイケ、ロッカー、フォークなど大量の人が混然となって逃げ込むようにビート・ジェネレーションのメッカであり、カウンター・カルチャーそのものである「サンフランシスコ」になだれこむ。
それはやがて大きなうねりとなり、ヒッピーとなり爆発する。
暴力的に追い込まれ、凶暴で無意味な日常に不安は高まり、刹那的にドラッグによる幻想へ逃げ込む。
しかしそれが現実的な解決をもたらすわけもなく、悲しみはますばかりだ。
そこには、デニス・ホッパーが名作「イージー・ライダー」で見事に切り取って見せた世界がある。
ニューシネマと呼ばれる作品だ。60年の終わりから70年代はじめにかけて、「卒業」「真夜中のカウボーイ」「M★A★S★H]「いちご白書」「ファイブ・イージー・ピーセス」「俺たちに明日はない」「明日に向って撃て」などが体制に反逆するアンチ・ヒーローが相次いで創造され、映画館のスクリーンに投影された。
路上には「NO NUKES!(核反対)Tシャツはホワイトボードとなり、プラカードが行進する。
いい知れぬ不安と苛立ちはサンフランシスコ発ヒッピーのロックとなって世界にインパクトを与える。
ビート・ジェネレーションの地、サンフランシスコ。
1967年、花の「サンフランシスコ」、夢の「カリフォルニア」が中心になったのは当然のことだ。
ここしかなかったのだろう。
ロックとフォークの融合、それにロンドン発のサイケが加わり、ヒッピーの手によってカラフルな古着が流行する。
そしてロックはメッセージを伝える道具になり、こどもの視点で世界を観ることがコアになった。
自由になろう!花を着よう!楽しもう!フラワー・チルドレンの社会の実現へ向けて「自然に還ろう」というメッセージが反戦機運の高まりとともに広まっていく。
67年、モントレーの広大な土地を利用して五万人を集めたロック史上初の野外ロック・フェスティバルが開催される。
ジミ・ヘンドリクス、ポール・サイモン、ジャニス・ジョプリン等、全員がノー・ギャラで参加した。決定的にロックは変化した。
暴力的に追い込まれて変化するしかなかったのだ。
”I HAVE A DREAM”そして”LOVE&PEACE”
1968年4月マーティン・ルーサー・キング牧師がメンフィスのロレイン・モーテルで暗殺される。
さらに6月ロバート・ケネディ上院議院暗殺。
その年のクリスマス、ロックンローラーエルヴィスが復活する。
エルヴィスの『 COMEBACK SPECIAL』がテレビ放送され、全米70%を超える視聴率をゲットした。
I HAVE A DREAMはキング牧師の有名な言葉だったが、エルヴィスはIF I CAN DREAMで番組を締めくくった。
アメリカン・ヒーローの健在を示し、大成功であったものの、時代の流れは変えられない。
その復活は誰も真似のできないロカビリーエルヴィスの最後の姿であり、誰も真似のできないエンタティナーエルヴィスの出発点となった。
1969年8月15日、ニューヨーク州の郊外ウッドストックで空前の野外コンサート「ウッドストック・ミュージック&アート・フェスティバル」が開催され、3日間に45万人が参加した。
社会史の教科書にも出てくるコンサートにはザ・バンド、ジョーン・バエズ、ザ・フーらが参加した。
当初18ドルだった入場券はあまりの人の多さに、「勝手にしゃがれ」状態になり無料となる。
大学生らが仕掛けたビジネスは収拾不能になり、フラワーチルドレンの大集会に変身したのだ。
激しさと寂しさ、そして混乱。
…………大雨、死者、赤ん坊、麻薬、ライフラインのトラブル。
それでもLOVE&PEACEに満ちた3日間はアメリカン・カウンター・カルチャーの檜舞台となった。
しかしアメリカン・スピリットの真髄は路上、ストリートにあることを実証するかのように、コンサートが終わると45万の孤独がウッドストックから吐き出され路上に溢れた。
なぜ、ウッドロックは一度きりだったのか?
ロックンロールの真実が、そこに残された。
さあ、ピンクキャデラックに乗り込んで、ロックンロールに帰ろう。
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